第10話 サクサクの衣とドロドロの欲望
ロビーの喧騒が遠ざかるラウンジで、異様な音が響いていた。
ザクゥッ、バリッ、ジュワァ……。
それは、巨大な建造物が破壊され、解体されていく音だった。
「……ん。アナゴの身の締まり、良好。……揚げ油の切れも完璧」
平良夏つくしは、長さ三十センチはある巨大なアナゴの一本揚げを、まるでフルートでも奏でるかのように横に構え、端から猛烈な勢いで齧り進めていた。
テーブルの上には、抹茶塩、カレー塩、そして彼女がバッグから取り出した「マイ・マヨネーズ」が並んでいる。
「ちょ、ちょっと! 平良夏さん! マヨネーズは反則でしょ! 天ぷらへの冒涜ですよ!」
俺、見貫泰三は、思わず小声で叫んだ。
須磨跡子と一緒に裏口の現場保全を済ませてここへもどってくると、彼女は天ぷらタワーの攻略を加速させていた。
五重塔のようにそびえ立っていた天ぷらの山は、すでに半壊状態だ。
「……黙ってて。これは味変じゃない。エネルギーの加速的ドーピングよ」
つくしは無表情のまま、アナゴの断面にたっぷりとマヨネーズを絞り出した。
カロリーにカロリーを上塗りする、悪魔の所業。
だが、それを口に運ぶ彼女の瞳は、真剣そのものだった。
「脳のシナプスを最速で発火させるには、糖分だけじゃ足りない。……脂質がニューロンの潤滑油になる」
バリボリと音を立てて完食すると、彼女は次なるターゲット、巨大なかき揚げの座布団に箸を突き立てた。
恐ろしい速度だ。
跡子が「食べきれるわけがない」と断じた3キロの油の塊が、見る見るうちに彼女の胃袋というブラックホールへ吸い込まれていく。
それと同時に、彼女の肌に赤みが差し、どんよりとしていた瞳の奥に、理知的な光が灯り始めた。
「……充填率、九十パーセント」
つくしは最後のカボチャ天を飲み込むと、油で光る唇をナプキンで拭い、女将のタブレット端末を拝借して「廊下の防犯カメラ映像」を、どこかへ送信した。
「……よし。解析依頼、送信」
「えっ、誰に送ったんですか?」
俺が尋ねると、すぐに彼女のスマホが振動した。ビデオ通話の着信だ。
画面に映し出されたのは、白衣を着た気だるげな美女。背景には、ビーカーや遠心分離機らしき機材が見える。
『……もしもし? つくし? あんたねえ、公務中の人間にいきなり動画送りつけてくるのやめてくんない?』
「……リカ。早急に解析して。報酬は、駅前の限定モンブラン」
『……プレミアム和栗のやつ? ……ったく、しょうがないわね。貸しよ』
画面の向こうの見知らぬ女性は、文句を言いながらも、手元のキーボードを叩き始めたようだ。
「……平良夏さん、その人……」
俺は恐る恐る尋ねた。
「誰なんですか? そんな専門的な機材がある場所にいて、解析なんて……」
「……前職の同僚。腐れ縁よ」
「前職って……」
俺は息を呑んだ。
編集長から聞いていた、彼女の経歴。
元・科学警察研究所の研究員。
ということは、電話の相手は現役の科捜研ということか!?
「ま、マズいですよ! 公務員が私人の、しかも個人的なトラブル解決に協力するなんて! 地方公務員法とか守秘義務とか、いろいろアウトじゃ……」
「……固いこと言わないで。これは『国民の財産を守るための予備調査』よ」
つくしは涼しい顔で言い放った。
「つまり、警察が動いて正式に鑑定要請を出せば、手続きに数日、費用も税金から出る。……私がここで解決してしまえば、警察は犯人を逮捕するだけ。コストカットにもなるし、税金の節約になる。合理的でしょ?」
「むちゃくちゃな理屈だ……」
俺は頭を抱えた。
だが、画面の向こうのリカという女性は、呆れながらも手際よく作業を進めている。
「しょうがないわね」と言いつつも、つくしの頼みを断らない。その口調の端々からは、二人の間にある太い信頼関係があり、互いの才能を認め合う戦友のような絆が感じられた。
きっと、つくしが退職した後も、こうして繋がっている理解者なのだろう。
『……出たわよ、解析結果』
数分もしないうちに、リカの声が響いた。
『あんたの睨んだ通りね。送られてきた廊下の映像、一見すると何も映ってないけど……水路の部分だけ、光の波長がズレてる』
「……やっぱり」
『タイムスタンプ、14時35分12秒。流れる水の中に、水の屈折率1.33とは明らかに異なる、屈折率2.42の高輝度反射を確認。……これ、ダイヤモンドでしょ?』
ダイヤモンド。
その言葉が出た瞬間、つくしの眼鏡がキラリと光った。
「……ありがとう、リカ。相変わらず私の次に仕事が早いわね」
『何言ってるの。持続率を無視してんじゃないわよ! ……じゃあね、気をつけて』
通話が切れると同時に、つくしは立ち上がった。
バサリ。
白衣のような上着が翻る。
そこにはもう、ただの大食いライターはいなかった。
彼女は中指で眼鏡のブリッジをクイッと押し上げる。
その瞳は、カミソリのように鋭く研ぎ澄まされ、事件の全貌を見通していた。
「……インプット完了。……思考回路、フルスペックで接続」
つくしは俺の方を向き、不敵に微笑んだ。
その笑顔は、満腹の幸福感と、謎を解く高揚感が混じり合った、ゾクッとするほど美しいものだった。
「……見貫君。行くわよ。犯人はまだ、自分の完璧な計画に酔いしれている」
「わ、分かりました。でも、どうやって……」
「計算式は頭の中にある」
バレーボールほどに張り出たお腹を突き出した彼女は空になった天ぷらの大皿――3キロのカロリーが消え失せた皿を指差した。
「デカ盛りを平らげ尽くした私が、その謎も平らげてあげるわ」
高らかに宣言すると、彼女はロビーへと歩き出した。
その背中からは、「解決」という名の確信が立ち昇っていた。
俺は慌ててその後を追う。
サクサクの衣の中に隠されていた、ドロドロとした欲望の正体。それを暴く、最後の大捕り物が始まろうとしていた。




