中に誰もいない
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1. 長雨
「というわけなんだよ」
「ほーん、佐々木さんがねぇ……」
連日のように五月雨降り続く中、わざわざ友人の田神尋鷹が訪ねてきたのはお昼過ぎ、玄関先に腰掛けて庭の桔梗や向日葵、鉄砲百合に鬼百合、紫陽花などの花々が雫を滴らせながら雨へ頭を垂れるさまに煙を燻らせていた時だった。
「ほーんじゃなくてさ、お前が頼りなんだよ」
「んー、まぁ今はじいちゃん居ないからそうなるんだろうけどさ」
そう言って玄関先に据え置かれた灰皿に吸い殻を捨てると、俺は誰も居ない家の玄関を開けて中に入る。隣に座っていた田神もついて来て、律儀にお邪魔しますと挨拶をしていた。
この時期、祖父母はいつも二人でどこかへ出かけている。
どこへ行っているのか詳しく聞いたことは無いが、毎年日本各地のお土産を持って帰ってくるので旅行なのだろう。出発する前、特に祖母にはご高齢の方向け携帯電話の使い方を詳しく説明するのだが、毎年返ってくる答えは「えー、分かんねぇよぉ!」だ。今のところ、旅行先での怪我や病気という話は聞いたことがないのでそこまで心配はしていないのだが、あくまでも念の為である。
「あー、床の間で話すか」
そう言った俺の顔を見るや、田神は床の間へは入らずに俺の部屋の扉を開けた。おい。人の部屋の扉を勝手に開け、あまつさえ大きなため息と共に入室するのだから失礼なやつである。
友人の「それ取って」「どけ」「これは要る?要らない?」などと半分説教じみたお小言をやり過ごす為、俺は台所へ向かった。急須を取り、茶葉を入れ、お湯を注いでからお手洗いに行き、戻る頃には丁度よい塩梅になっているという日課ともいうべき動作をこなし、お盆に急須と湯呑み2つ、その辺にあったお煎餅を乗せて自室へと戻った。
……なんということだろう。数分ぶりに見る我が暗澹たる自室はまるで輝きを放っているかのように整然とし、混沌を表現するべく配置された机の上の品々は、その尽くが姿を消していた。盛者必衰の理を表すベッドの上の布団達はもはやその任を果たせず、綺麗な姿勢でしゃがみ込んでいた。というか、普通人のベッドまで触るか?まぁいいけど。
俺は変わり果ててしまった机にお盆を置くと、既に座っている友人の向かいに腰を下ろす。
「で、佐々木さんは何でお前に?話を聞いた感じ、知り合いなんだからじいちゃんに話すのが筋じゃねぇの?」
「僕もそう思ったんだけど、佐々木さん自身もどういうことか判断しかねているみたいで……とりあえず僕に話して、君もおかしいと思うようなら秋利くんに話してみてくれないか?という話だったんだよ」
「ん?その言い振りだと、じいちゃんが居ないのは知ってるってことか?」
「みたいだね、上名のお祖父様から直接聞いたらしいよ」
「ほーん。しかしなぁ、聞いた限りじゃ今直ぐどうこうって感じもしないし……お前のご意見は?」
「僕に聞いたって分かるわけないだろ。だからこうして話に来てるんじゃないか」
「そりゃそうだけどさ、なんとなーくでいいから話してみろよ。お前はこの件、放置しててもいいと思うか?それとも、今直ぐ何か手を打った方がいいと思うか?」
「……出来れば、直ぐになんとかしてあげたい、と思う」
「そりゃぁこないだのお礼で?」
「それもあるけど、それは関係ないというか、なんというか……」
「なんとなく?」
「うん、なんとなく」
「んー、よし。じゃあとりあえず、佐々木さんちにお邪魔しますか」
「え、いいのか?」
「えってなんだよ、お前が頼んできたんだろ?」
「そりゃそうなんだけど、拍子抜けっていうか……」
「まぁ自分が居ない間に知り合いに障りがありました。なんてことになったらじいちゃんも悲しむだろうしな。それに……」
「?」
「……掃除の礼だよ」
話が終わって佐々木さんに電話をかけている最中、何故か俺の方を見ながらニヤついている友人から顔を背けつつ、俺は倉庫の鍵を手に取った。
電話を終えた田神曰く「ありがたい、是非お願いしたい」とのことで、直ぐ佐々木さん宅へ向かうこととなった。俺に何が出来るわけでもないが、安心して貰えるのならそれでいいだろう。などと楽観的に考えている時に限って厄介なことが起きるのだから、人生とはままならないものである。
あそこだ。と友人が指し示した家は、御大層な神々しさを放っていたのだから。
2. 神なる
インターホンを鳴らすと、すぐにどたどたっという足音が聞こえ、鍵の開く音と共にドアが開いた。
「こんにちは、田神です」
「やぁ田神くん、わざわざすまないね。……そちらの方が?」
「初めまして、上名師輿の孫の秋利です」
「あれ、初対面だったの?」
「……えぇ、そうです」
「ははは、実はそうなんだよ。お話だけはお祖父様から何度も聞いているけどね。ささ、立ち話もなんだし入って入って」
中へ入ると以前通してくれた居間ではなく、客間の方に通された。今回は二人での来訪なので、居間では手狭だったのだろうか。それとも、アレは居間に……?
