第15話 交渉のゆくえ
「……ごちそうさま。初期ブート、完了」
カチャリ、と乾いた音がした。
平良夏つくしが、箸を置いた音だ。
テーブルの上には、直径四十センチの巨大な有田焼の皿が、まるで洗ったかのように綺麗になって鎮座している。
つい先ほどまでそこにそびえ立っていた、総重量3.5キロの『カツオのタタキ・ボルケーノ丼』は、文字通り跡形もなく消滅していた。
「す、すごい……本当に全部食べたんですか……」
店長の草壁さんが、信じられないものを見る目で空の皿を見つめている。
無理もない。成人男性でも三日はかかりそうな量を、この華奢な女性はわずか三十分で完食してしまったのだから。
つくしは満足げに吐息を漏らし、紙ナプキンで口元を拭った。
その顔色は、入店時のおねむな顔が嘘のように艶やかだ。死んだ魚のようだった瞳に、怜悧な知性の光が戻りつつある。
「……見貫くん」
彼女が静かに俺の名を呼んだ。
「は、はい! どうでしたか平良夏さん。記事に使えそうなコメントは――」
「謎は、解けたわ」
俺の言葉を遮り、彼女は淡々と言い放った。
「えっ!?」
俺と草壁の声が重なった。
つくしは眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げ、窓の外の庭を一瞥した。
「あの焦げ跡を作った『放火犯のアプローチ』。……その物理的プロセスは、すべて解明したわ」
その言葉を聞いた瞬間、草壁の顔からサァッと血の気が引いた。
「ほ、放火犯……ということは、やっぱり……!」
「ええ。人為的なプロセスが介在しているのは間違いないわ」
つくしは冷ややかに肯定した。
俺は背筋が寒くなるのを感じた。
人為的。つまり、誰かが意図して、あそこに火をつけたということだ。
「やっぱり……! やっぱり、あの漁師さんたちの仕業なんですね!」
草壁が頭を抱えてガタガタと震え出した。
窓の外では、たむろしていた漁師たちが、何やら大声で言い争いながら、腕を振り上げているのが見える。
「ひぃっ! 見てください! あんなに怒ってる……! 昨日のボヤじゃ済まなかったから、次はもっと確実な方法で店を燃やす気なんだ……!」
「お、落ち着いてください店長さん!」
俺も動揺を隠せない。
確かに、あの漁師たちの雰囲気は尋常じゃない。何かを相談し、時折こちらを睨みつけてくる視線は、獲物を狙うハンターそのものだ。
「平良夏さん! 犯行が分かったなら教えてください! 警察に通報しないと!」
俺が詰め寄ると、つくしはスッと手を挙げ、俺を制した。
「……待って。まだ『出力』できない」
「は?」
「答えは脳内にある。でも、それを言語化して出力するためのエネルギーが足りない」
つくしは、俺の手元にあったメニュー表をスルスルと引き寄せた。
そして、値段の高い「プレミアムサイドメニュー」のページを開き、俺に見せつけた。
「……この『伊勢海老の鬼殻味噌汁(千五百円)』と、『完熟文旦のタルト・生搾りブラッドオレンジジュースセット(千二百円)』。……これを追加オーダーしなさい」
「は、はあぁ!?」
俺は素っ頓狂な声を上げた。
「ちょ、ちょっと待ってください! さっき3.5キロ食べたばかりじゃないですか! それに、合計二千七百円!? ただでさえカツオ丼で予算ギリギリなのに、そんなの会社になんて説明すれば……」
「……食べられないなら、私はここでスリープモードに入る」
言うが早いか、つくしはテーブルに突っ伏し、だらりと力を抜いた。
「……おやすみ。店長さんが恐怖に震える夜を、夢の中から覗いておくわ……」
「卑怯だぞ!!」
