第18話 おしゃれなカフェと浅黒肌
店内は、暴風雨の前触れのような静寂に包まれていた。
唯一の出入り口であるガラスドアが、平良夏つくしの手によって開放された。
潮の匂いを含んだ湿った風と共に、ねじり鉢巻をした強面の男たちが、堰を切ったようになだれ込んでくる。
「……よう店長。随分と待たせてくれたじゃねえか」
先頭に立つ白髪交じりの大男が、ドスの利いた低い声で唸った。
逆光で表情は見えないが、その巨大な体躯と、右手に握られた太い棒状の「凶器」が、俺――見貫泰三の恐怖心を最大値まで跳ね上げる。
後ろに続く男たちも、無言の圧力で店内を見回している。手には重そうな風呂敷包み。中身は拳銃か、それとも手りゅう弾か。
「ひ、ひぃぃぃッ!」
店長の草壁が、カウンターの影で頭を抱え、小さく悲鳴を上げた。
やるしかない。
俺は覚悟を決めた。相手は五人、こちらは俺一人(と、戦力外の食いしん坊一人)。勝ち目はないが、時間を稼ぐことくらいはできるはずだ。
俺はラガーマン時代のタックル姿勢をとり、つくしの前に割って入った。
「やめろ! 乱暴するなら俺が相手だ!」
俺は大男の前に立ちはだかり、声を張り上げた。
大男が足を止める。
至近距離で見上げるその顔は、無精髭に覆われ、眉間には深い皺が刻まれていた。まさに歴戦の海の男。その鋭い眼光が、俺をギロリと睨みつける。
「ああん? なんだ兄ちゃん、邪魔だぞ」
「邪魔じゃない! これ以上、店長を怖がらせるのはやめてくれ!」
「怖がらせる? 何言ってんだ?」
大男は怪訝そうに眉をひそめると、持っていた「凶器」を振り上げた。
来る!
俺が身構え、ギュッと目を瞑った、その瞬間だった。
バサァッ!!
風を切る音と共に、俺の頭上で何かが広げられた。
殴られる痛みは来ない。
「……え?」
俺は恐る恐る目を開けた。
そこにあったのは、鉄パイプでも手銛でもなかった。
勇ましい波と太陽、そして巨大な鯛の絵が描かれた、とてつもなく大きな布。
鮮やかな極彩色が俺の視界を覆い尽くした。
そこに躍る文字は、『祝・開店 海猫テラス』。
「……大漁旗?」
俺がポカンと呟くと、大男はニカッと白い歯を見せて笑った。
「おうよ! 漁師町での新しい門出といったら、これしかねえだろ!」
大男は旗を振るうと、それを高々と掲げた。
それに続くように、後ろの男たちも風呂敷包みをテーブルの上にドカドカと置いた。
結び目が解かれる。中から現れたのは、氷漬けにされた巨大な鮮魚たち――真鯛、伊勢海老、そして朝獲れのカツオだった。
「開店祝いだ! 昨日は急用で入りそびれちまったからよ、今日こそ渡そうと思って持ってきたんだ!」
「鮮度は保証するぜ! さっき水揚げしたばかりの極上品だ!」
男たちの顔から、先ほどまでの殺気が嘘のように消え、屈託のない笑顔が溢れ出す。
店内は一瞬にして、襲撃現場から市場の競り会場のような活気に変わった。
「え……ええっ……?」
カウンターの影から、草壁がおそるおそる顔を出した。
眼鏡がずれているのも忘れて、彼は目の前の光景を呆然と見つめている。
「か、開店祝い……? 僕を、殴りに来たんじゃ……?」
「はあ? なんで俺たちが店長を殴らなきゃなんねえんだよ」
大男――地元の漁師網元の源さんが、心底不思議そうに首を傾げた。
「お前さん、昨日は庭から煙が出たって聞いて心配したぞ。ボヤ騒ぎがあったんだろ? 大丈夫だったか?」
「そ、それは……大丈夫でしたけど……」
「そうか、ならよかった」
源さんはポリポリと頭をかいた。
「で、今日は改めて祝いを持ってこようって話になったんだが……いざ店の前まで来ると、とってもお洒落な作りで、ちっと入りにくくてな」
「防波堤で睨んでたのは……?」