考えつつ客間のソファに座っていると、佐々木さんが茶菓を持ってあらわれた。
「それにしてもこんなに早く来てもらえるなんて、ありがたい限りだよ」
「……いえ」
……こいつ。
「ん?秋利くん、どうかしたかい?」
「気にしないで下さい佐々木さん。こいつはただ、人見知りの度が過ぎてるだけですから」
「そうなのかい?なら、僕が改めて相談したいことのあらましを話していくよ。聞き取りづらい部分があれば遠慮なく言ってね」
そう言うと佐々木さんは、多少表情を和らげた上名と僕に向かって、アレを入手した経緯について話し始めた。
今日からだと、1週間ほど前かな?仕事で隣町まで行くことがあってね。思ったよりも早く片付いたもので、折角だから色々見て回ろうと思ったんだ。
そうして車を走らせていると、何やら人でごったがえしている場所を見つけてね。何だろうと車を降りて近づいてみると、どうやら蚤の市らしいんだな。これもめぐり合わせかと思って、僕も見てみることにしたんだ。
蚤の市らしく、商品は衣服や古本、使わなくなった子供用のおもちゃなんかが主だったかな。中には地元企業のブースなんかもあって、かなりの規模だったよ。客層も老人から子供連れの家族まで幅広くて、どの出店も繁盛しているみたいだった。
特に何が欲しいわけでもないからしばらくぶらぶら回っていたんだが、その内に日も傾いてきてね。そろそろ帰ろうか、なんて考えたまさにその瞬間だったよ。
アレを目にしたのは。
和箪笥、と言って伝わるかい?おぉ、二人共流石だね。そう、私が惹きつけられたのは、もう使わなくなったであろう家具を出している店だったよ。正確には今言った和箪笥に、だね。
なんと言えばいいのか……とにかく一目で気に入ってしまってね。和箪笥にしてはかなり小さめで、近くで見てみると全体的にかなり古そうな印象を受けたと同時に、持ち主の愛を感じたと言えばいいのかな、とにかく綺麗だったのさ。状態が、というのは勿論だけど、全体的な雰囲気というか……とにかく見れば見るほど引き込まれてしまってね。よっぽど食い入るように見ていたんだろう。「欲しいのかい?」と声をかけられたんだ。
声の方に目をやると、上名くんのお祖父様より少し歳下くらいの、柔和そうなおじいさまが居てね。少しやつれて顔色は悪かったが、矍鑠としていたよ。僕はそこで値段を聞いていないこと、値札がどこにも無いことに気づいて、彼に値段を聞いたんだ。すると
「あんたぁ、元気かい?」
と返ってきた。少し戸惑ったが、素直に元気ですよ。と返事をした。少し考える素振りを見せると、彼は
「あんたが元気じゃなくなったらぁ、そいつを元気なやつに譲る……てんなら、いいで」
と言う。僕は分かりました、それでおいくらですか?と再度聞いたんだが、なんと彼はタダでいいと言った。それでは申し訳ないと何度か食い下がったんだが、彼はタダじゃなければやれねぇの一点張りでね……結局、僕が折れてタダで貰い受けることになったんだ。
ギリギリ持てるほどの重さだったんだけど、流石に車までは無理だと思って係員らしき人に声をかけることにした。すると『手押し車がありますよ、よければお持ちしょうか?』と言ってくれたので、ありがとう、お願いしますと言うと『今お持ちしますね、お買い上げになったのはどの商品ですか?』と聞かれたので、あの和箪笥です。と指をさしたんだけど、もう店主のおじいさまは居なくてね。よく見れば他の商品も無かったから、最後の商品が捌けたので帰ったんだろう、と思った。僕が指さす方を見た係員の人は一瞬困惑した表情を見せると『……お待ち下さい』と言ってから、しばらくして手押し車を持ってきてくれたんだ。
そうして家に帰って、難儀しつつもその和箪笥を居間に運び込んで多少の模様替えをしてみると、これがまぁ、最初からあったかのような感じがしたと言うか……感無量だったよ。こんな素晴らしい家具を我が家に置けるなんてってね。
そこまで言い終えると、佐々木さんはお茶に手を伸ばした。
僕が聞いているのはこの先の話だったので、アレを入手した経緯については初耳だった。持ち主が体調を崩したら次の持ち主を探す。そんなルールがアレにはあるのだろうか……?
