第16話 脳内の方程式と暴徒の幻影
窓の外の景色が、一変していた。
穏やかな午後の港町、キラキラと輝く海。そんなのどかな風景を背に、防波堤からこちらに向かってくる集団の姿は、あまりにも異様だった。
「き、来ます……! 奴らが来ます!」
店長の草壁が、カウンターの陰に身を隠しながら悲鳴を上げた。
彼の指さす先には、五、六人の男たちがいた。
全員がねじり鉢巻にゴム長靴、日焼けした浅黒い肌を持つ、屈強な海の男たちだ。彼らは肩を怒らせ、何かを大声で怒鳴り合いながら、一直線にこのカフェへと向かってきている。
「み、見貫さん! あれ、手に何か持ってませんか!?」
草壁に指摘され、俺は目を凝らした。
先頭を歩く、一際体格の良い白髪交じりの男。彼の手には、太くて長い棒のようなものが握られている。その後ろの男たちも、風呂敷のような布に包まれた何かを抱えている。
「……武器、ですかね?」
「間違いありません! あの長いのは、魚を突くための『手銛』か、店を叩き壊すための鉄パイプです!」
草壁は顔面蒼白になり、ガタガタと震え出した。
「やっぱり……やっぱりそうなんだ! 昨日のボヤ騒ぎは警告だったんです。店が燃えなかったから、今度は直接乗り込んで、僕をこの町から追い出すつもりなんだ……!」
「落ち着いてください店長さん! まだそうと決まったわけじゃ……」
「決まりですよ! 見てください、あの殺気立った目を! よそ者の僕なんて、最初から邪魔だったんだ!」
被害妄想が暴走しているようにも見えるが、確かに男たちの表情は険しい。眉間に深い皺を寄せ、口角を上げ、獲物を追い詰めるような鋭い眼光を放っている。
ドカ、ドカ、ドカ。
重い足音が、芝生の庭を踏みしめる音まで聞こえてきそうだ。
「だ、ダメだ……殺される……!」
草壁はパニックに陥り、震える手でポケットからスマートフォンを取り出した。
「け、警察……! 110番しないと! 早く呼ばないと、店がめちゃくちゃに……!」
彼は画面をタップしようとするが、指が震えてうまく操作できない。
俺もどうするべきか迷った。
もし本当に襲撃なら、警察を呼ぶのは正しい。だが、もし誤解だったら? いきなり通報なんてしたら、地元住民との溝は決定的になってしまう。
だが、男たちはもうテラスのすぐそこまで迫っている。
「くそっ、繋がれ……!」
草壁がようやく通話ボタンを押そうとした、その時だった。
スッ。
横合いから伸びてきた白く細い手が、草壁の手首を掴んだ。
華奢な見た目からは想像もつかないほど、万力のように強い力だった。
「ひっ!?」
草壁が驚いて顔を上げる。
そこにいたのは、平良夏つくしだった。
つい先ほどまで、総重量3.5キロのカツオ丼と、追加の伊勢海老味噌汁、さらにはデザートのタルトまで食らい、膨大なカロリーを摂取したばかりの彼女だ。
今の彼女に、満腹で眠くなるような隙は微塵もない。
背筋はピンと伸び、飛び出たお腹を隠すことなく白衣のような上着を凛と羽織り、眼鏡の奥の瞳は冷徹な光を放っている。
「……早まらないで」
つくしは静かに、しかし絶対的な命令口調で言った。
「え、えっ? でも、つくしさん! 彼らがもうそこに!」
「見えているわ。網膜に映る映像信号は、正常に脳へ伝達されている」
彼女は草壁の手首を掴んだまま、窓の外の男たちを一瞥した。
「火をつけたのは、彼らじゃない」
「は……?」
草壁と俺の声が重なった。
つくしは草壁の手からスマホを取り上げ、テーブルの上にコトリと置いた。
「感情的バイアスで判断を曇らせないで。……恐怖は、眼前の事象を歪曲させるノイズよ」
「で、でも! ボヤがあったのは事実で、彼らは僕を嫌っていて……」
「嫌っているかどうかと、放火犯かどうかは別の問題。……物理法則は嘘をつかない」
つくしはゆっくりと立ち上がった。
つい先ほど彼女が摂取した栄養が、彼女の脳を爆発的に活性化させているのが、俺には肌で感じられた。
彼女の周りだけ、空気が張り詰めている。
まるで、精密機械が稼働を始める前の、静かな唸りを聞いているようだ。