「睨んでねえよ! 『誰が先頭切って入るか』で揉めてただけだ! 『お前行けよ』『いや船長が行ってくださいよ』ってな!」
男たちがガハハと笑い合う。
あの殺気立っていた視線の正体は、ただの「入店への照れ」と「押し付け合い」だったのだ。
武器に見えた棒は大漁旗のポール。
殴り込みに見えた行進は、ただの不器用な男たちの祝いのパレード。
草壁はへなへなと座り込んだ。
目から涙が溢れ出し、止まらなくなる。
「嫌われてるんじゃ……なかったんですか……? 僕、よそ者だし……カフェなんてチャラチャラしてるし……」
彼の言葉に、源さんは目を丸くし、それから優しく鼻を鳴らした。
「バーカ。何言ってやがる」
源さんは、窓の外――テラスの庭に飾られた、無数の「ビン玉」を顎でしゃくった。
「爺ちゃんの使い古したブイをよ、こんなに綺麗に飾ってくれる同士を、嫌うわけねえだろ!」
「えっ……」
「ありゃあ、俺の親父……先代の網元が使ってたやつだ。廃品回収に出そうと思ってたのを、お前さんが『譲ってくれ』って持っていった時は、何に使うんだと思ったが……」
源さんは目を細めて、陽の光を受けて輝くガラス玉を見つめた。
「水を入れて、あんな風に並べるとはな。……海の上に浮かんでた頃より、ずっと綺麗じゃねえか。お前さんのおかげで、親父の道具も喜んでるよ」
その言葉は、草壁にとって何よりの赦しであり、賛辞だった。
彼は顔を覆い、子供のように泣きじゃくった。
「ううっ……うわあああん!!」
「おいおい、いい歳した男が泣くんじゃねえよ! 湿っぽくなっちまうだろ!」
「す、すいません……! 僕、勘違いしてて……皆さんを通報しようとしてて……! 本当に……ごめんなさい……!」
草壁は床に手をつき、何度も頭を下げた。
それを見た漁師たちは、困ったように顔を見合わせ、それから豪快に笑い飛ばした。
「ガハハ! 何だかようわからんが、通報なんてされてねえんだから、ノーカウントだ!」
「それより店長、せっかくの祝い魚だ。捌いてくれよ! 一杯やろうぜ!」
店内は一気に祝宴ムードに包まれた。
誤解が解け、わだかまりが消えた空間には、温かい空気が満ちていた。
俺も全身の力が抜け、大きなため息をついた。
よかった。
本当に、よかった。
つくしが「通報」と「バリケード」を止めていなければ、今頃ここは修羅場になっていただろう。彼女の冷静な計算と判断が、この結末を導いたのだ。
俺は感謝を伝えようと、横にいる相棒の方を向いた。
「平良夏さん、さすがですね。あなたの言った通りでし――」
言いかけて、俺は言葉を止めた。
つくしは、感動的な和解のシーンなど全く見ていなかった。
彼女はテーブルに戻り、空になった皿と、メニュー表を交互に睨みつけていたのだ。
その表情は、不機嫌そのものだった。
「……騒がしい」
彼女はボソリと呟いた。
「感情エネルギーの無駄な発露。……泣く暇があるなら、感謝を料理で表現しなさい」
彼女にとっては、男たちの友情ドラマよりも、食後の余韻を邪魔されたことの方が重大事らしい。
つくしはスッと立ち上がり、泣き腫らした目で笑っている草壁のもとへ歩み寄った。
「……店長さん」
「は、はい! つくしさん、本当にありがとうございました! あなたのおかげで、僕はこの町でやっていけます!」
草壁が感謝感激の面持ちで手を握ろうとするが、つくしはそれをスッと躱した。
そして、冷徹に掌を差し出した。
「感謝の言葉はカロリーにならない。……まだいけるわよ」
「えっ?」
「追加オーダー。……『自家製リコッタチーズと季節のフルーツパンケーキ(千八百円)』。」
俺はズッコケそうになった。
まだ食うのか。
3.5キロの丼、巨大味噌汁、タルト。それらを平らげた直後に、パンケーキだと?