「さて、ここからが本題になるんだが……やはり現物を見てもらったほうがいいよね」
そう言って佐々木さんは席を立った。僕もつられて立ち上がるが、隣の上名は机に両肘を立てて指を組み、そのまま両手を口元に寄せて何やら難しい表情をしていた。佐々木さんが相手なら、すぐ打ち解けられると思ったのに……
「上名、ほら、行こう」
「ん?あぁ」
とぼけたような返事をしながら立ち上がった上名と共に、佐々木さんの後に付いていく。
「ここがさっき話した居間で……ほら、アレだよ」
佐々木さんは中には入ろうとせず、少し入口から離れた廊下から中を指し示している。中を覗いてみると、そこには……
――とても綺麗な居間に、件の和箪笥が自然に溶け込んでいる様子だった。
3. 雲散
件の和箪笥を注視してみるが、特段変わった様子はない。確かにかなりの年代物らしいが、手入れが行き届いているのか古いというよりアンティーク調の高級家具といった趣だ。あんな家具なら、僕だって欲しい。そんなことを考えていると、やや遅れて隣に立った上名が声をあげた。
「うおぉっ!?」
「うわっ!……いきなり大声出すなよ」
「ビックリした……や、やっぱり、何か視えるのかい?」
上名の顔を見ると、彼には珍しく目を大きく開いて驚きの表情を見せていた。やはり、彼には何かが視えているのだろうか?僕なんかには、さっぱり何の気配も感じないし、むしろ見ていて清々しい気分になるのだが。そう、まるで……
「ちょ、ちょちょちょ、すいません、ちょっと……」
そう言いながら慌てて客間に引き返す上名に、僕と佐々木さんは顔を見合わせながら付いていくのだった。
「だ、大丈夫かい、上名くん?」
「すいません、大変失礼しました……」
「いやいや、大丈夫だけど……何か視えたのかい?」
「あー、はい。と言うか、えー……」
「何だよ、僕も気になってるんだから、早く教えてくれよ」
「……まずは佐々木さん、改めて何があったか話して頂けませんか?おおよそは田神くんから聞いていますが、漏れがあったり不正確な部分があると後々困ったことになるかもしれないので。またお話を伺った後で、いくつかお聞きしたいこともあります」
神妙な面持ちで言う上名に、佐々木さんもまた真剣な表情で話し始めた。内容は僕が上名に話したものと同じだったように思う。多分。
「というわけなんだよ」
「ありがとうございます、助かりました。では質問の方なのですが……チラッとしか見ていませんが、あの部屋に仏壇がありますか?あるならば、普段どの程度の手入れを?」
「ああ、あるよ。手入れかぁ、拝むのはほとんど毎朝で、お線香立てはお線香が一杯になったら。位牌や仏壇そのものは1ヶ月に1度拭き掃除をするくらいだね」
「その拝む際。いえそれ以外でもいいのですが、あの和箪笥を持ち帰られてから、般若心経を唱えたことはありますか?」
「え?……あぁ、確か持って帰った当日だったかな。何やらいい気分だったから朝でも無いのに仏壇を拝んで、たまにはいいかなと君のおじいさまから頂いた経典を読んだと思う」
「読んでいる途中、というか仏壇の前に座っている際に何か物音がしたり、辺りが白っぽく見えたり、頭痛がしたりはしませんでしたか?」
「うーん……?そんなことがあれば流石に覚えていると思うから、ないかなぁ」
「分かりました、ありがとうございます」
「なぁなぁ、質問が終わったんなら、もう教えてくれてもいいだろ?」
「ん?あぁ……佐々木さん、すいませんがもう一度居間を見せていただいても?」
「勿論、かまわないとも」
今度は上名が立ったのを皮切りにして佐々木さん、僕と続く。上名と僕は居間に入ったが、佐々木さんは相変わらず入口で様子をうかがったままだ。
