9 万理華
最悪な気分のままゴールデンウィークに突入した。
両親は仕事、中一の妹は習い事があって出かけている。俺は自宅に籠り、一人で課題に取り組んでいた。
昼食はカップ麺で済ませたが物足りず、キッチンを物色する。カップボードの上にぽんと置かれているピンクの紙袋が目に入った。いぶきからもらったクッキーだ。食べるのをすっかり忘れていた。
丁寧に施されたラッピングを解き、中から一枚つまんでみる。
満月のようにまるいクッキーだった。かじってみると、しっとりした生地が口の中でほどける。
「うまっ」
味も申し分ない。売り物のようだった。
甘さは多少感じるが、味の良さが上回ってあまり気にならない。これなら何枚でも食べられそうだ。
舌鼓を打っていると、ポケットに突っ込んでいたスマホがぽこんと鳴った。ラインのメッセージを受信したことを知らせる音だ。
「万理華から?」
三つ下の妹、万理華からだった。彼女は今年、俺とはまた違う私立一貫校の中等部一年生となった。
スマホに表示された時刻を確認する。彼女は最寄り駅直結のビルの中にある絵画教室に通っている。今はちょうどレッスンを受けているはずの時間だ。
忘れ物でもしたのだろうかと思いながら画面をタップしメッセージを読む。
《たたひけゆててき》
「……?」
レッスンに飽きて、友達とふざけているのだろう。無視することに決め、画面を伏せようとしたとき、またぽこんと間抜けな音が鳴った。
《たすけて えき》
俺は画面を凝視し、息を呑んだ。
*
「万理華!!」
最寄り駅のコンコースの端に万理華はいた。しゃがみ込んでいるせいで、長い髪が床についてしまいそうだ。
「お兄ちゃん……」
顔を上げた妹の目尻には涙が溜まっている。
隣には、カーキ色のキャップを深く被りだぼっとしたパーカーを着た若造がいた。そいつはあろうことか、妹の背中を馴れ馴れしく撫でまわしている。
「おまえっ!」
そいつを見るなり、頭にかっと血が上った。
痴漢だろうか、しつこいナンパだろうか。
どっちでもいい。俺の妹に対していい度胸だ。
罪状を調べるより先に一発殴ってやらないと気が済まない。
「妹になにをっ……!」
「やめてくださいなのですっ!」
若造につかみかかろうとした俺の前に立ちはだかったのは、助けを求めてきたはずの万理華だった。
「お兄ちゃんは勘違いしているのですっ!」
俺のあごの下に、万理華の険しい顔があった。
彼女は中一だが、身長は170を越している。
「この方は万理華を助けに来てくれたのです! 悪い人ではないのです~!」
「……へ?」
情けない声が出た。血管の浮いた拳が行き場を無くす。
「す、すみませんっ。紛らわしくて……」
若造も立ち上がり、俺にぺこぺこ頭を下げた。俺たちに比べて随分と小柄だ。小学生か中学生だろうか。やけに高い声には、聞き覚えがあった。
「彼女、変な人に付きまとわれていたんで、ぼくが声を掛けたんです」
彼は深く被っていたキャップを礼儀正しく取る。
目が合った。
「「あっ?」」
お互いの声が揃う。
「ひろ……、じゃなかった。いぶき?」
「幸く……、じゃなかった。幸太郎?」
「えええっ? もしかして、二人はお知り合いなのですか?」
目を真ん丸にする俺といぶきを万理華が見比べる。
広瀬いぶきは相変わらず黒いマスクをし、顔のほとんどを隠していた。
体のサイズに合っていない大きなパーカーにジーンズ。足元はスニーカー。手元には脱ぎたてのカーキ色のキャップ。
至近距離から見ればボーイッシュな装いの女の子だが、遠目から見たら男の子だ。
まさか、校外でも男装をしているとは。
まじまじ観察していると、彼女の小さな手が小刻みに震えていることに気付いた。
「どうした? また熱でも出たのか?」
「ええっ? 具合が悪かったのですか?」
いぶきはきょとんとしながら自分の両手を見下ろした。自分の体の震えに今初めて気づいたらしい。ぱちぱちと瞬きをすると、ぶんぶんと首を振った。
「あ、いや、大丈夫。ちょっとどきどきしただけだから」
「いぶきさんも怖かったのですね……。申し訳ありません」
万理華が屈んで彼女の顔を覗き込んだ。
「ううん。怖かったのはあなたのほうでしょ? ええと、お名前は万理華ちゃん、でいいのかな?」
「はい! 岬万理華と申します~」
「ぼく、広瀬いぶき。幸太郎と同じ令涼の一年生」
「万理華は幸太郎お兄ちゃんの可愛い妹なのです~」
「自分で言うなよ」
「仲が良いんだね」
いぶきは苦笑いすると、まだ震えている自分の手を握りしめながら事情を説明してくれた。