8 七音実
「私がどうして男の子の恰好をしているのかって、こ……、岬くんは気にならないの?」
「……なにか事情があるんだろ?」
彼女は指をもじもじさせながら「うん」と頷く。
「おまえが男装している理由なんてわざわざ知りたくないし、言いふらしたりもしない。安心しろよ」
俺だって自分の体質や過去のことを他人にあれこれ訊かれるのはごめんだ。
「ありがとう……」
「べつに。おまえのことなんて、そもそも興味ないし」
「………………そう、だよね」
彼女はぽつりと言ってまた自分の上履きを見下ろす。先生に怒られた幼稚園児みたいだった。
なんでちょっと寂しそうなんだよ、と心の中で首を傾げる。
「……じゃあな、広瀬」
俺は今度こそ立ち去ろうとした。これでもう金輪際、お互いに関わることは無いだろうと思った。
しかし、
「私、いぶき。広瀬いぶき」
彼女はまた俺のことを呼び止める。
工藤先生から聞いていたため、下の名前は既に知っていた。「いぶき」という名前は両性的だと思っていたが、彼女が自らの口で名乗ると急に女子らしく感じられるから不思議だ。
「いぶきって、呼んでくれる?」
「……あ、ああ」
頷いてみたものの、下の名前を呼ぶ機会なんてあるだろうか。教室だって離れている。一組と五組は廊下の端と端だ。
「私も、その、……『幸くん』って呼んでいいかな!?」
マスクの紐を掛けた広瀬の耳がぽっと赤く染まる。
「は、はあっ?」
いきなりの申し出に、俺はその場でズッコケそうになった。
「な、なんでだよっ」
「いやならいいけど……。ごめんなさい。馴れ馴れしいよね」
広瀬は小さい肩をしょんぼりと落とした。
べつに馴れ馴れしいのは構わない。彼女は同級生だ。しかし女子から「幸くん」なんて呼ばれたら、蕁麻疹ができたみたいに体がこそばゆくなってしまう。
「幸太郎」
「へ?」
「『幸くん』なんてガキみたいでいやだ。幸太郎って呼んでくれ。いいか。幸太郎、だ」
広瀬はぱちぱちと瞬きした。
「こ、こうたろう」
彼女はぎこちなく復唱する。
「おう。よろしくな。広瀬……じゃなかった、いぶき」
いぶきが柔らかく目を細めた。
睨んだのではなくて、微笑んだのだと思う。マスクをしているから、表情がよくわからない。
俺は一人、廊下を曲がった。手洗い場の鏡に自分の顔が映る。
どう見ても、『幸くん』っていう柄じゃない。
鏡の中で、ヤンキーのような見てくれの自分が苦笑する。
小学生のときだったら「幸くん」と呼ばれていても違和感が無かっただろう。「幸ちゃん」でも通用したかもしれない。
そういえば、過去に一人だけいた。
俺のことを「幸くん」と呼んでくる知り合いが。
昔のことだ。彼の名前なんてもう忘れてしまった。フルネームを尋ねることすらしなかったと思う。
この俺に愛の告白までしてきたというのに……。
「きゃっ」
回想しながらぼんやり歩いていたら、女生徒にぶつかりそうになった。いぶきから貰った紙袋が手から落ちる。
「わ、悪い」
謝りながら、女生徒に接触しなかったことを確認し、ほっと胸を撫で下ろす。
「もー、気を付けてよねっ!」
彼女は文句を言いながら顔を上げる。
くるくると巻かれた明るい髪に濃い化粧。そよ風が吹けば下着が見えそうなほど短いスカート。令涼学園では珍しい人種、ギャルだった。上履きの色は赤で、二年生であることがわかる。
はだけたように着崩したシャツには名札がついている。
それを見た途端、俺の息は止まった。
「……!」
このギャルに、俺は覚えがあった。
まずい。
頭の中で警報音が鳴り響く。
「え? あれ? もしかして」
相手も目を見開いた。偽物であろう長いまつげが揺れる。
「あんた、岬? 岬幸太郎?」
薄く色づいた爪の先が俺に向けられる。
「…………阿久津、七音実」
名前を口にした途端、彼女と触れ合ったわけでもないのに自分の肌の全てが粟立った。つむじからつま先まで、余すことなく全てだ。
まずい、まずい、まずい――!
警報音が音量を増す。本能に「逃げろ」と警告されているのに足がすくんでいた。
「呼び捨てすんなし。阿久津先輩、だろ?」
阿久津七音実は俺を見上げ、にやにやと笑い出す。
「うっわ、懐かしい~。でかくなりすぎじゃね? てか、岬も令涼に入ったんだぁ? もしかして女子目当て? ハーレムでも期待してた? いやらし~っ」
品を感じさせない彼女の声と言葉に、耳の奥にまで不快感が走った。背中に汗がつたい、シャツが濡れる。
「まさか、同級生の女子をオカズにして抜いてないよね? 着替えとかトイレとか盗撮してたりしてー?」
阿久津はてらてらと濡れた唇を曲げている。
「んー? なんか落としてるよ?」
彼女は屈んで、俺の落とした紙袋を拾い上げる。シャツの襟元から大きな胸の谷間と黒い下着が見えたが、全く嬉しくない。
「クッキー? 甘いもの苦手じゃなかったっけ?」
彼女は断りもなく紙袋の中を物色し始めた。
「『その節はお世話になりました』?」
手作りの菓子と一緒に、メッセージカードも添えられていたらしい。
「『その節』って? きゃっ」
俺は阿久津の手から紙袋を引ったくり、逃げるように廊下を走った。
一年一組の教室に駆けこむ。自分のロッカーの中に紙袋を突っ込み、代わりに体育用のタオルを引っ張り出す。
「幸太郎、どこか行ってたのかい?」
翔が心配そうに声を掛けてくる。席に戻った俺は汗だくだった。
「くそしてきたんだろ、くそ!」
照井が大声でデリカシーの無い発言をした。ろくに言い返すこともできず、タオルで額を拭く。
「よ、よっぽど辛かったんだな」
照井が翔に耳打ちするのが聞こえたが、無視して机に突っ伏す。
――最悪だ。
机を拳で殴りつけたくなる。
元女子校に入学してしまったうえに、阿久津七音実が在学していただなんて。
そもそも、あいつはどうして俺に気付いたんだろう。
最後に会ったのは俺が小五、彼女が小六のときだった。仲が良かった翔ですら成長した俺が誰かわからなかったというのに。
俺は「ギャルの洞察力ってすげえな」と感心しながら大きなため息をついた。
そして気が付く。
――クッキー? 甘いもの苦手じゃなかったっけ?
甘いものが苦手だなんて教えた覚えはない。
洞察力を通り越して読心術でも使えるのだろうか。
とにかく、忘れよう。そう決意する。
あいつのことなんて考えていたら、本当に蕁麻疹が出てきそうだ。
この持病の原因を作ったのは、他でもない阿久津七音実なのだから。