第21話 砂糖が描く因果の地図
「うわぁぁぁぁん!! ウサギさぁぁぁん!!」
50階のラウンジに、子供の悲痛な泣き声がこだましていた。
それは、ただの風船の紛失とは思えないほど、世界の終わりを嘆くような絶叫だった。
俺――見貫泰三は、スーツを着たまま床に這いつくばり、テーブルの下やソファの隙間を必死に探り続けていた。
「くそっ、どこだ……! どこにもないぞ!」
隣では、男の子の母親がオロオロと周囲を見回し、他の客たちも心配そうにこちらを見ている。
そんな中、ホテルの総支配人・法月だけは、祭壇のような顔つきで静かに目を閉じていた。
「……泣くのではありません、童子よ。形あるものはいつか消えゆく……。そのウサギもまた、因果の流れの中で『空』へと還ったのです」
「支配人! 子供相手に説法は通じませんよ! 風船が勝手に消滅するわけないでしょう!」
俺は這いつくばったまま抗議した。
いくらなんでもおかしい。ほんの数分、親子が席を外した隙の出来事だ。
俺は天井を見上げた。吹き抜けの高い天井には、シャンデリアが輝いているだけ。ピンク色の物体が浮遊している様子はない。
「やっぱり、誰かが持ち去ったんじゃ……」
「……見貫。思考が短絡的すぎる」
頭上から、冷ややかな声が降ってきた。
俺が顔を上げると、平良夏つくしが、椅子に深く腰掛けたまま、俺を見下ろしていた。
その手には、巨大な綿あめ――スイーツ曼荼羅における『鉄囲山』の一部が握られている。
「平良夏さん! あなたも探してくださいよ! 目の前で子供が泣いてるんですよ!」
「……うるさい。泣き声は高周波ノイズ。脳の演算処理に負荷がかかる」
彼女は無表情で綿あめを千切り、口に放り込んだ。
ふわ、と白い塊が彼女の舌の上で瞬時に溶ける。
「……この部屋の空調システムを見て。天井高六メートル。上部の排気口へ向かう上昇気流はあるけれど、設定温度二十四度での対流速度は微弱。……ヘリウムガスならともかく、ただの空気で膨らませたバルーンアートが、自力で天井まで舞い上がる物理的エネルギーは存在しない」
彼女は的確に否定した。
言われてみればそうだ。あのウサギは大道芸人が手押しポンプで膨らませていた。中身はただの空気だ。浮くわけがない。
「じゃあ、床に落ちてるはずじゃないですか! でも、ないんですよ!」
「……『ない』んじゃない。……『移動』したのよ。この世界でテレポートはまだ実現されていない」
つくしは眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げた。
その瞳は、泣き叫ぶ子供でも、慌てる母親でもなく、もっと無機質な「何か」を捉えていた。
ウィーン……。
微かな駆動音と共に、黄色い物体が俺たちのテーブルの横を通り過ぎていく。
最新鋭自律走行型AI給仕ロボット、『キリン・マークⅡ』だ。
つぶらな瞳のセンサーカメラを点滅させながら、長い首を優雅に揺らし、他のテーブルへケーキを運んでいく。
「……見貫。あのキリンを追って」
「はあ? ロボットがどうかしたんですか?」
「……動きが、おかしい」
つくしはスプーンの先で、遠ざかるキリンを指し示した。
「……彼らは互いに衝突しないよう、複雑なアルゴリズムで制御されている。……でも、今の個体……ほんの数ミリ、設定された走行ラインから外側に膨らんだ」
「膨らんだ? 避けたってことですか?」
「……いいえ。何かに『干渉』されたのよ」
彼女は食べかけの綿あめを置き、黒いテーブルクロスの上に視線を落とした。
そこには、彼女が先ほどまで格闘していた巨大スフレ『須弥山』の残骸がある。そして、その周囲には、スフレからこぼれ落ちた白い粉砂糖や、ティラミスから飛散したココアパウダーが散乱していた。
黒いクロスの上で、それらの粉末はまるで星雲のように広がっている。
俺が立ち上がり、テーブルに手をつこうとした瞬間。
「……ストップ!!」
つくしが鋭く叫んだ。
俺はビクリとして凍りついた。
「う、動いちゃダメなんですか?」
「……動かないで。呼吸も止めて。……あなたが動くと、このテーブル上の『大気圧配置』が乱れる」
「大気圧配置って……ただの食べこぼしですよ!?」
つくしは俺を無視し、テーブルクロスに顔を近づけた。
眼鏡のレンズが、粉砂糖の粒子を拡大鏡のように映し出す。
「……見て。この粉の散らばり方」
彼女の細い指先が、空中でなぞるように動く。
「……ランダムじゃない。……一定の指向性を持っている」
言われてよく見てみる。
確かに、スフレの周囲に落ちた粉砂糖は、ただ真下に落ちているのではなく、ある一方向に向かって流れるように筋を描いていた。
まるで、川底の砂が水流によって模様を作るようであり、磁石の周りに撒かれた砂鉄が、磁力線を描くようにでもある。
「……これは『風紋』よ」
「風紋?」
「……このラウンジには、人間には感知できないほどの、微弱だが鋭い『風の通り道』が存在する」
つくしは顔を上げ、再び巡回してくる別のキリン型ロボットを目で追った。
