第26話 肉の巨塔バベルと手つかずの晩餐
ホテル『インペリアル・トーキョー』、メインバンケット「孔雀の間」。
天井高十メートルを誇る巨大な空間には、無数のシャンデリアが星雲のように煌めき、床には深紅の絨毯が敷き詰められている。
政財界の大物、有名作家、芸能人。日本を動かすVIPたちが、グラス片手に談笑する光景は、まさに成功者たちの社交場だった。
だが、その会場の中央に、それらの煌びやかさを全て霞ませるほどの、異様なオーラを放つ物体が鎮座していた。
「……な、なんだあれは」
俺――見貫泰三は、須磨跡子の後ろでボディーガードのふりをしながら、口をあんぐりと開けていた。
それは、塔だった。
ただし、石やレンガで積まれたものではない。
肉だ。
薔薇色に焼かれたローストビーフが、幾重にも、幾重にも折り重ねられ、天を衝くような円錐形を形成している。
「ガハハハハ! どうだ見貫! 壮観だろう!」
背後から、聞き慣れた豪快な笑い声が響いた。
タキシードの蝶ネクタイが苦しそうな巨漢、我が『月刊ジャンボ』の編集長・碁鵜海仁だ。
「編集長……これ、一体何キロあるんですか?」
「総重量10キロだ! 名付けて『ローストビーフのバベルの塔』! 筆島専務の肝いりで作らせた、我が社の威信をかけた特注品だぞ!」
「10キロ……!?」
「そうだ! これぞカロリーの権化! 脂身と赤身の黄金比が生み出す、食の摩天楼だ!」
碁鵜は我が子を自慢するかのように胸を張った。
確かに凄い。一枚一枚が丁寧に低温調理された最高級の赤身肉だ。表面には金箔が散らされ、頂上からはグレイビーソースの滝が流れている。
だが、その圧倒的な質量に戦慄している俺の横で、もっと危険な反応を示している人物がいた。
「……ふぅ……ふぅ……」
純白のドレスに身を包んだ平良夏つくしだ。
彼女の瞳孔は極限まで開き、呼吸が荒くなっている。
つい一時間前に2キロのナポリタンを食べたばかりだというのに、彼女の胃袋ブラックホールは既に再起動していた。
「……ターゲット、視認。……肉の石積み構造、及び表面張力の限界値を確認」
つくしが、ふらりと一歩踏み出した。
「……あの塔の制圧には、私の胃袋というダンプカーが必要よ。……今すぐ解体してあげる」
「ちょ、待ってください平良夏さん!」
俺は慌てて彼女のドレスの裾を掴んで引き留めた。
「ダメです! まだ乾杯もしてないんですよ! それに、あれは来賓のお客様用です!」
「……見貫。私の脳は今、動物性タンパク質を渇望している。……ナポリタンの糖質だけじゃ、この会場に充満する『悪意』の計算が追いつかない」
「分かりますけど! 今は我慢してください!」
俺が必死に暴れる猛獣のようなつくしを抑え込んでいると、その騒ぎを聞きつけたのか、会場の奥から冷ややかな視線が飛んできた。
「……騒々しいな」
筆島鋭一専務だ。
仕立ての良いタキシードを着こなし、グラスを片手にこちらを見下ろしている。その周囲には、媚びへつらう取り巻きたちが壁を作っていた。
「ふ、筆島専務! 素晴らしい塔ですね! 会場の誰もが度肝を抜かれております!」
碁鵜編集長が揉み手で近づくが、筆島はフンと鼻を鳴らしただけだった。
「ただの肉塊だ。……だが、これくらいのインパクトがなければ、わが社の五十周年を飾るにはふさわしくないだろう」
彼は『バベルの塔』を一瞥したが、そこには食欲も、料理への敬意もなかった。
あるのは、自らの権力を誇示するための「オブジェ」を見る目だけ。
「……下品な塔だ。だが、大衆にはこれくらい分かりやすい見世物が丁度いい」
筆島はボソリと呟くと、興味なさげに背を向けた。
その言葉を聞いた瞬間、つくしの眉がピクリと跳ねた。
「……やっぱり、気に入らない」
「しっ! 聞こえますよ!」
俺はつくしの口を塞いだ。
だが、俺も同感だった。食べ物を「見世物」呼ばわりする人間に、この塔を作る資格はない。
+++
「……ねえ見貫君。肉もいいけど、本来の目的を忘れないでちょうだい」
須磨跡子が、俺の耳元で囁いた。
そうだった。俺たちはただ肉を食べに来たわけではない。
跡子は不正経理の証拠を、そしてつくしは小田切教授殺害の犯人に繋がる手掛かりを探しに来たのだ。
俺たちは人混みをかき分け、会場の一角にある展示コーナーへと向かった。
そこには、庶凡書房の五十年の歴史を彩るベストセラー本や、作家の直筆原稿などがガラスケースに入れられて展示されていた。
その中で、ひと際荘厳に展示されているものがあった。
『故・小田切耕造教授 最後の手紙』
ベルベットのクロスが敷かれたテーブルの上に、一枚の便箋が置かれている。
