第2話 コンビニの捕食者
「……すーぅ、っーぁー……」
背中から、空気の漏れるような不吉な音が聞こえた。
それはまるで、パンクしたタイヤから空気が抜けていくような、絶望的な響きだった。
俺――見貫泰三の背中に負ぶさっていた平良夏つくしの首が、ガクンと力なく垂れ下がったのだ。
ミルクティー色のショートヘアが俺のうなじにかかり、彼女の眼鏡がずり落ちて、カチャリと俺の肩に当たる。
「おい、平良夏さん! どうしました! しっかりして!」
「……アラート……燃料、残量警告レッドゾーン……。メインシステム、維持困難……」
「はあ!? さっきキャラメル食べましたよね!? あれで復活したんじゃないんですか!」
俺は歩きながら、背中の彼女を揺すった。
軽い。恐ろしく軽い。
成人女性を背負っているはずなのに、中身が入っていない着ぐるみでも運んでいるような錯覚に陥る。生命維持に必要なエネルギーが、彼女の身体から完全に枯渇しようとしているのが肌感覚で伝わってくる。
「……あんなの、焼け石にH₂O……。気休めの蒸発熱にもならない……」
「焼け石に水って言いたいんですね! 変な例えはやめてください!」
「……緊急……緊急ピットイン……」
彼女の細い指先が、震えながら前方の一点を指し示した。
視線の先にあるのは、見慣れたオレンジと緑のストライプ看板。
コンビニエンスストアだ。
本来の目的地である洋食屋『マンモォス』までは、まだ徒歩で十分以上かかる。だが、今の彼女の状態を見る限り、そこまで持たない可能性が高い。このままでは、この変人は本当に俺の背中で冷たくなってしまうかもしれない。
「もぅ、しょうがありませんね!」
俺は彼女を背負い直すと、丹田に力を込めた。
ラグビー部時代、スクラムを組む時に叩き込まれた「踏ん張り」の呼吸だ。
「しっかり捕まっててくださいよ! 舌噛まないように!」
俺は自動ドアへ向かって、ラガーマン仕込みの突進を決めた。
アスファルトを蹴る靴音が、静かな午後の住宅街に響く。背中の彼女は、もはや返事をする気力もないのか、ぐったりと俺の首に腕を回しているだけだった。
+++
ウィーン。
軽快な電子音と共に自動ドアが開く。
店内に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
空調の効いた涼しい風。そして何より、レジ横から漂ってくる揚げ物の匂い。
その瞬間、俺の背中の「荷物」が暴れた。
「……ッ!!」
「うおっ!?」
まるで電気ショックでも受けたかのように、つくしが跳ねたのだ。
さっきまで死にかけていたのが嘘のような反応速度だった。
「……向こう。カロリーの設置反応がある」
「ちょ、急に元気に……」
俺に背負われたまま、つくしは進行方向を指差し、俺の顔をグイグイと押して誘導し始めた。
その指先には、もはや迷いはない。
獲物の血の匂いを嗅ぎつけた鮫かのごとくその指示は、捕食者特有の不気味な静けさと、迅速さを兼ね備えていた。
「右。三十度回頭。……そこ、正面」
彼女が俺を操縦してたどり着いたのは、弁当とおにぎりのコーナーだった。
つくしは俺の背中から降りようともせず、高い視点のまま、陳列棚に手を伸ばした。
カゴを使うなどという余計なアクションは挟まない。
ガサッ。ガサガサッ。
鷲掴みだ。
彼女の手が動くたびに、棚の商品がごっそりと消えていく。
シーチキンマヨネーズ、直火焼きカルビ、鶏五目、明太子、チャーハンおにぎり。
さらに隣の棚から、カスタードクリームパン、チョコデニッシュ、メロンパン。
彼女はそれらを、まるでトランプのカードでも扱うかのように器用に指の間に挟み込み、俺の目の前に突き出した。
「……ホールド」
「役がそろいました! じゃないっつうの!」
文句を言いながらも、俺は両手でそれを受け取るしかなかった。
だが、彼女の進撃は止まらない。
そのまま俺の肩を足場にして、レジカウンターの方へ身を乗り出した。
「……チキン、レッドとレギュラー。あとアメリカンドッグ。……揚げたての方で」
「は、はいっ……」
レジの店員が、目を見開いて硬直している。
無理もない。大柄な男の背中に負ぶさった女が、幽鬼のような顔でホットスナックを注文しているのだ。背後霊と間違われてもおかしくないシチュエーションだ。
俺は必死に作り笑いを浮かべ、財布を取り出した。
「す、すいません! これ全部で! あとホットスナックも急ぎで!」
「袋、いりますか?」
「いりません! すぐ食べるんで!」
会計を済ませる間も、背中のつくしは「……タイムロスは無い。代謝サイクルが停止する……」と呪文のように呟き続けている。
店員から温かいチキンを受け取るや否や、俺は逃げるように店を出た。
+++
店の前の駐車場。
その片隅にある車止めのブロックに、俺はつくしを下ろそうとした。
だが、その直後だった。
バシッ! バリッ!