キリンは、俺たちのテーブルと、風船が消えた隣のテーブルの間の通路を、滑るように通過していく。
その瞬間。
テーブルの上の粉砂糖が、ふわりと舞い上がり、キリンの進行方向へと吸い寄せられるように動いた。
「……捉えた」
つくしの瞳孔が収縮した。
彼女の脳内で、バラバラだった事象が数式となって結合していく音が聞こえた気がした。
「……流体力学の方程式。ナビエ・ストークス方程式における粘性項と圧力項の相関……。そして、ベルヌーイの定理による圧力差……」
彼女はブツブツと呪文のような言葉を呟きながら、自分の胸ポケットからスマホを抜き取った。
「見貫。撮影開始」
「えっ、何をですか?」
「……現場検証よ。この粉砂糖が描く『因果の地図』と、キリン型ロボットの正確な走行軌道を記録しなさい」
彼女は自分のスマホを俺に渡して、テキパキと指示を出した。
「アングルA、テーブル真上から粉の分布図。……アングルB、床面三十センチの高さから、ロボットと椅子のクリアランス。……アングルC、空調の吹き出し口とロボットのベクトルの交点」
俺は言われるがまま、カメラマンとなってシャッターを切り続けた。
泣き止まない子供、困惑する母親、念仏を唱える支配人。
そんなカオスな状況下で、俺たちは粉砂糖とロボットを激写している。端から見れば完全に不審者だ。
「撮れました! これで何が分かるんですか!?」
「……私の脳内シミュレーションでは、仮説は九割方固まった。でも、残り一割……『確定的な証拠』を弾き出すには、今の私の脳内リソースじゃ足りない」
つくしは悔しそうに眉を寄せた。
「……スフレは空気ばかりで、脳を回すための絶対的なグルコース質量が不足しているのよ。……外部の演算装置を使うわ」
彼女はスマホを操作し、撮影した画像をどこかへ送信し始めた。
宛先を見て、俺は嫌な予感がした。
『リカ』。
元同僚の科捜研研究員、善地リカだ。
「ちょ、平良夏さん! またリカさんに頼むんですか!? この前も『公務員を私的に使うな』って怒られたばかりじゃ……」
「……平穏な補給が脅かされている緊急事態よ。それに、今回はただの解析じゃない。高度な流体シミュレーションが必要なの」
つくしは画面をタップし、メッセージを打ち込んでいく。
『リカ。至急解析求む。添付画像の配置における、移動体=ロボット通過時の気流ベクトルと圧力分布のシミュレーション。……報酬は、このホテル限定「雲上のマカロン・コンプリートBOX十二個入り」』
送信。
既読は一瞬でついた。
そして、すぐに返信が来た。
『却下。今忙しい。ていうか仕事中。あとマカロンなら先週お歳暮でもらったからいらない』
「……なぬ?」
つくしが怪訝な顔をした。
レアなマカロンでも動かないとは、今日のリカは機嫌が悪いらしい。
だが、ここで引き下がるつくしではない。
彼女の目は、獲物を狙う狩人のそれになっていた。
彼女はメニュー表の裏表紙にあった広告をチラリと見ると、高速でフリック入力を再開した。
『……追加報酬。ホテル併設、スパ&エステ「天空の癒し」のロイヤル・アロマ・トリートメント120分コース)。……施術代は、見貫持ちで』
「ぶふっ!?」
俺は変な声を出してむせた。
「ちょ、ちょっと待ってください! ロイヤルって何ですかロイヤルって! ここ、超一流ホテルですよ!? そんなコース、いくらすると……!」
「……三万五千円」
「さ、三万五千円!? 無理無理無理! 俺の給料知ってるでしょう!? 今月ただでさえあなたの追加注文で財政破綻してるのに!」
俺の悲鳴など聞こえないかのように、つくしのスマホが振動した。
リカからの返信だ。
『……しゃーないわね。五分でやるわ。エステの予約番号、後で送っといて』
「……交渉成立」
つくしはニヤリと悪魔的な笑みを浮かべた。
「見貫。泣かないで。子供の笑顔と真実のためよ。……それに、経費で落ちるかもしれないわよ? 『取材費』として」
「落ちるわけないでしょう!! エステですよ!?」
俺は膝から崩れ落ちた。
財布の中身が、風船のようにどこかへ飛んでいく幻覚が見えた。諸行無常とはこのことか。法月支配人の言葉が、今になって胸に刺さる。
「……さあ、これで舞台は整った」
つくしはテーブルに残っていたシュークリーム――『鉄囲山』の残党を口に放り込んだ。
「……リカの解析が来るまでの間、私はこの煩悩の山を片付けておくわ。……食べて心の平穏を取り戻すわ」
彼女は再びスプーンを握り、スイーツ曼荼羅の攻略を再開した。
その背中には、数万円の借金を背負わされた俺の怨念など意に介さない、冷徹な科学者のオーラが漂っていた。
数分後。
彼女のスマホが、着信音を鳴らして震えた。
画面には『ビデオ通話着信:リカ』の文字。
つくしはスプーンを止め、口元のクリームをナプキンで拭うと、静かに言った。
「……出なさい、見貫。答え合わせの時間よ」
俺は震える指で通話ボタンを押した。
画面の向こうには、不機嫌そうな白衣の美女と、そして、消えたウサギの行方を示す決定的な「地図」が映し出されようとしていた。