上名はまず仏壇に手を合わせて軽く拝んだようだ。直ぐに立ち上がると、ゆっくりと件の和箪笥の方へ歩み寄る。その様子は、まるで彼が和箪笥を恐れているかのようだ。悪い感じはしないのに、なぜだろう?それとも常では感じることの出来ないほどの邪悪が、この和箪笥には潜んでいるのだろうか……
「佐々木さん、この和箪笥、抽斗は開けられましたか?」
「いや。何かをしまおうと思う前に、あんなことがあったものだから……」
「分かりました」
そう言って、上名は和箪笥の抽斗を恐る恐る、丁寧にゆっくりと開けては閉めていった。
その和箪笥は佐々木さんの言っていた通りかなり小さめで、抽斗は全部で3段。縁金具と隅金具、それと天板には結構凝った装飾が施されており、小さいながらも上に物を置く用には作られていないようだ。側板には棹通しが付いており、いよいよ高級品の雰囲気を醸し出している。
上段と下段は長い抽斗になっており、中段は左右に小さい抽斗、中央は引違いになった引き戸になっているようだ。
その和箪笥の引き出しを下段、中段の左右、上段の順に開けていった上名は、最後に中央の引違戸を開けた。僕も軽く覗いてみたのだが、中には何も入っていないように見えた。にも関わらず、上名は「ははあ……」と訳知り顔をしている。ああもう、早く説明して欲しい!
「佐々木さん、この抽斗に入るサイズの手鏡はありますか?」
「え?うーん、ちょっと待っててね」
そう言って、佐々木さんはどこかへ手鏡を探しに行った。
「おい、上名。結局何なんだよ、この和箪笥」
「まぁまぁ、全部分かってから説明するって」
「全部って……まさか、鏡越しに何かが映る、とか?」
「ほーん……そうだよ」
何故か途中からニヤついていたような気がしたが、気のせいだろうか。しかし鏡越しにということは、やはり目には見えない何かがこの和箪笥に憑いていて、その正体を明らかにしようとしているのだろうか……少し恐ろしくなっていると、佐々木さんが手鏡を手に戻ってきた。
「お待たせ、これで大丈夫かな?」
「はい、ありがとうございます」
そう言って上名はまた同じ順で抽斗を開けると、手鏡を中に入れてスマートフォンのライトを当てた。前板の裏を見ようとしているようだ。
「あー……ね。佐々木さん、近づいても大丈夫ですよ。お二人共どうぞ」
顎で鏡を見るように言われて、僕と佐々木さんは恐る恐る和箪笥に近づく。すると……
「「わぁっ!?」」
二人同時に悲鳴を上げてしまった。なんと前板の裏には、所謂御札が何枚も貼られていたのだ。
「こ、これは一体……」
「何だよこれ……説明しろ上名!」
混乱する僕達を意に介さず、上名は全ての抽斗を鏡で確認していったが、どの抽斗にも御札が貼られているようだった。
「勿論直ぐにでもご説明しますが、その前に……」
そう言うと、なんと上名は御札を全て剥がしていくではないか!僕と佐々木さんは口を閉じるのも忘れて見入っていると、やがて終わったのか、剥がした御札を丁寧にポケットに入れた上名は
「ここでは佐々木さんも落ち着かないでしょうから、戻りましょうか」
僕と佐々木さんは顔を見合わせると、歩き出した上名に再び付いていくのであった。
4. 霧消
先程の出来事に恐々としている僕らとは対象的に、上名は最初の人見知りっぷりはどこへ行ったやら、普段通り、だが外行きの口調で話し始めた。
「まずは佐々木さん、ご安心下さい。あの和箪笥は悪いものではありません。逆にきちんと手入れして使ってやれば、佐々木さんを護ってくれるでしょう」
「そ、そうなのかい……?でも、僕の経験した、例えば和箪笥の中から聞こえた声なんかは……」