その横には、『貴重品につき、お手を触れないようお願いいたします』という注意書きのプレート。
「……これか」
俺とつくしは、その手紙を覗き込んだ。
筆島専務が「友情の証」として誇示していた手紙だ。
万年筆で書かれた流麗な文字。日付は、事件の前日になっている。
『親愛なる筆島君へ。
君の記事を拝読した。実に素晴らしい内容だ。君のような熱意ある記者が、科学の真実を広めてくれることを私は誇りに思う。
近々、君の依頼について良い返事ができるだろう。
追伸:君の好きなレモンパイを用意して待っているよ』
「……なんて友好的な手紙なんだ」
俺は素直に感心した。
小田切教授と筆島専務は、本当に親友だったのかもしれない。文面からは、深い信頼と敬意が滲み出ている。「良い返事」というのは、何かの取材依頼だろうか。
これを見る限り、筆島専務が教授を殺したという事は、まず無いだろう。
「……おかしい」
隣で、つくしが低く呟いた。
彼女は食い入るように、眼鏡のレンズ越しに手紙の筆跡をスキャンしている。
「おかしいって、何がですか? 普通にいい手紙じゃないですか」
「……見貫。あなたは『違和感』を感じない?」
「違和感?」
「……文章の構成、筆圧、インクの滲み具合。……全てが整いすぎている。まるで、教科書の手本のような完璧さ」
つくしは眉間に深い皺を寄せた。
「……小田切教授は、もっと『本能的』な人だった。……思考の速度にペンが追いつかなくて、いつも文字が右上がりに崩れていた。……なのに、この文字は……」
彼女はそこで言葉を切った。
何か決定的な間違いがあるはずなのに、それが何なのか、まだ言語化できないもどかしさ。
脳内のデータベースと、目の前の現実が一致しない「認知的不協和」に、彼女は唇を噛んだ。
「……カロリーが足りない。……思考の解像度を上げるには、圧倒的なエネルギーが必要なの」
+++
時刻は十九時を回っていた。
乾杯の挨拶が終わり、パーティーは歓談の時間に入っていた。
しかし。
誰も、『バベルの塔』に手を付けようとしなかった。
招待客たちは、名刺交換や人脈作りに夢中だ。
「いやあ、先生の次回作、期待しておりますよ」「今度ぜひゴルフでも」といった虚礼の言葉が飛び交い、料理など目に入っていない。
筆島専務もまた、取り巻きたちに囲まれ、自分の功績を誇らしげに語るばかりで、自分が作らせた「肉の巨塔」には背を向けていた。
10キロのローストビーフが、悲鳴を上げていた。
空調の乾いた風に晒され、表面の脂が白く固まり始めている。
肉汁が乾き、鮮やかな薔薇色が、徐々にくすんだ茶色へと変わりつつある。
最高の状態で提供されたはずの命が、誰の胃袋にも収まることなく、ただの装飾品として死んでいく。
「……ひどい」
俺は拳を握りしめた。
食品ロスへの怒り。そして、作り手の思いを踏みにじるような光景。
元ラガーマンとして、そして食べ物を愛する者として、これは許せない冒涜だった。
「……見貫くん」
つくしの声が震えていた。
彼女は、乾いていく肉を見つめながら、限界を迎えていた。
「……肉が、泣いてる。……私の胃袋も、泣いてる」
彼女の体から、力が抜け始めていた。
低血糖による思考停止寸前。
このままでは、彼女の脳はシャットダウンし、手紙の違和感も、事件の真相も、全て闇に葬られてしまう。
俺は、覚悟を決めた。
ここはVIP限定のパーティー会場だ。末端社員が勝手なことをすれば、クビが飛ぶかもしれない。
でも、そんなこと知ったことか。
目の前で美味いものが捨てられそうになっている。そして、相棒が飢えている。
理由はそれだけで十分だった。
「……行ってください、平良夏さん」
俺はつくしの背中を、バンッ! と叩いた。
「えっ?」
「誰も食わないなら、俺たちが食ってやりましょう。……あの塔を平らげて、そのエネルギーで、手紙の違和感も、事件の謎も、全部解いてください!」
俺の言葉に、つくしの瞳に火が灯った。
死にかけていた光が、爆発的な輝きを取り戻す。
「……了解。……任務を受諾する」
つくしはスッと立ち上がった。
純白のドレスが翻る。
彼女は迷いのない足取りで、会場の中央――誰も近づこうとしない『バベルの塔』へと歩み出した。
カツ、カツ、カツ。
ヒールの音が響く。
談笑していた数人の客が、何事かと振り返る。
だが、つくしは止まらない。
巨大な肉の塔の前に立ち、彼女は恭しく、しかし挑戦的に手を合わせた。
その目は、獲物を狙う猛獣のように鋭く、そして慈愛に満ちていた。
「……いただきます」
彼女の声が、静まり返った一角に響いた。
次の瞬間、純白のドレスを纏った捕食者が、肉の巨塔に牙を剥いた 。




