第23話 無意識の逃亡者
「……犯人は、あの人よ」
平良夏つくしの細い指先が、ビュッフェ台の前に立つ一人の男性客を指し示した。
ラウンジの喧騒の中、彼女の声は静かだが、絶対的な確信に満ちていた。
「えっ、あのお客さんが……?」
俺――見貫泰三は、目を丸くしてその人物を見た。
四十代くらいの、穏やかそうな男性だ。家族連れだろうか、一人でケーキを選んでいる姿は無防備そのものに見える。とても子供の風船を盗むような悪人には見えない。
「見貫。……彼の服の『素材』をよく見て」
「素材?」
「……ホテルの空調は乾燥している。そして彼は、化学繊維のシャツの上に、見るからにふんわりとした『天然ウールのセーター』を着ているわ」
つくしは眼鏡を光らせ、カツカツとヒールを鳴らして歩き出した。
俺も慌てて後を追う。
男性客は、トングでショートケーキを皿に乗せようとしていた。
俺たちが近づくにつれ、彼の「背後」の全貌が明らかになる。
「……ああっ!?」
俺は思わず声を上げた。
男性の背中――ちょうど腰のあたりのセーターに、何かが張り付いていた。
鮮やかなピンク色。
長くねじられた耳。
間違いなく、さっき消えたバルーンアートのウサギだった。
「う、嘘だろ……なんであんなところに?」
まるで強力な接着剤で貼り付けられたかのように、ウサギは男性が動いても落ちることなく、ピッタリと背中にしがみついている。
男性本人は、背中の異物に全く気づいていない様子で、鼻歌交じりにケーキを選んでいる。
「……確保しなさい、見貫」
「は、はい!」
俺は男性に近づき、恐る恐る声をかけた。
「あ、あの……失礼します!」
「はい? なんでしょう?」
男性が振り返る。その拍子に、背中のウサギがプルンと揺れた。
俺は素早く手を伸ばし、セーターからウサギを引き剥がした。
バリッ。
微かだが、確かに静電気が弾けるような音がして、ウサギが俺の手に移った。
「えっ? 何ですかそれ?」
男性が目を丸くする。「いつの間に私の背中に……?」
「いえ、その……これ、探していた落とし物でして……」
俺が説明に窮していると、後ろから母親と、泣きはらした目の男の子が駆け寄ってきた。
「ああっ! ウサギさん!」
「よかったぁ! 見つかったんだ!」
男の子が満面の笑みで俺の手からウサギを受け取る。
その光景を見て、周囲の客たちからも安堵の拍手が湧き起こった。
男性客も状況を理解したようで、「いやぁ、お恥ずかしい。全く気づきませんでした」と頭をかいて苦笑いしている。
一件落着。
だが、なぜこんなことが起きたのか?
俺が首を傾げていると、いつの間にか背後に立っていたつくしが、スプーン片手に解説を始めた。
「……クーロン力よ」
「くーろん?」
「……静電気力のこと。犯人は、この乾燥した空気と、摩擦が生んだ『電気のいたずら』ね」
つくしは空中で指を動かし、見えない図を描き始めた。
「……まず、私の予測通り、通路を高速で通過したキリン型ロボットが『ベンチュリ効果』を引き起こし、軽い風船を浮き上がらせた」
彼女は男性客のセーターを指差した。
「……次に、浮遊した風船は、たまたま通りかかったこの男性の背中に引き寄せられた。……ウールのセーターと、ポリエステル製の風船。……この二つの素材は、帯電列において対極に位置する」
つくしの口から、滑らかに科学用語が紡ぎ出される。
「……乾燥した冬場、ウールはプラスに、ポリエステルやゴムはマイナスに帯電しやすい。……つまり、この二つが出会えば、強力な磁石のように引き合う」
「なるほど……! じゃあ、男性が気づかないうちに背中に吸着して、そのまま連れて行っちゃったってことですか」
「……ええ。彼が歩く振動や摩擦で、静電気の結合はさらに強固になったはずよ。……まさに『見えない手』による誘拐劇ね」
つくしは満足げに頷くと、法月支配人が、感動に打ち震えていた。
「おお……なんと……!」
法月は数珠を握りしめ、天を仰いだ。
「目に見えぬ力が、ウサギと人を引き寄せ、そしてまた元の持ち主へと還した……。これぞまさに『縁』の引力。科学という名の仏法が、因果を解き明かしたのですな……」
「まあ、静電気ですけどね」
俺が冷静に突っ込むと、法月は深く頷き、俺とつくしに向かって合掌した。
「平良夏様、見貫様。貴方様たちの慧眼には恐れ入りました。おかげで、ホテルの平穏と、童子の笑顔が守られました」
そして、法月は懐から一枚の封筒を取り出し、俺に手渡した。
「これは、ほんの感謝の気持ちです。……先ほど、平良夏様が仰っていた『天空の癒し・ロイヤルコース』の代金。……当ホテルですべて持たせていただきます」
