第13話 黒い焦げ跡と遠くの視線
「おい見貫。今回の取材は『海』だ。太平洋の黒潮が運ぶ、真っ赤な海のルビーの塊だ!」
大手出版社・庶凡書房、『月刊ジャンボ』編集部。
編集長・碁鵜海仁の怒号のような指令が、昼下がりのフロアに響き渡った。
俺、見貫泰三は、デスクの横で直立不動の姿勢をとっていた。
「海のルビー……ですか?」
「そうだ。カツオだ! それも、ただのタタキじゃねえ。総重量3.5キロ、燃え盛る火山のごとき『ボルケーノ丼』だ!」
編集長はデスクに拳を叩きつけた。その振動で、山積みの書類が雪崩を起こしそうになる。
俺の隣には、いつものようにソファで死体のように横たわる女性――平良夏つくしがいた。
「……カツオ……ヒスチジンとアンセリンの宝庫……。回遊魚の運動エネルギーを摂取できる……」
つくしは天井を見上げたまま、うわ言のように呟いた。
彼女は元・科捜研の研究員という異色の経歴を持つ天才だが、現在は燃費最悪のグルメライター(実質、俺が代筆)だ。
前回の温泉旅館での事件解決から数日。彼女のエネルギーは再び底をつき、省エネモードの怠け者に戻っていた。
「というわけだ。場所は、近場の港町にある移住者が開いたカフェだ。行ってこい!」
編集長が取材指示書を俺に投げ渡そうとした、その時だった。
「――相変わらず、暑苦しい編集部だな」
編集部の入り口から、冷ややかな、しかしよく通る声が聞こえた。
その場の空気が、一瞬にして凍りついたように静まる。
編集長の豪快な熱気が、スッと引いていくのが分かった。
現れたのは、仕立ての良いグレーのスーツを着こなした、長身の男性だった。
銀縁の眼鏡の奥には、理知的だが、どこか他人を見下すような鋭い瞳がある。後ろには数人の取り巻きを引き連れ、王族のような足取りで入ってきた。
「ふ、筆島専務……!」
俺は思わず息を呑み、姿勢を正した。
筆島鋭一。
庶凡書房の専務取締役であり、かつては社会部で数々のスクープを飛ばした伝説の記者だ。
科学ジャーナリズムの分野で名を馳せ、その鋭い筆致は「カミソリ筆島」と呼ばれていた。俺のような正義感に燃える記者志望にとっては、雲の上の存在だ。
「これはこれは、筆島専務。わざわざ『遠方(月刊ジャンボは会社の隅に位置する)』までご足労いただき、いかがいたしましたか?」
いつでも無作法な編集長も、さすがに専務の前ではそうはいかない。
筆島は鼻で笑い、ハンカチで口元を抑えた。
「用件は一つだ。来月の『創立五十周年記念パーティー』の準備は進んでいるかね? 私が監修するメインディッシュのことだ」
「ああ、『バベルの塔』のことですね。ローストビーフ十キロで作る特注品。 肉の手配は万全です!」
「頼むよ。あれは私の栄光の軌跡を象徴する、重要な演出なんだ。失敗は許されん」
筆島は満足げに頷いた。
バベルの塔。天に届くほどの塔。いかにも、上昇志向の強い筆島専務らしいネーミングだ。
「それから、会場の展示コーナーだが……例の『手紙』の視覚的演出は進んでいるか?」
「はい。亡くなった小田切教授の手紙ですよね? 一番目立つ場所に飾る予定です」
「うむ。教授との友情は、私の記者人生における最大の誇りだからな。彼が私の記事を絶賛してくれた最後の手紙……。あれこそが、真実の証だ」
筆島専務は遠くを見るような目をした。
小田切教授。三年前に他殺体で見つかった高名な科学者だ。筆島専務とは親友だったと聞いている。そして未だに犯人は捕まっていないとか。
俺は感動で胸が熱くなった。友情と真実。なんて素晴らしい響きだろう。
だが。
ふと視線を感じて、俺は隣を見た。
「…………」
ソファの上のつくしが、いつの間にか起き上がっていた。
彼女は一言も発しない。
ただ、その瞳だけが、異様な光を放っていた。
いつもは眠そうな顔をしているが、そのような目ではない。
それは、エラーを起こした検体を冷徹に観察するような視線で、底冷えするほどの軽蔑と殺意が混じった視線だった。
つくしの視線は、真っ直ぐに筆島を射抜いていた。
「ん? なんだ、その小娘は」
筆島が気づき、怪訝そうに眉をひそめた。
「あっあ、新人のライターです。ちょっと変人でして」
「フン、躾のなっていない野良だ。……まあいい。期待しているよ、碁鵜君」
筆島はつくしを虫ケラのように一瞥しただけで興味を失い、踵を返した。
彼が去った後も、つくしはしばらくの間、ドアの方を睨み続けていた。
「……平良夏さん?」
「……臭う」
「えっ?」
「……腐った脂と、時代遅れのポマードの臭い。……鼻が曲がりそう」
つくしは再びソファに倒れ込み、クッションに顔を埋めた。
その背中は、いつもの「怠け者」とは違う、ピリピリとした拒絶の波動を放っていた。
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「すごいオーラでしたねぇ、筆島専務!」
取材先へ向かうレンタカーの中。
俺はハンドルを握りながら、興奮気味に話しかけた。
助手席のつくしは、窓枠にアゴをチョンと乗せ、死んだ魚のような目で流れる景色を眺めている。