俺は叫んだ。なんてタチの悪い交渉術だ。
だが、今の俺たちには彼女の頭脳しか頼れるものがない。
横では草壁が、縋るような目で俺を見ている。
「見貫さん……どうしましょう……」
「ううっ……分かりましたよ! 注文すればいいんでしょう!」
俺は泣く泣く財布を取り出した。今月の俺のランチ代が、活火山の藻屑と消えていく。
「店長さん! 追加注文、お願いします!」
「は、はい! ありがとうございます!」
草壁は厨房へ駆け込んだ。
+++
数分後。
テーブルの上には、再び豪快な料理が並んでいた。
まずは、『伊勢海老の鬼殻味噌汁』。
丼のようなお椀からはみ出す、巨大な伊勢海老の頭部。真っ赤な殻と長い髭が、湯気の中で威圧感を放っている。
磯の香りが濃厚に立ち昇り、食欲をそそる……が、3.5キロ食べた直後の人間に出す量ではない。
「……ターゲット、捕捉」
つくしは、むくりと起き上がった。
その目は、獲物を狙う肉食獣のように鋭い。
「……まずはアスタキサンチン。甲殻類の殻に含まれる、鮮やかな赤色色素」
彼女は伊勢海老の頭を両手で鷲掴みにし、バリバリと殻ごと噛み砕く勢いでミソを啜り始めた。
「……強力な抗酸化作用を持ち、活性酸素を除去する。食後の急激な血糖値スパイクによる酸化ストレスから、私の脳細胞ニューロンを保護するバリア」
ズズズッ、と豪快な音が響く。
高級食材への敬意もへったくれもない。ただ純粋な栄養摂取だ。
「……そして、このスープに溶け出したグルタミン酸とコハク酸の飽和水溶液。……五臓六腑に染み渡る神経伝達物質の味ね。シナプスの結合速度が上がっていくのが分かる」
あっという間に味噌汁を飲み干すと、彼女は間髪入れずにデザートへ移行した。
『生搾りブラッドオレンジジュース』。
深い紅色の液体が、氷と共にグラスの中で揺れている。
つくしはストローを使わず、グラスを煽った。
「……酸っぱい! でも、これがいい」
彼女の表情が引き締まる。
「……クエン酸。生命活動の根幹をなす『クエン酸回路TCAサイクル』の着火剤。摂取した糖質を、効率よくATP生体エネルギーに変換するための必須触媒」
ゴクゴクと喉を鳴らし、一気に飲み干す。
「……充填完了。エネルギー変換効率、最大化」
最後に、『完熟文旦のタルト』。
黄色い果肉が宝石のように敷き詰められたタルトを、彼女は手掴みで口に運んだ。
「……文旦特有の爽やかな甘味と、皮に含まれる苦味成分ナリンギン。……この苦味が、思考のノイズを除去し、意識をクリアにしてくれる」
サクッ、モグモグ。
彼女が食べるたびに、その全身から立ち昇るオーラが変わっていく。
肌には血色が戻り、背筋が伸び、纏う空気が研ぎ澄まされた刃物のように鋭くなっていく。
さっきまでの「怠け者」は完全に消滅し、そこには「天才科学者」が降臨していた。
「……ごちそうさま。全回路、接続完了」
つくしは指についたタルトの粉を丁寧に舐め取り、眼鏡の位置を直した。
その動作一つ一つに、無駄がない。
「さて、見貫くん。……私の脳は今、最高出力で稼働しているわ」
彼女はゆっくりと立ち上がり言葉を発しようとした。
その時だった。
窓の外の空気が、急変した。
防波堤にいた漁師たちが、一斉に動き出したのだ。
「お、おい! なんかこっちに来るぞ!」
俺が叫ぶと同時に、漁師たちの集団が、ドカドカと店の入り口に向かって歩いてきた。
その手には、何やら長い棒のようなものや、大きな布のようなものが握られている。
迫りくる漁師たち。怯える店長。
一触即発の状況下で、つくしの科学的推理が火を噴こうとしていた。




