第19話 煩悩のスイーツ曼荼羅(マンダラ)
エレベーターが上昇するにつれ、俺の鼓膜がツンと詰まったような感覚を覚えた。
表示板の数字が勢いよくカウントアップされていく。20、30、40……そして最上階の50へ。
チン、という軽やかな音と共に扉が開くと、そこは別世界だった。
「うおっ……すげぇ……」
俺――見貫泰三は、思わず感嘆の声を漏らした。
高原リゾートホテル『スカイ・キャッスー』。その最上階にあるラウンジは、全面ガラス張りの「天空の城」だった。
眼下には、緑豊かな高原の森と、鏡のように青空を映す湖が広がっている。雲がすぐ横を流れていくほどの高さだ。
だが、そんな絶景よりも俺の背中に乗っている「お荷物」にとっては、もっと重要なことがあるようだ。
「……見貫くん、酸素濃度が低下してる……。脳へのグルコース供給、急いで……」
背負われた平良夏つくしが、俺の耳元で怨嗟のように囁いた。
ここ数日、取材先が無かったせいで、彼女のエネルギーは枯渇寸前だ。前回のカツオ丼事件での活躍が嘘のように、今はいつもの省エネモード――というより、完全な怠け者に戻っていた。
「分かってますよ。ここが今回の取材先、『プレミアム・スイーツビュッフェ』の会場ですから」
「……スイーツ……糖質……脳のガソリン……」
つくしの目が、眼鏡の奥で怪しく光った。
俺たちがラウンジの入り口に足を踏み入れると、そこには異様な人物が待ち構えていた。
広大なフロアの中央、噴水のように飾られたチョコレートファウンテンの前に、一人の男が直立不動で立っている。
「……よくぞ参られました」
男が厳かに合掌した。
年齢は四十代半ばだろうか。頭は見事に剃り上げられたスキンヘッド。そして身に纏っているのは、高級そうな染物の生地で作られたと思われる、和洋折衷の「作務衣」だった 。
首からは数珠のようなクリスタルネックレスを下げている。
「お待ちしておりました、庶凡書房の皆様。私が当ホテルの総支配人、法月でございます」
法月支配人は、深く、優雅にお辞儀をした 。
ホテルの支配人というより、徳を積んだ高僧のような雰囲気を漂わせている。
「あ、どうも。担当の見貫です。こっちはライターの平良夏で……」
「お静かに」
法月は俺の言葉を遮り、スッと人差し指を立てた。
「ここは天空の浄土。下界の喧騒を持ち込んではなりませぬ。……ここではただ、甘味という名の救済を受け入れ、己が業と向き合う場所なのです」
「は、はあ……」
俺は引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
事前に「変わった支配人がプロデュースしたビュッフェ」とは聞いていたが、ここまで世界観が完成されているとは。
だが、俺の背中のつくしは、そんな演出など意に介さない。
「……ねえ。御託はいいから、早く『本尊』を見せて」
「平良夏さん! 失礼ですよ!」
俺が慌てて諌めようとしたが、法月は怒るどころか、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「よいのです。その飢餓感こそが、生への執着。……では、ご案内しましょう。貴女様の煩悩を昇華させる、究極の曼荼羅へ」
法月がパチンと指を鳴らすと、背後のカーテンがゆっくりと開かれた。
そこには、予約席と思われる円卓が用意されていた。
そして、そのテーブルの上に展開されていた光景に、俺は息を呑んだ。
「な……なんだこれ……!?」
それは食事というより、一種の宗教儀式のための祭壇だった。
中央に鎮座するのは、直径四十センチはあろうかという巨大な耐熱容器。そこから溢れんばかりに膨れ上がっているのは、黄金色に焼き上げられた超巨大スフレだ 。
その高さは二十センチを超え、焼きたての甘く香ばしい湯気が、後光のように立ち昇っている。表面は粉砂糖で薄化粧され、震えるほどに柔らかそうだ。
だが、驚くのはそれだけではない。
その巨大スフレを取り囲むように、無数のスイーツが幾何学模様を描いて並べられていた 。
白い綿あめ、ミニシュークリーム、マカロン、タルト、ムース、ジュレ……。
赤、黄、緑、紫。色とりどりのケーキが、まるで計算され尽くした万華鏡のように、整然と、しかし圧倒的な密度でテーブルを埋め尽くしている。
「これぞ、『天空の城塞・ギガント・スフレと50種のスイーツ曼荼羅』でございます 」
法月が朗々と宣言した。
「中央にそびえるスフレは、世界の中心『須弥山』。その周囲を取り巻く綿あめとシュークリームは、下界を隔てる『鉄囲山』の雲海。……そして、その外側に広がる五十種のケーキは、人の世に渦巻く『百八の煩悩』を表現しております 」
「ぼ、煩悩……?」
「左様。甘美なる誘惑は、すなわち煩悩。……これを全て食し、胃袋という小宇宙に収めた時、人は初めて無の境地……すなわち『満腹』という名の解脱に至るのです」
法月の瞳が、怪しく輝いた。
「さあ、挑みなさい。貴女にこの煩悩の宇宙が飲み干せるか……。これは私からの、甘く切ない挑戦状です」
俺は呆然とした。
デカ盛りにも程がある。スフレだけでホールケーキ三つ分くらいの体積があるのに、周りのケーキ群を含めたら総重量は計り知れない。
しかも、コンセプトが重い。
こんなの、普通なら見ただけで胸焼け、いや、頭焼けしてリタイアだ。
だが。
俺の背中から降りたつくしは、静かにテーブルの前に立った。
彼女の白衣のような上着が、空調の風に揺れる。
その背中からは、先ほどまでの「死にかけ」のオーラは消え失せていた。
「……ふん」
つくしは眼鏡を中指でクイッと押し上げ、冷ややかな視線で「スイーツ曼荼羅」を見下ろした。
彼女の目には、宗教的な畏敬の念など微塵もない。あるのは、獲物を解体する外科医のような、冷徹な分析眼だけだった。
「……中央座標、巨大タンパク質の気泡集合体。……外周部、糖質と脂質の高密度配列」
彼女はスッと右手をかざし、空中で何かを測るような仕草をした。
「……配列パターンはフラクタル構造。……攻略ルートの最適解を算出」
つくしは法月の方を向き、不敵にニヤリと笑った。
「支配人。あなたの教義には興味ないけど……その『物理的質量』には敬意を表するわ」
彼女はテーブルに置かれた巨大な銀のスプーンを握りしめた。
その瞬間、彼女の瞳孔がキュッと収縮する。戦闘開始の合図だ。
「……座標確認。煩悩の平野を制圧し、解脱(完食)して見せるわ 」
彼女の宣言と共に、ラウンジの空気が張り詰めた。
俺はゴクリと唾を飲んだ。
始まる。天空の浄土を舞台にした、冒涜的とも言える爆食の儀式が。
そしてついに、つくしのスプーンは唸りを上げた。
ザクッ。
彼女は躊躇なく、中央の「須弥山」――ギガント・スフレの山腹を抉り取った。
「……いただきます」
彼女の口の中に、巨大な泡の塊が消えていく。
この甘美な浄土で、つくしの胃袋というブラックホールが、煩悩の山を飲み込み始めた音が、金剛鈴のように静かに響き、戦いの開始を告げた。