「……見貫くん」
「は、はい!」
「あの庭の配置。昨日の出火時刻。……そして、太陽の方角」
彼女は窓の外、ウッドデッキの焦げ跡と、その周囲に飾られた無数のガラス玉を指差した。
「……すべての変数は揃った。これより、証明を開始する」
つくしはテラスの中央に進み出ると、窓の外に背を向け、店内を見渡すように立った。
そして、両手を胸の高さに掲げた。
奇妙な構えだった。
まるでオーケストラの指揮者のようでもあり、魔術師が呪文を詠唱する前のようでもある。
「……思考演算領域マインド・スペース、展開」
彼女が呟くと同時に、その両手が動き出した。
右手の人差し指と中指を揃え、空中に走らせる。
そこには何もないはずなのに、俺には見えた気がした。
彼女の指先がなぞる軌跡に、白く輝く数式が刻まれていく幻影が。
『θ(シータ)=arcsin(sinφsinδ + cosφcosδcosω)……』
『焦点距離f = R × n / (2(n - 1))……』
右手はペンのように、複雑な幾何学図形と物理公式を、猛烈な速度で空間に記述していく。
それは、太陽高度の計算式であり、レンズの結像公式であり、熱力学の方程式だった。
彼女の口元が、早口でブツブツと数値を刻む。
「……北緯三十五度……昨日の南中高度……入射角四十五度……ガラスの屈折率1.5、水の屈折率1.33……合成屈折率による焦点距離の補正……」
そして、左手。
左手は親指と人差し指を細かく動かし、見えないそろばんの珠を弾いているようだ。
パチ、パチ、パチパチッ!
乾いた音が聞こえてきそうなほど、正確でリズミカルな動き。
右手が描き出した数式に、左手が具体的な数値を代入し、恐るべき速度で解を導き出していく。
アナログとデジタル。
理論と計算。
二つの処理が、彼女の脳内というスーパーコンピューターの中で並列処理され、スパークしている。
「……エネルギー密度、臨界点突破。……発火点への熱量収束、確認」
店長の草壁は、ポカンと口を開けてその様子を見守っていた。
恐怖も忘れたように、ただ圧倒されていた。
無理もない。
いま目の前にいるのは、ただの大食い女ではない。
IQ200超えの頭脳を持ちながら、燃費が悪すぎて普段はポンコツに甘んじている、元・科学捜査の天才。
その真の姿が、いま顕現しているのだから。
パチンッ!
つくしが左手の見えないそろばんを、強く弾いた。
計算終了の合図だ。
同時に、右手が空中に『Q.E.D.(証明終了)』の三点を打ち込む動作をした。
「……解けた」
つくしは眼鏡のブリッジを、中指でクイッと押し上げた。
その動作と共に、彼女が纏っていた科学者の冷徹なオーラが、探偵の自信に満ちたそれへと変わる。
彼女はゆっくりと振り返り、この店へ迫りくる漁師たち――そして、怯える草壁を見据えた。
「犯人は人間じゃない。……物理現象という名の、不可抗力のいたずらよ」
彼女は片方の口角を上げ、不敵な笑みを浮かべた。
その笑顔は、最高級の料理を味わった後のような満足感と、難解な謎を解き明かした征服感に満ちていた。
そして、巨大な文旦ほどに張り出たお腹を突き出した彼女はお決まりの、しかし最高にカッコいい決め台詞を放った。
「3.5キロのボルケーノ丼を平らげ尽くした私が、その謎も平らげてあげるわ」
その言葉が終わるか終わらないかのタイミングだった。
ドンドンドンッ!!
激しい音がして、店のドアが叩かれた。
ついに、漁師たちが入り口に到達したのだ。
鍵のかかったガラスドア越しに、先頭の男のいかつい顔がぬっと現れた。
「おい店長! いるのは分かってんだぞ! 開けろ!」
野太い怒声が店内に響き渡る。
草壁が「ヒィッ!」と悲鳴を上げて俺の後ろに隠れる。
俺も身構えた。元ラグビー部としての本能が、スクラムを組む時のように重心を低くさせる。もし暴徒化してなだれ込んできたら、俺が盾になって止めるしかない。
だが、つくしだけは動じない。
彼女は余裕しゃくしゃくで、ドヤ顔を続けていた。