「順を追って説明しますね。まずは……あの和箪笥、使われたのは御神木でしょうね」
「「御神木?」」
「えぇ。恐らく何かの手違いで使われてしまったのでしょう。最初から箪笥にする目的で御神木が使われたわけでは無いと思います」
「……それで?使われてたのが御神木だってことが、佐々木さんが経験したことにどう繋がるんだ?」
「そう急ぐなって。お二人共、浮遊霊という言葉を聞いたことがありませんか?」
「浮遊霊……その辺にいる無害な幽霊ってイメージだなぁ」「僕も同じだね」
「概ねその認識で正しいでしょう。佐々木さんが遭遇した現象は、その浮遊霊でほとんど説明がつきます。まずこの和箪笥は御神木で出来ている。この時点で、良からぬことを考えるような霊なるモノは近づくことすら出来ないでしょう。どこぞの霊場におわしたのか、地域の信仰を長年一身に受けていたのか……私でも感じ取れるほどの霊格です。そんな御神木で出来ているモノですから、自然と浮遊霊等は寄ってきてしまうのですよ。佐々木さんは信心深いお方のようですから、普段からこの辺りには多かった、というのもあるでしょうね。」
「なるほど……その寄ってきてしまったという浮遊霊が声を出したり、物音を立てたりしたのかな?」
「えぇ。ですが正確には寄ってきてしまった浮遊霊ではなく、閉じ込められてしまった浮遊霊、でしょうね」
「「閉じ込められた?」」
「ふふっ、はい。お二人共、抽斗の中の御札は見たでしょう?あれが中に入った霊なるモノを外に出さないようにしていた様です、誰が何のために貼ったのかまでは分かりかねますが。御神木の神性と佐々木さんの般若心経に寄ってきた浮遊霊があの御札のせいで出られなくなり佐々木さんに助けを求めた、というところではないでしょうか」
「待てよ、浮遊霊ってそんなに力のある存在じゃないんだろ?なのに、そういうものには疎い佐々木さんが感じ取れたのはなんでだ?」
「御神木の力を借りたんじゃ……借りたのではないかと」
「はあ……」
「いずれにしても、もう心配いりません。先程は浮遊霊が集まってくる、などと言って驚かせてしまいましたが、元々はそこら中にいたりいなかったりするものです。そんなことは忘れて、ただご利益のある有り難い家具として大切に使ってあげればよろしいかと思います。本当に素晴らしい和箪笥ですよ」
というわけで、今回の件はそれまでとなった。佐々木さんが折角だから食べていってよと茶菓子の残りを勧めてくれたので友人と2人、雑談を交えつつごちそうになった。佐々木さんは不安事がなくなったからか、いつも通りの調子でにこにこと話していたが、上名はまだ本調子とはいかないようだった。さっきはあんなに流暢に話していたのに、ここにきてまた人見知りか……
雑談も茶菓が無くなると共にお開きとなり、いよいよお暇することになった。帰り際、玄関まで見送りに来てくれた佐々木さんは上名に「歳上だからって気を使わずに、次からは普通に話してくれていいからね」と言っていた。これには上名も少し照れつつ返事をしていた。これから少しでもこいつの人見知りが改善すればいいのだが……
綺麗な夕焼け色に染まる車中、僕は上名に気になっていることをいくつか尋ねてみた。すると彼は「うちで話してやるから前見て運転しろ」ときた。……けだしその通りである。
上名家に着いて、僕がお邪魔しますの挨拶と共に中に入ると彼は「泊まってけよ」とこちらも見ずに言ってきた。まさか……祖父母のどちらもおられないので寂しいのだろうか?可愛いところもあるじゃないか。
