01 ヴィンセント10歳 01
事の発端は、十二年ほど前。
『厄介な拾いものをした』
治療魔法師エルの彼に対する第一印象は、それだった。
今日は一日中、雨が降り続け。空はどんよりと黒い雲に覆われたまま、夜を迎えようとしていた。
街での仕事を終えたエルは、林の中にある自宅へと帰るため、傘をさしながら歩いていた。
街から外れたこの辺りで、人に出会うことはあまりない。
たまに顔を合わせる者といえば、山で猟師をしている者や、山菜採りを生業にしている者。そしてご近所さん――っと言っても、数百メートルは離れているが。
皆、顔見知りなので見知らぬ者に出くわすことはほぼない。
ゆえにエルは、十五歳という若さでも危機感を覚えることなく、のうのうとひとけのない林を通り、一人暮らしをしていた。
そんな帰宅途中。道の先に倒れている者を発見した。
このような雨の日に、山へ出かけた者でもいたのだろうか。山菜採りのおばあちゃんは近ごろ身体の調子が良くない。もしかしたら、具合が悪くて倒れたのか。
心配しながら駆け寄ったエルの目に映ったのは、想像していた人物ではなく、十歳くらいの少年の姿だった。
綺麗に切り揃えられている黒髪は、雨でぐっしょりと濡れており。肌が露出している腕や、足は、泥だらけ。
そして、貴族の子のような上質な服装。その服は、背中が大きく裂けており。そこから血が、雨とともにだらだらと流れ出している。
彼の周りは、水たまりなのか、血だまりなのか、よくわからない状態となっていた。
「なんてこと……っ!」
傘を放り出して駆け寄ったエルは、すぐさま少年の背中に治癒魔法を施した。
「傷が深いわ……。それに、身体も冷え切っている……」
すでに少年は呼吸も浅くなっており、瀕死と言っても過言ではない状況に陥っていた。
助かる見込みは非常に低い。
けれど、この少年は運が良かった。
なぜならエルは、若くして治療魔法師として生計を立てられるほど、才能に溢れた少女だったから。
エルはどうしても、この少年を助けなければいけないと感じた。
彼を助けることで、自分に課せられた運命も変えられるのではないかと。
まだ見ぬ運命への罪滅ぼし。
いや。運命に抗うために、エルは魔法を使い続けた。
エルが魔法を使い続けて、どれくらい経っただろうか。
気づけば降り続いていた雨はいつの間にか止み、夜空には星がいくつも瞬いていた。
「なんとか、一命は取り留めたようね」
汗と雨でぐっしょりと濡れた顔を袖で拭ってから、エルはほっとした気持ちで少年の頬をなでた。
彼を救うには傷を塞ぐだけでは足りなかった。大量に流れて出てしまった血液を補うためには、自分のマナを彼へと注ぎ込む必要があった。
『マナ』とは、この世界では魔法を使うためのエネルギーであり、生命を維持するためにも必要不可欠なもの。
生き物は皆、空気中に存在しているマナを体内に取り込み、自分色のマナへと変換して蓄えている。このような緊急事態の際には、直接的に相手へマナを送り込むことも可能だ。
エルの体内に蓄えられたマナを彼へと注ぎ、その上、魔法まで使用した。
今のエルは、自分の身が危険なほどのマナ不足に陥っているが、それでも心は満ち足りていた。
(人を助けられた。私は悪人ではないわ……)
エルは善人であり続けなければいけない。未来を変えるために。
それから数日間。エルは仕事の依頼は引き受けずに、付きっきりで少年の看病をした。
彼はまだ、目を覚まさない。
傷は魔法で治せたが、今は他人のマナによって辛うじて生命が維持されているようなもの。
目を覚ますには、彼自身が自分でマナを取り込み、血液やマナを自分の力で身体中に巡らせなければならない。
それには少し時間がかかる。根気強く看病して見守るしかない。
けれど、十日が経過しても少年は、目を覚まさなかった。
それどころか彼の体内を満たしたはずのマナが、徐々に減り続けているではないか。
生き物は、生きているだけでマナを消費する。その減った分を、空気中から取り込むことで補っている。
彼の治療で大量にマナを消費したエルですら、今は元の量に戻りつつあるのに。
それなのに少年に渡したエルのマナは減り続け、彼自身のマナは一向に増える気配がない。
血液を作り出すためにマナを多く消費していたとしても、彼自身のマナが増えないことがおかしい。
そのほかにもエルには、気になっていることがあった。
彼の体内には、様々な者のマナが少量ずつ混在している。
仮に彼が病弱な身体だったとしたら、エルのようにほかの治療魔法師からの治療を日頃から受けていた可能性はある。
けれど、彼の体内にあるマナは他人のものばかり。本人のものと思われるマナがまったく感じられない。
初めは瀕死状態による影響かとも思ったが、十日もこの状態ではさすがに別の問題があると考えるほかない。
(もしかしてこの子、マナ核を染めてもらっていないのでは……)
人間は不便なもので、生まれたばかりの赤ん坊は母親のマナで満たされている状態であるため、自らマナを取り込む方法を知らない。
自らマナを取り込むには、マナ核を動かす必要がある。
そのマナ核も、生まれたばかりの頃は動いていない。
親が子のマナ核に自らのマナを満たし、親のマナ色に染めることで、マナ核は初めて動き出すのだ。
けれど、様々な事情で親から、マナ核を染めてもらえない子もいる。
そのような場合でも普通は、誰かしら不憫に思った者がマナ核を染めてくれるものだ。
そうでなければ赤ん坊は、マナを取り込めずに死んでしまうから。
それでも極まれに、マナ核が動かないまま生き続ける者もいる。他人からマナを与えられ続けることで成長する者が。
まさかと思いながらエルは、少年の右胸にあるマナ核の辺りに触れた。
(やっぱり。マナ核の音がしないわ……)
マナ核を誰の色で染めるかは、その子の人生に大きく影響する。
本当の親が現れるまでの繋ぎとして、善意でそのような処置をする場合もある。
ただ赤ん坊ならまだしも、この少年はもう十年くらいは生きている。それだけの長い期間を他人のマナだけで補うには、かなりの数の協力者が必要なはずだ。
(そんな……)
そこまでして、この少年を生かさなければいけない理由。
エルには心当たりがあった。
その証拠を見つけなければいけない。
エルは、捨てるつもりだった少年の汚れた衣服を取り出すと、井戸へと走り、必死に洗った。
なんとか泥と血を落とし元の色が見えるようになると、エルは愕然とした。
胸ポケットには、皇家の紋章。上着の内側には『第一皇子ヴィンセント』の名が刺繍されていた。
エルはこの人生で最も避けるべき相手、『小説のヒーロー』を拾ってしまったのだ。