6 広瀬いぶきの正体
――幸くん、ごめんね……。
「ごめんって、なにが……?」
自分の寝言に起こされ、保健室のベッドの上で目を開ける。
消毒液のにおいに鼻孔を刺激され顔をしかめた。
夢の中で誰かに謝られていた気がする。しかしそれが誰だったのか、どのような内容の夢だったのか、もうさっぱり思い出せない。
「岬、起きたのか? 体調はどうだい」
ベッドとベッドを仕切るコントラクトカーテンの向こうから、女性の低い声が聞こえた。
「落ち着いてきました。おかげさまで」
俺は呼びかけに答え、上体を起こす。
全身の痒みも下半身の激痛もすっかり引いていた。歩道で擦りむいた右手の甲には絆創膏が雑に貼られている。意識を朦朧とさせながら、自分で貼り付けたのだ。
二限目の小テストはもう終わってしまっただろうけれど、これでやっと教室に向かうことができる。
カーテンがシャッと音を立てて開く。
白衣姿の工藤先生が立っていた。手には一枚の鏡を持っている。
彼女はこの学園に勤める養護教諭、すなわち保健室の先生だ。年齢は三十ちょっとくらいだろうか。
ひっつめ髪に、瓶底のようなレンズをはめた眼鏡.。白衣に隠れた胸は大きいようだが、男子高校生に夢を与えてくれるような大人の色気は醸し出していない。
「うむ。良くなってきているな。ほら」
彼女から手鏡を受け取りのぞきこむ。
俺の顔はまだ少し赤らんでいるが、腫れは治まっている。
鏡に映るのはほぼいつも通りの、いかつい若造だ。
「熱は?」
工藤先生が俺の額に手を伸ばそうとする。
「ちょっ、触んないでくださいよっ! なに考えてんすか!?」
検温しようとする彼女の手を慌てて避けた。露骨に拒否された工藤先生は、喉の奥でククク……と笑い出す。
「おふざけだ」
「全っ然、面白くないんすけど?」
俺はイラっとしながら言い返した。
「しっかし、きみも変わってるねえ」
彼女は意に介さず、ベッドの傍らの丸椅子にどかっと腰かけて足を組む。
「こんなにも厄介な体質を抱えているのに、元女子校に入学するだなんて」
「……べつに、好きで入ったんじゃないですし」
手鏡を返す。
彼女の手に触れないよう、慎重に。
うっかり触れたら、また体中が痒くなってしまう。
「『女に触ると蕁麻疹が出てしまう体質』、か……。興味深いね」
彼女は独り言のように呟いた。
そう。俺は、女性が大の苦手で、家族以外の女性に触ると蕁麻疹を発症させてしまうのだ。
少しでも肌と肌が触れ合えば全身が腫れあがり痒くなる。
今朝、俺がトラックから広瀬を助けたときにも蕁麻疹が出た。
……ということはつまり、広瀬は「男」ではなく、「女」だということだ。
「広瀬いぶきの正体についてだが、くれぐれも他言しないようにな」
「べつに言いふらすつもりなんてないですけど。……でも、広瀬はなんで男装なんかしてるんですか?」
フルネームは「広瀬いぶき」なのか、と思いながら尋ねる。見てくれだけでなく、下の名前も男なのか女なのかわからない。
「彼女が男子の制服を着ている理由については、私からは教えられない。生徒のプライバシーだからな。……ただし、もし広瀬が女だと言いふらしたら」
工藤先生の瓶底眼鏡がぎらりと光る。
俺は鼻の奥で笑ってしまった。
「それもおふざけですか? いち生徒がいち生徒に、なにか制裁を加えられるとでも?」
茶化すように言ってみたが、彼女は少しも表情を変えない。
「ここ令涼学園はパブリックではなく、私立だ。そして広瀬家からは毎年多額の寄付金を受け取っている。……岬幸太郎よ、学校で肩身の狭い思いをしたくはないよな? これ以上」
「……」
喉に溜まったつばを飲み込んだ。「組織ぐるみで俺を潰すことも可能」というわけか。恐ろしい。
「わかりましたよ。うっかり誰かに喋らないよう気をつけます」
ベッドから立ち上がり、着崩れた制服を直してから保健室のドアへ向かう。
「ああ、そうだ。これは広瀬からの伝言だ。『アタシが女だってこと、絶っ対に周りに喋らないでよネッ!』」
「だーから、わかってますって」
広瀬のモノマネをしたつもりらしい工藤先生に苛立ちながら振り返る。
「あと、『つい殴ってしまって、本当にごめんなさい』だそうだ」
「……」
俺はぱちぱちと瞬きしながら彼女を見返してしまった。
「……そういえば、広瀬は無事に帰れたんですか? 随分と具合が悪そうでしたけど」
「ああ。彼女の親が車で迎えに来たよ。熱でふらっふらになりながら、おまえのことを心配していたぞ。あと、『助けてくれてありがとうございます』とも」
「……当然のことをしたまでですよ」
俺は笑って、とうとう保健室を後にした。
――助けてくれてありがとうございます。
広瀬からの伝言が、本人の可愛らしい声で再生される。
……あいつって、お礼とか言えるんだ。
少し意外な気持ちになりながら、俺は四階にある一年一組の教室へ向かった。