「ちょ、平良夏さん! いくらなんでも食べ過ぎです! それに、もう事件は解決したじゃないですか!」
「……黙らっしゃい」
つくしは俺を鋭く睨みつけると、口元を指差した。
「……治療費が必要なの」
「治療費? 怪我なんてしてないでしょ」
「……したわ。口内炎ができた」
「はあ?」
「あの『収れん火災』の推理をした時、庭からの強烈な反射光を至近距離で浴びた。……その熱エネルギーで、私の口腔粘膜に微細な炎症が発生したのよ。……これは労災」
とんでもない言いがかりだ。
ただデザートが食べたいだけの口実なのは明白だった。
しかし、彼女の顔は大真面目だ。
「……ビタミンB群と、良質なタンパク質、そして幸福感という名のスイーツ鎮痛剤が必要不可欠。……今すぐに」
俺がツッコミを入れようとした時、草壁が満面の笑みで叫んだ。
「はい! 喜んで!!」
彼は涙を拭い、エプロンの紐を締め直した。
「命の恩人のためなら、パンケーキでもパフェでも、店にある材料全部使って作りますよ! 漁師さんたちも、好きな物をなんでも言ってください」
「おう! 俺ら下戸だからな! 甘いもんも歓迎だ!」
源さんたちも手を叩いて賛成した。
なんてことだ。この場にいる全員が、つくしの食欲の共犯者になってしまった。
つくしはニヤリと笑い、ソファに深々と座り直した。
その顔は、難事件を解決した名探偵の顔ではなく、これから運ばれてくる獲物を待つ、ただの食いしん坊の顔だった。
+++
数十分後。
カフェのテーブルには、再び山のような料理が並んでいた。
漁師たちが持ってきた新鮮なカツオの刺身。
そして、つくしの目の前には、三段重ねの分厚いパンケーキタワー。
雪崩のような生クリームと、色とりどりのフルーツが添えられ、メープルシロップの甘い香りが漂っている。
「……ターゲット、ロックオン」
つくしはフォークとナイフを構え、瞳を輝かせた。
「パンケーキの多孔質構造に浸透するシロップの浸透圧……。そしてリコッタチーズの乳脂肪分……。完璧な『治療薬』ね」
彼女は大きく切り分けたパンケーキを、一口でパクリと頬張った。
「……ん~~~っ!」
つくしの頬が緩み、今日一番の幸せそうな声が漏れた。
眼鏡が湯気で曇り、口の端にクリームがついている。
周りでは、漁師たちと草壁が、コーラとオレンジジュースで乾杯し、笑い合っている。
「よかったですねぇ、平和で」
俺はアイスコーヒーをすすりながら、その光景に目を細めた。
当初の予定とはだいぶ違ったが、結果オーライだ。
誤解も解け、店も守られ、素晴らしい記事のネタもできた。
「……見貫。ぼーっとしてないで、シロップ追加」
「へいへい」
俺はつくしの皿にメープルシロップを注ぎ足した。
彼女の胃袋は底なしだ。
この小さな体のどこに、これだけの質量が消えていくのか。それはもしかしたら、今日の収れん火災の謎よりも深い、人体の神秘なのかもしれない。
「……あー、美味しかった」
しばらくして、パンケーキの皿も空になった。
つくしは満足げに膨らんだお腹をさすり、大きなあくびをした。
「……血糖値、規定値オーバー……。スリープモードへ移行する……」
「おっと」
ガクン、と傾いた彼女の頭を、俺は慣れた手つきで支えた。
急速シャットダウン。
いつものパターンだ。
「……おやすみ……次の料理が運ばれてきたら起こして…………」
「まだ食う気かよ」
俺は苦笑し、眠りに落ちた相棒を背負い直した。
ずしりとした重み。
それは、3.5キロの丼とパンケーキの重さであり、同時に、この奇妙な名探偵との絆の重さでもあるような気がした。
「店長さん、ごちそうさまでした。また記事ができたら送りますね」
「はい! ぜひまた来てください! 今度はもっとデカ盛りを用意しておきますから!」
草壁と漁師たちの見送りを受け、俺たちは店を後にした。
外に出ると、夕日が海をオレンジ色に染めていた。
庭のビン玉たちが、夕日を受けて優しく輝いている。
もう、火をつけるような鋭い光ではない。温かく、人々を繋ぐ灯台のような光だった。
俺の背中で、つくしが寝言を呟いた。
「……治療費……領収書……忘れずに……」
俺はため息をつきつつも、どこか晴れやかな気分で歩き出した。
第3章 完
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