勝手知ったる上名家の風呂で早めの入浴を済ませると、驚いたことに夕食が出来上がっていた。小分けにして冷凍しておいたというご飯、お祖母様が作り置きしておいたという味噌汁、おかずは漬物と肉野菜炒めと質素なものだったが、内容には何の文句もない。僕が驚いたのは、こいつが料理をするという1点に尽きる。
「お前、料理なんて出来たのか」
「そんな偉そうなもんじゃない、適当に火を通して適当に味付けしただけだ」
本人曰く適当な肉野菜炒めを食べてみると、いかにも男料理といったガツンと来る味で、あっという間に白米が無くなってしまった。いや、冗談抜きに美味い。ご飯が冷凍でなければおかわりしていたところだ……今度使った調味料を教えて貰おう。
「ご馳走様でした。美味しかったよ、いや世辞じゃなくてさ」
「はいはい、お粗末様」
洗い物手伝うよと申し出ると、じゃあ全部頼むわ。と言ってどこかへ行ってしまった。いやいや……
何やらゴソゴソ音がするので、布団でも出してくれているのだろう。それならそうと言えばいいのに、そんなんだから彼は他人から怖いだの愛想が悪い(これは否定できないかもしれないけど)だの言われてしまうのだ。
洗い物を終えて上名の部屋に入ると、彼は読書をしているところだった。
「洗剤とスポンジはあるやつ使っちゃったけど、いいよな?」
「んあぁ」
そう言うと彼は本を本棚にしまい、空いていたグラスに麦茶を注いだ。
「サンキュー」
「さて、何から話そう?」
ついこの間も聞いたようなセリフだなぁと苦笑しつつ、僕は車中での質問を繰り返した。
「いくつかあるけど、まず佐々木さんの体験で閉じ込められた浮遊霊の仕業とするには説明のつかないものがあるだろ?」
「ほぉ、そりゃ一体?」
「とぼけるなって。佐々木さんは和箪笥からする物音や声の他にも、和箪笥に背を向けると肩を叩かれたって言ってただろ?浮遊霊は箪笥から出られなかったんだから、これはおかしいよな?」
「そもそも幽霊が肩を叩けるってのもおかしい話だけどな」
「茶化すなよ。箪笥の中の浮遊霊じゃないんだから、これは一体なんなんだ?」
「んー、簡単に言えば手を伸ばしたら届いたってことじゃねぇかな」
「はぁ?」
「お前にも御札が貼ってあるところは見せたろ?確かに多くの御札が貼られてはいたけど、隙間なくびっしりってわけじゃなかったよな?」
「あー、その隙間から手を?」
「じゃねぇかな」
「なるほど……確かに佐々木さんは和箪笥を調べてから振り返った時って言ってたしな。でもまだあるぞ。お前さ、あの箪笥を見た時かなり驚いてたろ?それに、実際調べる時もおっかなびっくりって感じだったし。あれが本当に良いモノなら、そんなに驚いたり怖がったりしないだろ?」
「あー、アレな……いや、誓って言うがアレは本当に悪いもんじゃないぞ。ただ、なぁ……いや、俺もアレほどのもんは久し振りに見たからビックリしたってだけで……つまり、なんだ。良すぎるんよ」
「良すぎる?」
「ん。いや、マジであんなもんどっから手に入れたんだか……佐々木さんの言ってた店主が神様か仏様か疑うレベルだね」
「マジか……」
「いやほんとに。家に入る前から凄そうだなぁとは思ってたんだが、実物はすげぇのなんの。例えるなら、有名なお寺のご本尊へ土足で上がり込んでる気分だったよ」
「そりゃあ……ご愁傷さまだな」
「目が潰れるってのはああいうことを言うんかね?全く生きた心地がしなかったよ」
「ははは。なら箪笥に触ってる時にやたら慎重だったのもそのせいか?」
「……目ざといなぁお前は」
「やっぱり!なんか説明のそれとは違うなって思ったんだよ……で?」
「あぁ、最初は今言った理由でビクついてたよ。こんな物に触るなんて恐れ多い、ってな。だけど、近くで見てみるとどうもそれだけじゃなさそうでよ、何と言うかな……残り香っていうか、とにかく何かを感じたんだよ。あ、何か居たんだ。ってな」
