殺人者の告白
昔から、V出版社のO編集部で、まことしやかに囁かれている噂が った。
都市伝説のような噂。
その噂の真相を知っているのは、殺人者だけだろう。
「ときどき、脱字のひどい作者がいるんだよね」
編集者をしているYくんが、酒の席で話をはじめた。
「誤字脱字なんて、誰でもあるだろ」
「まぁね。校正前の原稿なんて完璧じゃないのが当然だし。でもさ、誤字脱字とかって、だいたいは予想がつくんだよ」
「文脈で読めるってこと?」
「それもあるけど。今僕が言っているのはそうじゃなくて。なんでこんな間違いになったのかなっていう理由だよ。たとえば、キーの打ち間違いだろうなとか、文章を書きかえた時に修正し忘れたのかなとか、予測変換で目が滑ったのかなとか」
「ああ、誤字脱字の理由の予想か」
「そうそう」
Yくんは手元のおちょこを手に取ると、くいっと飲み干した。私はとっくりを持ちあげて、空になった杯へ酒を注ぐ。私も以前はV出版で記事を書いていたことがあり、Yくんとは同期だった。高校も大学もおなじで、幼馴染ともいえる。
「でも脱字のひどい作者の誤字脱字には、そういうのがないというか。どうしてそんな誤字脱字になるのか、予想がつかないんだよね」
「キーボードの配列が特殊だとか?」
「どうなんだろうね」
「私も記事を書いてた頃は、誤字脱字がひどかったけどな」
脱字のひどい作者の肩をもつわけではないが、どんなに推敲してみても現れるのが誤字脱字である。
Yくんは何かを思い出したのか、あははと笑い出した。
「そういえば、僕がとつぜんパワースポットの記事を依頼して、超特急で君に書いてもらったときの原稿は、誤字脱字だらけでひどかったな」
「いや、あれは仕方ないよ。あれは君の依頼がひどかったんだ。あんな差し迫った納期で書けたことを褒め称えてもらってもいいくらいだ」
「うん。あの時は本当に助かったよ」
Yくんはしんみりとした様子で視線をさげた。当時のことを思い出しているのだろう。いつでも用意周到な彼が、企画の記事に穴を開けそうになったのには理由があった。
新婚だった彼の妻が、失踪したのだ。
二人は仲睦まじく、私を含めた周りの物も盛大に祝福した結婚だった。
家出なのか、あるいは事件に巻き込まれたのか。Yくんの妻の行方は、誰にもわからなかった。
わからないままひと月が過ぎた頃、彼の妻は無惨な姿で発見された。
「あの時はYくんの方が大変だった。仕事を放り出さなかった君は素晴らしいよ」
思えば彼と仕事をしたのは、それが最後だった。Yくんもそれに思い至ったのか、酔いでほんの と赤らんだ顔でこちらを見た。
「君はもう記事を書かないの?」
「ああ。もう随分文章なんて書いてないし」
「君がその気なら、僕はいくらでも仕事を回してあげられるよ。僕は君の書く記事 好きだったし、実際、周りの評判もよかった。書かないなんてもったいないよ」
「そう言われても……。もうV出版の社員でもないし」
「フリーでいくらでも書けるよ」
Yくんは部署の移動も多く、当時も多忙で、私がV出版を辞めたことを知ったのも随分たってからだった。あの時も今と同じように飲みに誘われて、退職したことをひどく惜しまれた。
「Yくんがそうやって惜しんでくれるのは嬉しいけど、今の仕事が好きだしな」
曖昧に流そうとすると、Yくんは「記事を書くことに飽きたってわけか」と聞いてきた。
「まぁ、そうかな」
「じゃあさ、小説でも書いてみたら?」
「そんな時間も創造力もないよ」
私は笑って、ジョッキに残っていた生ビールを飲み干した。
「それより脱字のひどい作者のせいで、何か困っているのか?」
話を逸らしてYくんを見ると、彼は自分の切り出した話題を思い出したらしい。忘れるような話題なら、大した話ではなさそうだ。脱字の作者のこ は、ただの世間話で、Yくんはもう一度私に記事を書かせたかったのだろう。
それがこの酒の席を設けた真意なのだと悟った。