野獣が獲物の皮を引き裂くような、乱暴な音が耳元で弾けた。
つくしが俺の背中から瞬時に降りた。
すると、俺が抱えていた商品の中からおにぎりを引っこ抜き、包装フィルムを一瞬で剥ぎ取ったのだ。
そして――。
シュボッ。
効果音をつけるなら、それしかなかった。
おにぎりが、消えた。
「……は?」
俺は我が目を疑った。
彼女の小さな口元に、三角形の黒い塊が吸い込まれたかと思うと、次の瞬間にはもう、次のおにぎりの包装を剥いている。
咀嚼していない。いや、しているのかもしれないが、目視確認できない速度だ。
人間が物を食べる動作は、通常「前歯で噛み切り、奥歯ですり潰し、飲み込む」というプロセスを経る。
だが彼女の場合、その工程が圧縮されすぎている。まるで強力掃除機かのようだ。
ハムスターが頬袋に詰めるのとも訳が違う。喉の奥へ、直接物質転送されているかのような消失マジック。
パンが、チキンが、アメリカンドッグが、見る見るうちに彼女の胃袋へ「収納」されていく。
「お、おい! ちょっと待って! 噛んで! しっかり噛まないと喉に詰まりますよ!」
俺が慌てて止めに入ると、つくしはチキンを半分ほど口に咥えたまま、うつろな目で俺を見上げた。
その瞳は、深淵のように暗く、底知れない。
「……うるさい。邪魔しないで」
「あなた、味わってないでしょう!? もったいない!」
「……味わってる。喉越しを」
「喉越し!? 固形物で楽しむ感覚じゃないですよ! それはビールとか蕎麦の時に言うセリフです!」
彼女は「ふん」と鼻を鳴らし、残りのチキンをゴクリと飲み下した。
細い喉が、蛇のように艶めかしく上下する。
「……味覚センサーだけが食事の楽しみじゃない。食道を通る質量感、胃壁が拡張される物理的充足感、そして血中グルコース濃度が上昇していく化学的快感……。それら全てが『味わい』よ」
急に饒舌になったと思ったら、変態だ……食の変態がいる……。
俺が戦慄している間にも、最後のクリームパンが消滅した。
ものの三分だ。
おにぎり五個、パン三個、ホットスナック三種。成人男性の一日分に近いカロリーが、この華奢な身体のどこに消えたというのか。
だが、変化は劇的だった。
今まで死にかけていた彼女の顔に、さっと血の気が戻る。肌に透明感のある艶が生まれ、死んだ魚のようだった瞳に、知性という名の光が灯った。
「……ごちそうさま。初期ブート完了」
つくしは眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げ、俺の方へ向き直った。
そして、値踏みするように俺の身体をジロジロとスキャンし始めた。
上から下へ。そして首元へ。
冷ややかな指先が、俺の首筋の筋肉に触れる。
「……ところで、あなた」
「は、はい? なんですか、改まって」
「私の体重を背負って一キロ近く移動したのに、心拍数と呼吸の乱れが基準値以下。それに、僧帽筋の盛り上がりと、大腿四頭筋の発達が異常ね」
彼女は独り言のように呟きながら、俺の肩をパンパンと叩いた。
「特に、この首の太さ。……常に前方からの強烈なインパクトに備え、衝撃を逃がすのではなく『受け止める』ために鍛え上げられた筋肉の付き方」
「……!」
「あなた、以前は『押す』専門だったでしょ。ラグビーの……そうね、スクラムの最前列。プロップかフッカー」
「なっ……なんでそれを!?」
俺は絶句した。
確かに俺は、大学までラグビー部でフッカー(最前列の中央)を務めていた。
だが、今日はスーツ姿だ。体格が良いとは言われるが、初対面でポジションまで言い当てられたことなど一度もない。
「重心の安定感が、ただの力持ちとは違ったからよ」
つくしは事もなげに言った。
「背負われた時、普通の人は揺れる。でもあなたの背中は、まるで岩盤のように微動だにしなかった。おかげで三半規管が安定して、酔わずに済んだわ。……乗り心地、合格点よ」
そう言うと、彼女は再び興味なさげにあくびをした。
俺は背筋が寒くなるのを感じた。
ただの冷やかしで来た女性だと思っていた。とっつきにくく、手のかかる変人だと。
だが、今の食べっぷりからの洞察力はどうだ。
服の上から筋肉の付き方を見抜き、身体操作の癖から過去の経歴まで演繹する。
編集長が言っていた「変人」という言葉が、現実味を帯びて俺の脳裏をよぎる。
俺の過去をズバリ当てたつくしは、偉そうぶることもなく、再び俺の背中に手をかけた。
また乗る気か。
「とりあえず、大食い前のウォーミングアップは終わったわ」
「嘘だろ……あれだけ食べてウォーミングアップ!?」
「あんなの、アイドリング用の潤滑油。胃の粘膜を保護するためのコーティングよ。……さあ、早く行って。メインディッシュの『マンモォス・カツカレー』が待ってるわ」
俺は天を仰いだ。
彼女の胃袋はブラックホールだ。
さらに恐ろしいのは、摂取したカロリーを即座に脳の演算処理能力(と体温)に変換して消費しているらしいことだ。
この「変人」を連れて行く先は、2.5キロの巨大カレーが待つ店。
それは彼女にとって、食事の場などではなく、単なる「給油所」に過ぎないのかもしれない。
「……はいはい、分かりましたよ。しっかり捕まっててください」
俺は再び彼女を背負い、歩き出した。
背中の重みは変わらない。さっきあれだけ食べたはずなのに、重量が増した気がしないのは何故だ? まさか既に質量保存の法則すら無視しているのか?
俺の足取りは、さきほどよりも数倍重かった。
これから向かうのは、ただのデカ盛り店ではない。
この底なしの捕食者を解き放つ、狩りの現場なのだ。
俺の背中で、つくしが小さく呟いた。
「……速足で行かないと、もう一軒暖簾をくぐるわよ」
「はしご酒か!」
俺たちの凸凹コンビの取材は、まだ始まったばかりだった。