「……何か?」
「何か。こいつに関しては、まぁ間違いなくヤバメなもんだったろうな。それこそ、何百、何千人と祟った怨霊とかさ。それでピーンと来たわけよ。あぁなるほど、こいつは牢屋だったのかってな」
「牢屋かぁ……でもお前、あの箪笥は意図してご神木を使って作られたわけじゃないって言ってなかったか?それに、悪いものを封じるなら抽斗の前板に御札があるのも分かるけど、それなら全面に御札が必要なんじゃないのか?」
「さぁなぁ……ただの箪笥が何故かご神木で作られていて、それがどうして何かを封じる牢屋になったのか。貼られていた御札は汚れちゃいたけど、結構なモンだったしな。とりあえず1枚は残して後は焼いておいたけど。結局経緯は分からんが、それこそ作った人に聞かなきゃ確かなことはなぁ」
「そうだなぁ……ん?おい待てよ。するとお前、中にヤバメなもんが入ってるかも知れないのに抽斗を開けたのか!?」
「ん?そうだよ」
「そうだよってお前……」
「怒るなって。お前だけなら兎も角、あそこには佐々木さんも居たんだから、俺が本当に危ないことをするはずないだろ?」
「まぁ……っておい、僕だけならって」
「ははは、真に受けんなって。冗談はともかく、中身はもうないって確信があったから開けたんだよ。万が一があるかもって多少ビクついてはいたけどな」
「なるほど……で?本当に何も入ってなかったんだよな?」
「話してた浮遊霊は居たかも知れんが、ヤバメなもんは影も形もなかったよ。閉じ込めた後どこかへ運んでからなんとかしたのか、隔離と処理を同時に出来るよう作られてたのか……」
「ふーん……まぁそれならいいか。後何かあったかなぁ、気になること……僕が車の中でお前に聞いたのって、もう全部聞いたか?」
「いちいち覚えてねーよ」
「それもそうか……あっ、佐々木さんが箪笥を貰い受けたっていう店の人が元気ならいいけど、元気じゃなくなったら他人に譲れみたいなこと言ってたらしいよな、あれはどうしてだろ?」
「んー、単純に管理する人間が常に居るようにしたかっただけじゃね?その店主が事情を知ってるにせよ知らないにせよ、話を聞いただけでも危ないものを押し付けようって感じには聞こえなかったしな」
「なるほど……そうそう。言うのを忘れてたけど、今日はわざわざありがとな。佐々木さんっていうと、お前からしたら他人みたいなもんなのに」
「いやいや、じいちゃんの知り合いみたいだし、この前の件ではわざわざ動いてもらったしな。それに、あんな良い人めったに居るもんじゃないよ」
「同感」
2人でひとしきり笑った後、適当に付けたテレビを見ながら、適当な雑談に花を咲かせる。途中であっ、俺風呂入ってねーや。と言って上名が風呂に行った後、残された僕はテレビにも飽きて、(あいつ、どんな本を読むんだろ?)と、失礼だとは思ったが本棚を物色していた。
大半はホラーや怪談、ミステリーが占めているようだ。加◯七◯、◯地秀◯、澤◯◯智、霜島◯◯、森◯茂◯、三◯◯◯三、◯◯行人、恩◯◯。(敬称略)挙げればキリがないな。他にも天体物理学や量子力学、素粒子物理学等の分野まである。だが、というよりやはり若者向けの作品。例えば恋愛小説や異世界転生系などの、やたら長いタイトルの作品は見当たらなかった。
いくつか取って読んでみようとも思ったが、あいつとは趣味が合うので読んだら止まらなくなる可能性が高い。止めておこうと本棚から視線を外そうとした時、1冊だけ他の本の上に横にして置いてあるものを見つけた。僕が来るまで読んでいた本だろうか?