けれど、私は二度と文章を書くことを生業にする気はない。
他愛無い世間話だと知りながら、わざとYくんの持ち出した脱字のひどい作者の話を ながす。
「愚痴ならいくらでも聞くけど」
「脱字のひどい作者ね。それで困っていたのは、僕じゃないんだけど」
Yくんは気持ちを切り替えたのか、箸で小鉢のホタルイカをつまんだ。
「でも、それがさ、なかなか面白い顛末だったんだよ」
酢味噌をつけて口に含む彼の隣で、私は居酒屋の店員に生ビールを注文した。
「いまコミックス部にいる後輩が担当していた漫画家だったんだけど。その漫画家はプロットをテキストで箇条書きにして提出してくるらしいんだ。ところが、 る連載のプロットの脱字がひどくて。後輩もはじめは急いていたのかなくらいに思っていたらしいんだけど」
「連載作家なら、忙しいだろうしな」
「うん。でも、その脱字がネームでも、セリフの打ち出しでも同じように頻出していたらしいんだ。後輩が何度赤をつけても、同じ脱字が繰り返される」
「もしかして、編集への嫌がらせ?」
Yくんは首をふる。
「本人はまったく無意識だって言うんだよ」
「でも、無意識でそんなことあ えないだろう」
「そう。それでさ、原稿の文字入れ班が、その脱字の意味に気づいたんだ」
「脱字の意味?」
Yくんはそこで意味ありげに笑う。まるでささいな悪戯を自慢する少年のような目だった。
「僕も後輩に見せてもらったんだけど、抜けている文字を補完して順番にたどると」
「たどると?」
「わ た し は ね こ を こ ろ し ま し た」
私はぞっとした。
(私は猫を殺しました)
Yくんは暗い目で手元のおちょこを眺めている。
「抜けている文字は、ひたすらそれを繰り返していたんだ。私は猫を殺しましたって。そして、その漫画家は本当に自分の飼い猫を殺していた」
突然の身近なホラー話に、私は身の毛がよだつ。笑おうとした 恐ろしすぎた。Yくんは無表情な横顔のまま続ける。
「V出版のO編集部にさ、昔から都市伝説みたいな噂があったの、君も知っているだろ」
「都市伝説みたいな噂って?」
予想はついたが、今の話を聞いてそれを認めると、それは都市伝説でも噂でもなくなってしまう。私は知らないふりをして ぼけた。Yくんは噂を暴露する。
「殺人作家の原稿には、無意識に罪を告白する脱字が見られるようになるっていう噂」
血の気がひいて指先が冷たくなるのを感じながら、私はぎこちなく笑った。
「そんなの都市伝説で……」
Yくんが感情の読めない顔で私を見る。
「後輩に猫を殺した漫画家の話を聞いてから、僕は君に書いてもらったパワースポットの原稿を見直してみたんだ」
彼は傍らに置いてあったビジネスバッグから、古びた一枚の紙を取りだした。
「君にしては、あまりにも誤字脱字が多かったから印象に残っていた」
差し出されたのは、私が大急ぎで書いた、パワースポットについての原稿のコピーだった。
「……コピーをとってあったのか」
「うん。新人の頃、一度原稿を返した失くしたと水掛け論になったことがあってね。その頃からコピーをとることを習慣にしていた」
Yくんがコピーされた原稿の活字から、脱字をだどって補完する。
「わ た し は Y く ん の つ ま を こ ろ し ま し た」
(私はYくんの妻を殺しました)
「これが、君が記者を辞めた本当の理由」
Yくんの声が震えている。恐れなのか、怒りなのか。わからない。
注文していた生ビールが、店員の明るい声と一緒に運ばれてきた。酔いはすっかりさめている。私は目の前のコピー原稿から目をそらせない。
私自身、この脱字の意味に気づいた時はゾッとした。どれほど意識をむけても、文章をつづるたびに現れる。この脱字を回避することができないのだ。
罪悪感の発露なのか、あるいは殺人を誇示しているのか。わからない。決して消せない刻印だった。
わたしはYくんに告げた。
「Yくん。編集部に伝わる都市伝説のよ な噂は、真実だったよ」
了