「社会の真実を追求し続けた孤高の記者……。僕の父も刑事でしたが、職種は違えど『真実を暴く』という点では同じです。僕もいつか、あんな風に社会の闇に切り込む記事を書きたいんですよ」
俺の熱弁に対し、つくしは大きなあくびで返した。
「……ふあぁ。……見貫くん、あんたピュアね」
「ピュアで何が悪いんですか。ジャーナリズムには情熱が必要でしょう」
「……情熱で目が曇ることもある。……特に、虚飾で塗り固められた塔を見上げる時はね」
「はあ? 何の話ですか?」
「……なんでもない。それより、まだ着かないの? 私の胃袋が、カツオの回遊を待ちわびてねじ切られそうなんだけど」
彼女は話題をバッサリと切り捨てた。
どうやら筆島専務のことは気に入らないらしい。まあ、彼女のようなマイペースな人間と、権威の塊のような専務では相性が最悪なのは間違いないが。
「もうすぐですよ。ほら、海が見えてきました」
車は峠を越え、眼下に広大な太平洋が広がった。
今回の目的地は、古くからの漁師町だ。
潮の香りと共に、瓦屋根の家々が密集する懐かしい風景が近づいてくる。
だが、俺たちが目指す店は、そんな港町の高台にポツンと建っていた。
『古民家カフェ・海猫テラス』。
築六十年の民家をリノベーションしたというその店は、白い壁と大きなガラス窓が特徴的で、正直言ってこの渋い漁師町の中では少し浮いていた。
「……ここか。オシャレすぎて、デカ盛りがあるようには見えないな」
駐車場に車を停めると、店の中からエプロン姿の青年が飛び出してきた。
「お、お待ちしておりました! 庶凡書房の方ですよね!?」
店長の草壁さんだ。
脱サラしてこの町に移住し、夢だったカフェを開いたという三十代の青年。
だが、その顔色は真っ青だった。まるで幽霊でも見たかのように、おどおどと周囲を警戒している。
「ようこそ……遠いところまで……。ど、どうぞ中へ……早く……」
「はあ、どうも。そんなに慌ててどうしたんです?」
俺とつくしが店に入ろうとすると、草壁は俺たちの背後――道路の方を気にして、すぐにドアを閉め、鍵までかけた。
「……何かあったんですか?」
店内に案内されながら尋ねると、草壁は泣きそうな顔で振り返った。
「実は……昨日、ボヤ騒ぎがあったんです」
「ボヤ!?」
「はい。庭のウッドデッキから火が出て……幸い、すぐに気づいて消し止めたんですが……」
草壁は俺たちを海側のテラス席へと案内した。
大きな窓の向こうには、手入れされた芝生の庭と、絶景の海が広がっている。
庭には、漁具であるガラス製のブイ(ビン玉)がいくつも飾られ、太陽の光を受けてキラキラと輝いていた。
だが、その一角。
ウッドデッキの端と、その周囲の枯れ草が、無惨にも黒く炭化していた。
「うわ、生々しいですね……」
「消防と警察には?」
「いえ……通報しようと思ったんですが、怖くて……」
「怖い?」
「……ここだけの話、犯人は、地元の漁師さんたちだと思うんです」
草壁は声を潜め、震えながら言った。
「僕はよそ者ですから……。脱サラして、都会風のカフェなんか開いたのが気に入らないんだと思います。『漁師町に似合わねえ』とか『チャラチャラしやがって』とか、陰口を叩かれているのも知っていますし……」
彼は完全に萎縮していた。
夢を抱いて移住してきたのに、地元に受け入れられず、挙げ句の果てに放火。同情せざるを得ない。
「それに、見てください。あそこ」
草壁が指差したのは、道路を挟んで向かい側の防波堤だった。
そこに、数人の男たちがたむろしていた。
ねじり鉢巻に、日焼けした浅黒い肌。太い腕組みをした漁師たちだ。
彼らは一様に怖い顔つきで、こちらの店を指差し、何やら大声で言い合っている。
「……確かに、ガラが悪そうですね」
「きっと、昨日のボヤで店が燃えなかったから、次はどうやって襲撃しようか相談してるんじゃないんでしょうか……! ひいぃっ!」
草壁が悲鳴を上げてしゃがみ込む。
窓越しに見ても、漁師たちの視線は鋭く、殺気立っているようにも見えた。
これじゃあ、客足が遠のくのも無理はない。
「……見貫くん」
それまで黙ってメニュー表を睨んでいたつくしが、低い声を出した。
「は、はい! どうします平良夏さん。ここは一度、警察に相談して……」
「……お腹すいた」
「はい?」
「放火とか人間関係とか、どうでもいい。私の脳内は今、カツオさんのことで満席なの」
つくしはスプーンを握りしめ、草壁の方を向いた。
「店長さん。犯人探しは警察の仕事よ。あなたの仕事は、私に『海のルビー・藁焼きカツオのタタキ・ボルケーノ丼』を食べさせること。……違う?」
「えっ、あ、はい! もちろんです! すぐに準備します!」
草壁は慌てて厨房へと走っていった。
俺はため息をついて、窓の外を見た。
漁師たちの不穏な視線と、庭に残された黒い焦げ跡。
そして、食欲魔神の相棒。
今回の取材も、ただの食レポでは終わりそうになかった。
「……臭い」
つくしがポツリと呟いた。
それが、庭のボヤの焦げのことを言っているのか、東京で会った筆島専務のことを言っているのか、俺には分からなかった。
ただ一つ確かなのは、これから出てくるデカ盛りが、俺たちの胃袋と運命を大きく揺さぶるということだけだ。




