第14話 3キロの赤壁と店長の願い
「お、お待たせいたしました……」
店長・草壁の声が震えていた。
彼が抱えているのは、料理というよりは、一種の地形模型だった。
ドンッ、という重厚な着地音と共に、テーブルが悲鳴を上げる。
「当店自慢のデカ盛りメニュー、『特盛・海のルビー・藁焼きカツオのタタキ・ボルケーノ丼』です……」
「う、うわぁ……」
俺、見貫泰三は、その威容に圧倒され、情けない声を漏らした。
まさに、火山だった。
直径四十センチはある巨大な有田焼の大皿。
その中央にそびえ立つのは、白米で形成された標高二十センチの円錐形の山。
だが、白い山肌は見えない。
分厚く切られたカツオのタタキが、まるで龍の鱗のように、隙間なく幾重にも積み上げられているからだ。
鮮やかな赤身と、藁焼きで炙られた皮目のコントラスト。それが「海のルビー」と呼ばれる所以か。
そして、山頂。
火口に見立てた窪みには、ぷるぷると震える温泉卵が鎮座している。
その上からかけられているのは、マグマを模した真っ赤な「特製辛味ユッケダレ」。ドロリとした赤いジュレが、カツオの山肌を溶岩流となって垂れ落ち、麓に広がる薬味の樹海――大量の刻みネギ、ミョウガ、フライドガーリックの森へと流れ込んでいる。
総重量3.5キログラム。
圧倒的な質量と、鼻孔をくすぐる香ばしい藁の香り。
「す、すごい迫力ですね……。これ、本当に一人前ですか?」
「は、はい。地元の漁師さんたちが獲ったカツオを、これでもかというくらい使いたくて……。でも、こんなふざけた盛り方したら、また怒られるかも……」
草壁はビクビクと窓の外を見た。
道路の向こうでは、相変わらず強面の漁師たちが、腕組みをしてこちらを睨んでいる(ように見える)。
「……ふん」
その時、鼻を鳴らす音が聞こえた。
平良夏つくしだ。
彼女は窓の外の脅威になど目もくれず、目の前の「火山」だけを凝視していた。
「……標高、傾斜角、申し分なし。地殻変動の準備は整ったわね」
つくしはバッグをごそごそと探ると、一枚のパッケージを取り出した。
ビリッ。
封を切る音。現れたのは、白い不織布の長方形――使い捨てカイロだ。
「え? 平良夏さん、寒いんですか?」
「……違う」
つくしは服の裾をめくり上げると、そのカイロを自分の下腹部あたりにペタリと貼り付けた。
「……海鮮系のドカ食いは、内臓温度を急激に下げる。カツオは冷蔵、タレも冷温。3.5キロもの冷たい質量を胃に放り込めば、深部体温が低下し、消化酵素の活性が鈍る」
「は、はあ……」
「ペプシンやトリプシンの最適活動温度は37度前後。……外部熱源で胃壁の血流を維持し、消化プロセスをブーストさせるのよ」
彼女は真顔で言い放ち、服を直した。
俺と草壁は顔を見合わせた。
「……プロですね」
「ええ、変な方向のプロですけどね」
草壁が感心したように呟く。
確かに、ただの大食いではない。彼女にとって食事とは、自身の脳というスーパーコンピューターを稼働させるための、精密な燃料補給ミッションなのだ。
「……いただきます」
つくしが箸を構えた。
その瞬間、彼女の瞳孔がキュッと収縮する。
戦闘開始の合図だ。
彼女はまず、頂上の温泉卵に箸を突き立てた。
とろり、と黄身が決壊し、赤いユッケダレと混ざり合いながら、カツオの山肌を滑り落ちていく。
つくしはその「マグマ」が絡んだ分厚いカツオを二切れ、同時に掴み上げた。
パクり。
大きな口を開けて放り込む。
咀嚼。
ザクッ、という音は、トッピングされたフライドガーリックだろうか。
「…………ん」
つくしが目を見開き、恍惚の表情を浮かべた。
眼鏡が微かに曇る。
「……藁焼き特有の、スモーキーな燻製香。……これが鼻腔を抜けることで、大型回遊魚特有の血の匂い、ヘキサナールが完全にマスクされている」
彼女は休むことなく、次のカツオを口に運ぶ。
今度は、たっぷりのネギとミョウガを巻き込んで。
「カツオの身に含まれるイノシン酸と、ユッケダレのグルタミン酸……王道の旨味相乗効果ね。そこにニンニクのアリシンが加わることで、糖質の代謝促進スイッチが強制的にオンになる」
箸と頼んでもいない科学的な解説が止まらない。
猛烈なスピードだ。
3.5キロの山が、まるでブルドーザーで削られるかのように、片側から崩されていく。
「……美味い」
シンプルな一言が漏れた。
草壁の顔に、パッと安堵の色が浮かぶ。
