第20話 黄色いキリンと諸行無常
その光景は、シュールレアリスムの絵画のようでもあり、近未来のSF映画のようでもあった。
標高の高いホテルの最上階、雲上のラウンジ。
全面ガラス張りの窓から差し込む陽光が、白い床とテーブルクロスを眩いほどに照らし出している。
その光の中を、音もなく滑るように移動する物体があった。
鮮やかなレモンイエローのボディ。
すらりと伸びた長い首。
そして、つぶらな瞳を模したセンサーカメラ。
「……なんだあれ」
俺、見貫泰三は、巨大スフレとの格闘に入っている平良夏つくしの横で、その物体を目で追っていた。
それは、キリンの形をした配膳ロボットだった。
一台ではない。五、六台の黄色いキリンたちが、広大なラウンジの通路を、互いにぶつかることなく複雑な軌道を描いて巡回している。背中にはケーキの乗ったトレーを載せ、優雅に、そして不気味なほど静かに。
「お気づきになられましたか」
背後から、衣擦れの音と共に総支配人・法月が現れた。
剃り上げられた頭が、窓からの光を受けてピカピカと輝いている。彼はうっとりとした表情で、巡回するロボットたちを見つめていた。
「あれは当ホテルの自慢、最新鋭自律走行型AI給仕ロボット、『キリン・マークⅡ』でございます」
「キリン……ですか。まあ、見たままですけど」
「ただの動物のキリンではございませんぞ」
法月は数珠のようなネックレスをジャラリと鳴らし、厳かに人差し指を立てた。
「泰平の世に現れるとされる伝説の聖獣・麒麟。彼らはそれを模しているのです。仏教において、黄色は『中央』を象徴し、最も尊いとされる色。……彼らは、甘露という幸せを運ぶ、天界の使いなのです」
「は、はあ。聖獣……」
俺は引きつった笑みを浮かべた。
最新のAIロボットに、そこまで重厚な宗教的意味付けをするとは。この支配人、やはりただ者ではない。
法月は満足げに頷くと、合掌して去っていった。
「……見貫くん」
呆気に取られる俺を、冷ややかな声が引き戻した。
テーブルに向き直ると、つくしがスプーンを構えたまま、不満げに眉を寄せていた。
「……集中できない。早くこの『須弥山』を崩さないと、自重でしぼんでしまう」
「あ、すみません。どうぞ気にせずお食べください」
目の前には、依然として直径四十センチの巨大スフレがそびえ立っている。
焼きたての熱気と甘い香りが、俺の顔を包み込む。
つくしは食べ続ける。
サクッ……シュワァ。
心地よい音が響く。
表面の焼き目はサクッと軽く、中は淡雪のように柔らかい。
彼女はスプーンいっぱいに掬い取った黄色い泡の塊を、パクりと口に含んだ。
「…………」
咀嚼はない。
舌の上に乗せた瞬間、熱と共に溶けて消えたようだ。
つくしは目を見開き、そして深く、どこか寂しげな吐息を漏らした。
「……儚い」
「えっ? 美味しくないんですか?」
「……味は極上よ。卵黄のコクとバニラビーンズの香りが、メレンゲの気泡一つ一つに閉じ込められている。……でも」
彼女はスプーンで、スフレの断面を突いた。
「……物理的質量が、あまりにも希薄。口に入れた瞬間に消滅する。……これは食事というより、甘い空気を吸っているに等しいわ」
「まあ、スフレってそういうものですからね」
「色即是空……。形あるものは、すなわち空なり。……支配人の言っていたことは、あながち間違いじゃなかったわね」
つくしは少し残念そうにしながらも、次々とスプーンを動かした。
彼女の脳は、もっとガツンとくる質量とカロリーを求めているようだが、これはこれで「前菜」として楽しんでいるようだ。
巨大な山が、見る見るうちに平らにならされていく。
その時だった。
「わあ! すごーい! キリンさんだ!」
隣のテーブルから、子供の歓声が聞こえてきた。
見ると、五、六歳くらいの男の子と、その母親らしき女性が座っていた。
男の子は目を輝かせ、通路を通る黄色いロボットに手を振っている。
「翔太ちゃん。あんまり騒いじゃダメよ」
「だってママ、キリンさんがケーキ運んでるよ!」
「ふふ、そうね。……ほら、さっきロビーでもらったウサギさんを、椅子に座らせてあげて」
母親が指差したのは、男の子が大事そうに抱えていたバルーンアートだった。