手に取ってみると、ブックカバーのかかっていない並製本の文庫のようだ。全体的に茶色だったり黄ばんだりしていて、所々がちぎれたり、紙魚の食った跡もある。表紙も背表紙もそのような様子で、タイトルや出版社は判別できない。中表紙は無事だろうかと何ページか捲ってみると、かなり長いタイトルの内、数文字だけを読み取ることができた。
〓国〓陰〓〓〓烏〓集
また難しそうな本を読んでるなぁ……と感心、半ば呆れていると廊下から足音が聞こえてきた。どうやら戻ってきたようだ。
その後は、僕の見た中でも知っている作者さん達の話題になった。やれあの作品が面白いだの、あのシリーズだけは受け付けないだの。そんな話をしている内にさすがに眠くなってきたので、僕はもそもそと布団を被る。
上名が紐を引いて常夜灯だけになる。暗闇がそうさせたのか、僕は思い出したことを上名に聞いていた。
「そうだ、お前あの時『佐々木さんが遭遇した現象は、その浮遊霊でほとんど説明がつきます』って言ってたよな?ほとんどって、全部じゃないってことだろ?だったら……」
「別に、大したことじゃないぞ。だから説明しなかったってだけで」
「思い出したからには気になるだろ。教えてもらわなくちゃ眠れるわけないだろ?」
「眠れるよ。寝付き良いんだろ?」
「いーや。聞くまでこうやって喋り倒してやるからな」
「ははは、なんだそりゃ……ったよ。ただし、俺にも全部分かってるわけじゃないぞ?後であれそれが気になるって文句言うなよ」
「言わないよ、なに?」
「はぁ……いいか、佐々木さんが言ってた変な体験ってのは要約するとなんだった?」
「えーっと……箪笥から変な物音がしたり、近づいて耳を澄ませてみると話し声がしたり、離れようと背を向けると肩を叩かれたり、かな」
「肩を叩かれたってのは話したよな、御札の隙間から手を伸ばしたんじゃないかって」
「あぁ」
「物音も、暴れるなりなんなりすれば音くらいするだろうって思うよな」
「思うね」
「なら、声は?」
「声?それも浮遊霊が出してたんじゃないのか?」
「まぁ大半はそうだろうな。佐々木さんも『ぼそぼそと囁くような、聞き取りづらい声。うーとかあーみたいなうめき声』って表現をしてたな」
「うん……それで?」
「お前も聞いてたろ、佐々木さんは唯一聞き取れた声をなんて表現してた?」
「あー、言ってたね。確か……『おん……まゆ……てぃ…そわか…何かのお経かな?』って言ってた気がする」
「そ。正確にはおん まゆらきらんてい そわか、だな。お前は口に出すなよ」
「なんでさ……まぁいいけど。で?何のお経なのさ、それは」
「お経じゃあない、真言だ」
「?何が違うのさ」
「簡単に言えば、お経は教えを広めるもの。真言は力を借りるものって覚えとけば間違いない」
「はぁ……で?その真言の方が聞こえてたらマズイのか?」
「そこが微妙なんだよな……佐々木さんが聞いた真言は、まず間違いなく孔雀明王の真言なんだよ」
「あ、知ってる。確か病気を防いでくれたり、雨乞いにも用いられるんじゃなかったっけ」
「そ。無病息災、延命に災難除去ってな。覚えが良いのは師匠が良かったのか?痛い痛い、冗談だって。で、だ。この孔雀明王が病気を防いでくれる、癒やしてくれるって言われてるのは、孔雀が害虫や毒蛇を食べるとされているからだ。お姿も孔雀の背に乗って描かれる事が多いし、お顔も明王にしては珍しく菩薩の表情を浮かべてるしな」
「ふーん……で?聞けば聞くほど問題無さそうに聞こえるんだけど」
「問題は、何故和箪笥の中から聞こえたか、なんだよなぁ……これが摩訶般若波羅蜜多心経の一節とかなら佐々木さんが読経してたのを聞いて……なんてことが考えられたんだけど」
「浮遊霊にも孔雀明王の真言を知ってるのが居たんじゃないの?」
「……そこなんだよな」
「え?」
「もしそうだと仮定すると、和箪笥の中に閉じ込められ、出してほしくて助けを求める浮遊霊が孔雀明王の真言を唱えてた。ってことになるよな」
「そうなるね」
「だとするとだ、孔雀明王はどういう謂れがあるんだっけ?」
「……無病息災、延命、災難除去」
「な、きな臭くなってきたろ?」
「で、でもお前、中には何も居ないって確信があったって……」
「うーん、こういう予感というか、そういうもんを外したことは無いんだけどな」
「……佐々木さんは大丈夫なんだよな?」
「あぁ。お前も含めて、そこは絶対に保証してやるよ。俺が抽斗を開けた時、そこに邪悪な何かは間違いなく居なかった」
「なら、一体……中の浮遊霊は、何から助けてほしかったんだよ?」
この時期にしては過ごしやすい夜だったが、二人が感じた漠然とした不安は、しかし眠りという薄布に覆われて、数刻も前に止んでいた雨のように忘れ去られていった。
庭の桔梗や向日葵、鉄砲百合に鬼百合、紫陽花、万両に千両、しおらしく咲く榊や葉を茂らせ始めた百日紅、未だ花を残した杜若は、昼と同様に項垂れている。
垂らす雫を持たぬまま。