「えっ!!」
俺は封筒の中身を確認する前に、飛び上がらんばかりに喜んだ。
三万五千円。俺の給料の命綱。
それが、浮いた。
「い、いいんですか!? 本当に!?」
「もちろんです。貴方様たちの働きは、プライスレスな功徳。……これくらい、安いものです」
法月は慈愛に満ちた笑顔を見せた。
俺は心の中でガッツポーズをした。
助かった。本当に助かった。これで今月の生活費が守られた。
ありがとう法月支配人。ありがとう静電気。ありがとうキリンロボット。
「……見貫。浮かれてないで、次」
歓喜に浸る俺の背中に、冷ややかな声が突き刺さった。
つくしだ。
彼女は既に、次の欲望へとシフトしていた。
「……解脱完了。事件もスイーツも、すべて消化したわ」
彼女は膨らんだお腹をさすりながら、少しだけ顔をしかめた。
「……でも、甘味ばかり摂取したせいで、体内の電解質バランスが崩壊寸前。……ナトリウムイオンが不足してる」
「なとりうむ?」
「……塩よ、塩。しょっぱいものが食べたいの」
彼女は法月の方を向き、真顔で要求した。
「……支配人。追加オーダー。『山盛りのフライドポテト』をお願い。……塩多めで」
「えっ、まだ食うんですか!?」
俺は絶句した。
あれだけのスフレとケーキを食べた直後に、揚げ物だと?
甘いものの後にしょっぱいものが食べたくなる「無限ループ」は分かるが、限度というものがあるだろう。
だが、法月支配人は動じなかった。
むしろ、嬉しそうに目を細めた。
「ふふふ……承知いたしました。甘露の後に塩味を欲するのもまた、人体の理。……『精進揚げ(ポテト)』でございますね。すぐに最高のものをご用意させましょう」
「ありがとうございます。……ケチャップとマスタードもつけて」
「御意」
法月は一礼し、厨房の方へ指示を出しに行った。
俺は呆れてため息をついた。
このコンビ、意外と相性がいいのかもしれない。
+++
数分後。
テーブルには、山のように盛られた揚げたてのフライドポテトが運ばれてきた。
黄金色に輝くスティック。表面にはたっぷりと塩が振られ、湯気と共に香ばしい油の匂いが立ち昇る。
つくしは目を輝かせ、フォークを突き立てた。
「……ターゲット、捕捉。……塩分補給を開始する」
サクッ、ホクッ。
小気味よい音を立てて、彼女はポテトを口に運ぶ。
甘さに麻痺しかけていた味覚が、塩気によってリセットされ、新たな食欲が覚醒していくのが見て取れる。
「……ん。このカリウムとナトリウムの交換輸送……。神経伝達速度が正常値に戻っていく感覚……」
彼女は幸せそうにポテトを頬張っている。
窓の外には、美しい夕焼けが広がり、眼下の湖を茜色に染めていた。
平和だ。
そう、思っていた。
あの男が現れるまでは。
カツ、カツ、カツ……。
ラウンジの入り口から、重く、確かな足音が近づいてきた。
給仕ロボットの軽快な駆動音とは違う。
革靴が床を踏みしめる、硬質で威圧的な音だ。
「……誰だ?」
俺はポテトに夢中なつくしの横で、ふと顔を上げた。
逆光の中に、一人の男が立っていた。
よれたトレンチコート。無精髭。そして、獲物を狙う鷹のように鋭い眼光。
その男は、真っ直ぐに俺たちのテーブルへと歩み寄ってきた。
つくしの手が、ピタリと止まった。
口元に運ぼうとしていたポテトが、空中で静止する。
「……平良夏か?」
男の声は低く、地を這うような響きを持っていた。
懐かしさなど微塵もない。あるのは、焼け焦げた鉄のような、冷たくざらついた感情だけだ。
「……科捜研の天才が、こんなところで呑気に芋を食っているとはな。落ちたもんだ」
男がテーブルの前に立ち、俺たちを見下ろした。
その威圧感に、俺は思わず息を呑んだ。ただの客じゃない。この雰囲気、何者だ?
「……荒垣刑事」
つくしが、ポテトを皿に戻した。
その声から、先ほどまでの「食いしん坊」の甘さは完全に消え失せていた。
彼女は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、冷徹な視線で男を見上げた。
「……久しぶりね。……今はただのライターよ」
つくしの表情が、強張っていた。
いつもの「ON」モードの理知的な顔とも、普段の「OFF」モードの眠そうな顔とも違う。
それは、見たくない過去の亡霊と対峙した時のような、強烈な警戒と、隠しきれない緊張の色だった。
俺は直感した。
この男は、ただの知り合いじゃない。
つくしが触れられたくない過去の扉を、こじ開けに来たのだと。
ラウンジの甘い空気が、一瞬にして凍りついた瞬間だった。