細長いピンク色の風船を捻って作られた、可愛らしいウサギの人形だ。入り口で大道芸人が配っていたものだろう。
男の子は「うん!」と頷くと、自分の隣の空いている椅子の上に、そのピンクのウサギをちょこんと置いた。
「ウサギさん、待っててね。僕、ケーキ取ってくるから!」
「そうよ、ウサギさんに席を取っておいてもらって……さあ、行きましょ」
親子は席を立ち、ビュッフェ台の方へと歩いていった。
椅子の上には、ピンク色の風船ウサギがポツンと残されている。
その横を、黄色いキリン型ロボットが、ウィーンという微かな駆動音を立てて通り過ぎていく。
平和な、休日のランチ風景だった。
俺は視線を戻し、つくしの「爆食」を見守ることにした。
彼女はスフレの山をあらかた攻略し、周囲を取り囲む「雲海」――大量の綿あめとシュークリームに手を伸ばし始めていた。
「……綿あめ。……これもまた、砂糖の結晶を糸状にしただけの、空虚な存在」
つくしは、ぬいぐるみの体内に綿を詰め込むように、大きな白いふわふわを口に運んでいる。
「……見貫くん。このコース、カロリー密度が低すぎる。……あとでカツ丼追加して」
「ここはスイーツビュッフェですよ! 空気読めない注文しないでください」
そんな軽口を叩いていた、数分後。
事態は急変した。
「えっ……?」
ケーキの皿を持って戻ってきた隣の親子が、テーブルの前で立ち尽くしていた。
母親が、困惑したように周囲を見回している。
「ない……?」
「ママ? ウサギさんは?」
男の子が椅子を指差す。
俺もつられてそちらを見た。
さっきまで、確かにそこにあったはずのピンク色のバルーンアート。
それが、跡形もなく消えていた。
「ウサギさんがいない! どこ!?」
「あら、そうね。椅子の下とかに落ちたんじゃない?」
母親が慌ててテーブルの下を覗き込む。
だが、そこには何もない。
椅子の上にも、下にも、周りの床にも。
忽然と、姿を消していた。
「うわぁぁぁぁん!! ウサギさぁぁぁん!!」
男の子が火がついたように泣き出した。
ラウンジの穏やかな空気が一変する。
周囲の客も「何事か」と注目し始める。
「誰!? 誰か持って行ったんですか!?」
母親が悲鳴に近い声を上げた。「ちょっと目を離した隙に! ひどい!」
盗難?
俺の正義感スイッチが入ってしまった。
子供の夢を壊すなんて、許せない。
「大丈夫ですか! 僕も探します!」
俺は席を蹴って立ち上がり、親子の元へ駆け寄った。
「落ち着いてください。風船ですよね? 椅子の下とかに落ちてないですか?」
「で、でも、どこにもないんです! さっきまでここに置いてあったのに!」
俺は床に這いつくばり、テーブルの下、ソファの隙間、隣の席の足元まで隈なく探した。
風船だ。軽くてふわふわしている。
割れたのであれば、近くにいた俺は気づくはずだ。
誰かが持ち去ったのでなければ、空調の風で飛ばされた可能性が高い。
「風船だから、どこかに飛んで行ったのかもしれません! 天井の方とか……」
俺は天井を見上げた。高い。吹き抜けになっている。
だが、ピンク色の物体はどこにも浮いていない。
他の客たちにも聞いて回る。
「すいません! ピンク色の風船のウサギ、見ませんでしたか!?」
「いやぁ、見てないねぇ」
「気づきませんでした」
誰も見ていない。
これだけ見通しの良いガラス張りのラウンジで、目立つピンク色の風船が、誰の目にも触れずに消えた?
まるで神隠しだ。
「これはいったい……」
騒ぎを聞きつけた法月支配人が、眉を寄せて近づいてきた。
彼は泣き叫ぶ子供と、必死に探す俺を見て、静かに目を閉じた。
「……これもまた、愛着という執着が生んだ幻なのでしょうか……。形あるものはいつか消えゆく……諸行無常……」
「支配人! 感傷に浸ってる場合じゃないですよ! お客様の荷物がなくなったんです!」
俺は這いつくばったまま、汗だくで抗議した。
くそっ、どこだ。どこに行ったんだ。
誘拐事件の捜査のように、俺は必死に床を這い回る。
その時だった。
「……見貫くん。そこ、邪魔」
頭上から、冷淡な声が降ってきた。
平良夏つくしだ。
彼女は騒ぎなど我関せずといった様子で、スプーン片手に椅子に座ったまま、俺を見下ろしていた。
その口元には、詰めそこなった綿あめの白い欠片がついていた。




