第17話 集まる光、拡散する疑念
「だ、ダメだ……もう終わりだ……!」
漁師の集団が店前まで来た
店長の草壁さんがカウンターの下で頭を抱え、震えている。
緊迫した空気。張り詰めた緊張の糸が、今にも切れそうになったその瞬間。
「……見貫くん。そこ、邪魔」
背後から、冷ややかで、場違いなほど落ち着いた声が聞こえた。
平良夏つくしだ。
俺が驚いて振り返ると、彼女は暴徒など眼中にないといった様子で、テラス席の窓際へと歩み出ていた。
その手には、先ほどまでデザートを食べていたフォークではなく、俺の胸ポケットから抜き取ったボールペンが握られている。
「平良夏さん!? 下がっていてください! 危ないです!」
「……危ないのは、あなたたちの思い込みよ」
つくしは窓の外を一瞥し、カツカツとヒールを鳴らして、昨日のボヤ騒ぎがあった焦げ跡の正面に立った。
「草壁さん。110番通報の手を止めて、よく聞きなさい」
「えっ、は、はい……?」
「あなたが恐れている『放火魔』なんて、この町のどこにも存在しない。……少なくとも、人間の形はしていないわ」
彼女はボールペンを指揮棒のように振り上げた。
その瞬間、彼女の纏う空気が変わった。
先ほどまでの、食欲魔人の面影はない。そこにいるのは、事象を冷徹に解析し、真実のみを抽出する科学者だ。
「見貫くん、コンパス代わりになりなさい。そこに立って」
「はあ!? 俺は今、バリケードとして……」
「いいから立つ。……座標、X軸35、Y軸12。その角度から庭の『ビン玉』を見て」
有無を言わせぬ迫力に押され、俺は言われた位置に立った。
そこからは、庭に飾られた無数のガラス製ブイ――ビン玉がよく見えた。
大小様々な青や緑のガラス玉が、午後の強い日差しを浴びてキラキラと輝いている。草壁が「海の中にいるみたいで綺麗でしょう」と自慢していたオブジェだ。
「……見えますけど、これがどうかしたんですか?」
「そのビン玉の中に、何が入っていると言っていた?」
「えっと、水ですよね。風で飛ばないようにって」
「そう。水よ」
つくしはカツリと靴音を鳴らし、窓ガラスに指を這わせた。
「中空のガラス球なら、光はただ透過するか、表面で反射するだけ。……けれど、中に水という媒質が満たされた瞬間、それは単なるオブジェではなくなる」
彼女は空中に巨大な円を描いた。
「水が入った球体。……それは物理学的に言えば、『凸レンズ』そのものよ」
「レンズ……?」
草壁が顔を上げた。
「小学生の理科で習ったでしょ? 虫眼鏡で太陽の光を集めて、黒い紙を燃やす実験。……あれと同じ現象が、昨日、あなたの庭で起きたのよ」
つくしは流れるような動作で、左手で「見えないそろばん」を弾き始めた。
パチ、パチ、パチパチッ!
高速で指が動く。脳内のスーパーコンピューターが、恐るべき速度でシミュレーションを行っているのだ。
「……昨日の出火時刻は午後二時前後。昨日の天気は快晴。……当時の太陽の方位角と高度を計算……」
彼女の口から、呪文のような数値が溢れ出す。
「……太陽光の入射角θに対し、屈折率1.33の水球レンズが形成する焦点距離fは、球の半径Rの約1.5倍の位置に収束する。……ビン玉の直径は約30センチ。つまり半径Rは15センチ」
パチンッ!
そろばんを弾く手が止まった。
「焦点距離は、球の中心から約22.5センチ後方。……見貫、そのビン玉の後ろ、20センチから30センチの場所に何がある?」
俺は目を凝らした。
一番大きな、水色のビン玉。
その後ろにあるのは――。
「……ウッドデッキの、手すりの柱です。……ああっ!」
俺は声を上げた。
その柱の根元。そこには、昨日のボヤで炭化した、黒々とした焦げ跡があった。
位置関係が、あまりにも完璧に一致していた。
「そ、そんな……」
草壁がふらりと立ち上がり、窓に駆け寄った。
「じゃあ、放火じゃなくて……このビン玉が、太陽の光を集めて火をつけたって言うんですか!?」
「ご名答。専門用語で『収れん火災』と言うわ」
つくしはボールペンを胸ポケットにしまい、眼鏡を中指でクイッと押し上げた。
「冬の太陽は高度が低い。そのおかげで、光は真上からではなく、横から差し込む形になった。……それがレンズの役割を果たしたビン玉を通り、焦点がウッドデッキの枯れ草や乾燥した木材にジャストミートした。……不幸な偶然が重なった、自然発火現象よ」
彼女は草壁の方を向き、諭すように言った。
その声色は、先ほどまでの冷徹な響きの中に、ほんの少しだけ哀れみを含んでいるように聞こえた。
「草壁さん。あなたは言ったわよね。『この土地の廃材を活かして、店を景色に溶け込ませたかった』と。漁師さんたちの文化であるビン玉を、あれほど美しく飾ったのは、あなたのこの町への愛着そのものだったはず」
「あ……」
草壁の目から、涙が溢れ出した。
「でも、その愛が皮肉にも仇になった。……漁具を美しく見せようとして水を入れた、あなたの工夫が、火種を生んでしまったのよ」
静寂が落ちた。
外の喧騒が、一瞬遠のいたように感じられた。
草壁は窓枠に手をつき、泣き崩れるように膝をついた。
「僕の……せいだったんですか……。漁師さんたちは関係なかった……。誰も、火なんてつけてなかったんだ……」
安堵と、自己嫌悪。そして申し訳なさ。
様々な感情が入り混じった嗚咽が、彼の口から漏れた。
恐怖のあまり「よそ者に冷たい地元民」というレッテルを貼り、彼らを犯人扱いしてしまった自分への恥辱。
もしつくしが止めていなければ、彼は無実の漁師たちを通報し、この町での居場所を永遠に失っていただろう。
「謎は解けたわ。……計算式に、悪意という変数は存在しなかった」
つくしは静かに宣言した。
俺もまた、肩の力が抜けるのを感じた。
よかった。事件じゃなかったんだ。誰も悪くなかったんだ。
だが。
現実は、数式ほど綺麗には終わってくれなかった。
ドォォォォンッ!!