「よ、よかった……! 味には自信があったんです。毎朝、市場で一番いいカツオを仕入れているので……」
「……でしょうね。この弾力、死後硬直が解けて熟成が始まった、アミノ酸含有量がピークに達したタイミングの身だわ」
つくしは食べながらも、解説を止めない。
口の中にカツオが入っているはずなのに、なぜか滑舌が良くなっていく。
「見貫くん、メモして。カツオは泳ぐサプリメントよ」
「へ? あ、はい!」
「特筆すべきは、筋肉中に含まれる『アンセリン』と『カルノシン』。……これらは強力な抗酸化作用を持ち、疲労原因物質である乳酸の生成を抑える。つまり、高速で泳ぎ続けるカツオの持久力の源」
「ほほう、なるほど」
「さらに、血合い部分には鉄分とビタミンB12が大量に含まれている。……私の脳が必要としている酸素運搬能力を底上げしてくれるわ」
彼女は血合いの多い部分を選んで口に運び、ニヤリと笑った。
「……私のニューロンが、カツオの速さで泳ぎ出したわ。……思考速度、加速」
食べている時の彼女は、いつもの怠け者とは別人のように饒舌だ。
それだけ、この丼が彼女の「燃料」として優秀だということだろう。
俺は必死にメモを取りながら、ふと、窓の外の庭に目を向けた。
「それにしても店長さん。あの庭のオブジェ、素敵ですね」
俺は食べ物にしか興味のないつくしに代わって、取材のために話題を振った。
テラスの向こう、芝生の庭には、大小様々なガラス玉が転がっている。
青、緑、薄い水色。
午後の日差しを浴びて、それらは宝石のようにキラキラと輝いていた。
「ああ、あれですか」
草壁が少しだけ表情を緩めた。
「あれは『ビン玉』と言って、昔、この辺りの漁師さんが網の浮きとして使っていたガラス製のブイなんです。今はプラスチック製が主流になって、使われなくなったものを海岸で拾ったり、譲ってもらったりして……」
「へぇ、地元の漁具なんですね。お洒落だなぁ」
「ええ。ただ置いておくだけだと、風でコロコロ転がっちゃうんです。だから、底のゴム栓を開けて、中に水をパンパンに入れてあるんですよ」
「水を入れる?」
「はい。そうすると重しになりますし、何より、太陽の光を通した時に、ただのガラスより複雑に光って綺麗でしょう? 海の中にある時みたいに」
草壁は愛おしそうに庭のガラス玉を見つめた。
「僕は、この土地が好きなんです。海も、魚も、漁師さんたちの文化も。……だから、少しでもこの店を町に溶け込ませたくて、地元の廃材をインテリアに使わせてもらったんです」
彼の目には、純粋な敬意と郷土愛があった。
外の漁師たちに怯えながらも、彼は彼なりに、この町に馴染もうと努力しているのだ。
「……素敵な心がけじゃないですか。きっとその思い、伝わりますよ」
「だといいんですけど……。現実は、放火されたり、睨まれたり……はは、空回りですね」
草壁が寂しげに笑う。
その会話を、つくしは黙々と食べながら聞いていた。
興味がないように見えるが、俺は知っている。彼女の耳は、咀嚼音の合間にすべての情報を拾っていることを。
カチャ。
箸が皿に当たる音がした。
つくしが、丼の底に残った薬味の山――ミョウガと大葉の森に箸を伸ばした時だ。
「……ん?」
つくしの手が、ピタリと止まった。
彼女は箸で摘まんだカツオの切れ端を、口に運ばず、じっと見つめた。
そして、そっと指先で触れる。
「…………」
一瞬、彼女の眉が動いた。
ほんのわずかな違和感。
何かに感づいたような悩ましい顔つき。
つくしはゆっくりと顔を上げた。
視線の先にあるのは、半分ほど減った丼。
そして、その向こうにある庭。
太陽の光を浴びて、無数に輝く「水入りのビン玉」。
彼女の視線が、テーブルの上の一点を捉える。
そこには、まるでスポットライトのように、鋭く収束した光の点が揺らめいていた。
「……へえ」
つくしは短く呟くと、何事もなかったかのように、カツオを口に放り込んだ。
「……炙りとは違う、不思議なアプローチ。これはこれでアリね」
彼女はニヤリと笑った。
その笑みは、美味しいものを食べた時のものではなく、難解なパズルのピースが「パチン」と嵌まった時の、理知的な笑みだった。
それから数分後。
あれだけあった3キロの山は、跡形もなく消滅していた。
つくしは満足げに息を吐き、空になった巨大な皿を眺めた。
外では、漁師たちのどなり声が、まだ風に乗って聞こえていた。




