第11話 秒速1.2メートルの完全犯罪
「……ダメね。指紋どころか、足跡ひとつないわ」
ロビーに戻ってきた須磨跡子は、苛立ちを隠せない様子でヒールの音を響かせた。
裏口や窓枠を徹底的に調べたが、外部からの侵入者が残すはずの泥や破壊の痕跡は皆無だったのだ。
「おかしいわね……。プロの犯行なら、侵入経路の確保は必須なはずなのに」
「あ、あの……やはり、もっと高度な手口を使う国際的な窃盗団の仕業ではないでしょうか?」
不安そうに声を上げたのは、リゾートバイトの高田君だ。
彼は真面目な顔で、周囲を見渡しながら言った。
「ドローンを使って空から侵入したとか……僕たち素人には想像もつかないような方法で……。こ、怖いですね。早く警察に来てもらわないと、僕たちの身も危ないかも……」
高田の言葉に、女将や他の仲居たちがざわめき始める。見えない「巨大な悪」の存在におびえ、パニックが広がりかけていた。
跡子も「ドローン……? 可能性はなくはないけど……」と眉を寄せ、思考の迷路に入り込んでいる。
その重苦しい空気を、冷たく澄んだ声が切り裂いた。
「ドローン? ナンセンスね。物理法則を無視した妄想は、三流SF小説の中だけにして」
全員が振り返る。
ラウンジの入り口に、平良夏つくしが立っていた。
さっきまで天ぷらと格闘していた油まみれの手は綺麗に拭われ、白衣のような上着をマントのように羽織って、空になった容器の前に立っている。
その瞳は、カミソリのように鋭く、ロビー全体を冷徹に俯瞰していた。
「あ、あんた! 食べ終わったの!? ていうか捜査の邪魔しないでよ!」
「邪魔? ……いいえ、終わらせに来たのよ」
つくしはコツコツと足音を立てて、ロビーの中央、源泉が湧き出る岩組の前まで歩み寄った。
「犯人は外部犯じゃない。空からでもない。……もっと単純で、優雅なルートを使ったのよ」
彼女は細い指先で、滔々《とうとう》と流れる水路を指差した。
「この『龍神の流しそうめんレーン』を使ってね」
「はあ? そうめん?」
跡子が呆れた声を上げた。「何言ってんのよ。ダイヤをそうめんみたいに流したって言うの? そんなことしたら、見失ってしまうじゃない」
「いいえ。行き先は決まっているわ。重力と水流に従えば、物体は必ず『下流』へたどり着く」
つくしは空になったダイヤの台座を見下ろし、眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げた。
スイッチが入る。
「見貫。ストップウォッチ」
「は、はい!」
俺は慌ててスマホのストップウォッチ機能を起動した。
つくしはスッと両手を目の前の空間に掲げた。
奇妙な構えだった。
右手は、見えないペンを握るように人差し指と親指を合わせ、空中にさらさらと何かを記述する動作。
左手は、見えないそろばんの珠を弾くように、指先を細かく動かしている。
「……思考演算領域、展開」
つくしが呟くと同時に、彼女の両手が高速で動き始めた。
右手で空間に数式を書き殴り、左手でその計算結果を弾き出す。まるで彼女の周りだけ、デジタルの数式がホログラムのように浮き上がっているかのような錯覚を覚える。
「水路の勾配、約三度。……水深五センチ。……流路の粗度係数は塩ビ管と同等として0.010。……マニングの公式により流速を算出……」
ブツブツと呟く言葉は呪文のようだ。
だが、その左手は正確なリズムで、パチパチパチッと見えない珠を弾いている。
「……解が出た。この水路の平均流速は、秒速1.2メートル」
つくしはビシッと高田の方を向いた。
「高田さん。あなたが『メインカメラにスプレーが吹き付けられた』と言ったのは、10時45分12秒だったわね?」
「は、はい……録画データにはそう残っていましたが……」
「その後、犯人はダイヤを盗んだ。そして、詳細な時間はわからない」
つくしは一歩、高田に近づいた。
その迫力に、高田がたじろぐ。
「廊下のサブカメラには、何も映っていなかった。……いいえ、人間の目には見えなかっただけ。とある専門機関の画像解析によれば、14時35分12秒――つまり、私たちが天ぷらを食べていたあの時間に、廊下の水路をダイヤが通過している」
彼女は左手でパチン! とエアそろばんを弾いた。
「ロビーから廊下のカメラまでの距離は240メートル。流速1.2メートル毎秒で逆算すると……所要時間は200秒。つまり、ダイヤがそうめんレーンの起点に投下された正確な時刻は、14時31分52秒」
つくしは冷酷なまでの精度で時刻を告げた。
「その時刻、その場所にいたのは誰? チェックアウトの対応を終え、ダイヤ周りの清掃を任されていたのは?」
全員の視線が、一点に集中した。
高田だ。
彼は顔面蒼白になりながら、必死に首を振った。
「ち、違います! 僕はただ掃除をしていただけで……! それに、証拠はあるんですか!? ダイヤが水に流されたなんて、ただの仮説でしょう!」
「往生際が悪いわね」
つくしはふっと笑った。
右手で空中に「Q.E.D.(証明終了)」と書くように、三つの点を打つ動作をする。
「ダイヤの現在地も、すでに計算済みよ」
彼女はスマホを取り出し、女将に見せた。
「この水路は、中庭を通って最終的にどこへ行く?」
「え? ええと、厨房の『ザル場』です。野菜を冷やしたり、使い終わった水を濾過したりする場所で……」
「そう。そこがゴール地点」
つくしはスマホの画面をタップした。
「廊下を通過してから厨房までの距離、12メートル。到着予想時刻は、14時35分22秒。……その時間、厨房のカメラに何が映っていたか」
画面には、厨房の防犯カメラ映像が再生されていた。
時刻は14時35分22秒。
ザル場の前に立ち、水路から流れてきた「キラリと光る何か」を慌ててタオルで受け止め、ポケットに突っ込む人物の姿が、鮮明に映し出されていた。
「……そ、それは……!」
高田が絶句し、膝から崩れ落ちそうになる。
映っていたのは、彼の友人であり、厨房担当のもう一人のリゾートバイトだった。
「チェックメイトよ、犯人さん。……これにて計算終了」
つくしの宣言と共に、俺は厨房へと走り出した。
数式とそろばんが導き出した答えを、この手で確保するために。