凄まじい衝撃音が、店全体を揺るがした。
感傷に浸っている場合ではなかった。
窓の外の漁師たちが、ついに痺れを切らしたのだ。
「おい店長ォッ! いるのは分かってんだぞ! 今すぐ出てこんしゃい!」
「開けろ! 扉が壊れっぞ!」
怒号と共に、ドアノブがガチャガチャと激しく回される。
鍵がかかっているため開かないが、ガラスが割れるのは時間の問題だ。
「ひぃぃっ!!」
草壁が再び悲鳴を上げて飛び退いた。
顔色が、一瞬で蒼白に戻る。
「ど、どうしましょうつくしさん! 放火の誤解は解けましたけど、彼らが怒ってるのは事実です! やっぱり襲撃されるんじゃ……!」
「……そうね。物理的な脅威レベルは、依然としてレッドゾーンだわ」
つくしは冷静に分析しながら、ドアの方を見た。
俺は再び身構えた。
誤解だったとしても、今この瞬間、彼らが興奮状態にあるのは変わらない。話し合いで解決できるレベルを超えているように見える。
「見貫さん、バリケードを! テーブルを積み上げて……!」
「い、急ぎましょう!」
俺が近くのテーブルに手をかけた、その時だった。
カツ、カツ、カツ。
つくしが、歩き出した。
避難する方向ではない。
暴徒と化している漁師たちが待ち受ける、入り口のドアに向かって。
「た、平良夏さん!? 何してるんですか!」
俺は叫んだ。
だが、彼女は止まらない。
3.5キロの丼と伊勢海老味噌汁でフル充填された彼女の脳は、恐怖という感情回路をバイパスし、最短距離での「解決」を選んだようだった。
「……私の計算では、このドアの強度はあと三回の衝撃で限界を迎える」
彼女はドアの前で立ち止まり、鍵に手をかけた。
「ガラスが割れて飛散すれば、店内の被害係数は跳ね上がる。……ならば、開門するのが熱力学的に最もエネルギーロスが少ない」
「理屈がおかしいですよ! 開けたら俺たちがタタキに……!」
「……見貫。盾になる準備はいい?」
「えっ」
彼女は振り返らずに言った。
「私が計算ミスをした時は、あなたの筋肉壁だけが頼りよ。……しっかり守りなさい」
それは、信頼なのか、単なる丸投げなのか。
俺が返事をする間もなく、彼女の指がサムターンを回した。
ガチャリ。
硬質な金属音が、静まり返った店内に響いた。
次の瞬間。
バンッ!!
勢いよくドアが開かれた。
強烈な海風と共に、男たちの熱気がドッと流れ込んでくる。
先頭に立っていた大男が、ヌッと店内に足を踏み入れた。
逆光で顔が見えない。ただ、その巨大なシルエットと、手に握られた太い棒のようなものだけが、禍々《まがまが》しく目に映った。
「……よう店長」
地を這うような低い声。
後ろに続く男たちも、ゾロゾロとなだれ込んでくる。その手には、不気味な風呂敷包みが抱えられている。
終わった。
俺は覚悟を決めた。
草壁は「うわあああ!」と叫んでカウンターの裏に隠れた。
だだっ広い店内で、平良夏つくしだけが、仁王立ちする男たちの前に立ちはだかっていた。
彼女は小さな体を一歩も引かず、眼鏡の奥の瞳で、真っ直ぐに男たちを見上げている。
「……いらっしゃい。ご用件を聞こうかしら」
彼女の声は、震えていなかった。
一触即発。
開店したばかりのカフェの命運は、この予測不能な「客」たちと、燃費の悪い名探偵の対峙に委ねられた。




