4 女みたい
通学路を駆けながらスマホを取り出す。
もうすぐ二限目の英語の授業が始まる時間だった。
始業までにはなんとか教室に到着したい。そう思い、さらに速度を上げた。
今日は英単語の小テストが実施される日だ。点数はもちろん成績に響く。
遅刻した理由は、サボりでも寝坊でもない。持病の常備薬が切れたために、どうしてもかかりつけの皮膚科へ寄らなくてはいけなかったのだ。
俺は昔から遅刻というものが好きではなかった。この身長と目つきの悪さから、「『ヤ』のつく方々の子分のようだ」と言われることもあるが、見かけに反して根は真面目なのだ。
息が切れてきた頃になってようやく、横断歩道の向こう側に令涼学園の校門が見えた。
校門から一人の生徒がふらりと出てくる。
五組の男子生徒、広瀬だ。
顔を隠すような厚い前髪に黒いマスク、ぶかぶかのブレザー。いつもと変わらない恰好だ。しかし今日は猫背気味で、足取りも重そうだった。
早退だろうか。
きっと具合が悪くなったのだろう。
おそらく広瀬も校門の前の横断歩道を渡る。彼とすれ違うことになるだろうが、挨拶も交わさずに素通りするつもりだった。
この三週間、彼とは一度も口を利いていない。それどころか、無視をされたし睨まれもした。そのような態度をとる同級生を心配する義理は無い。
しかし、広瀬は横断歩道の手前に来てしゃがみ込んでしまったのだ。小さな体のほとんどが、鮮やかなツツジのつぼみをつけた街路樹の中に隠れてしまう。
さすがに見かねて、一言だけでも声を掛けてやろうかな、という気になる。
そう思っていると、広瀬が急にぱっと顔を上げた。
そしてふらつきながら立ち上がり、車道にとび出してしまったのだ。この時間は車の通りが少ない道だが、歩行者用の信号はまだ赤だった。
信号無視だろうか。俺が忌み嫌う行為だ。
「キャンッ!」
高い鳴き声とともに、白いチワワが俺のわきを抜けた。
ワンコは車道にとび出し、横断歩道の上でくるくる回りはじめる。毛並みは良く首輪もしているが、周囲を見渡しても飼い主の姿は無い。
「あ……」
躊躇なく小型犬を抱きあげたのは、広瀬だった。
彼は犬を助けるために車道にとび出したようだ。
「……やばっ!?」
道の向こうから一台の大型トラックが迫っていた。トラックの運転手には、街路樹から人と犬が突然現れたように見えただろう。
全身からさあっと血の気が引く。
何か考えている余裕は無い。
俺も車道に躍り出た。クラクションが盛大に鳴らされる。
体当たりするように広瀬と犬を抱きかかえ、そのまま歩道に倒れ込む。
「はあ、はあ、はあっ………………」
背後でもう一度クラクションを鳴らされた。
トラックの運転手は警笛で驚きと怒りを表現すると、一時停止すらせずに走り去っていく。
間一髪、事故を防ぐことができたようだ。胸にチワワを抱えた広瀬を組み敷きながら息を整える。
顔見知りの交通事故を目撃せずに済んだ。
そう思うと同時に心臓がばくばくと鳴り始め、全身からどっと汗が噴き出した。体温が一気に上がったために、なんだか体がむずむずしてくる。
右手の甲がじんじんと痛み出した。
倒れ込むときに広瀬の頭を抱えてやったおかげで彼は歩道に頭突きせずに済んだ。しかしその代わり、俺は右手の甲の皮を派手に擦りむいてしまったようだ。
「キャンキャンッ!」
俺に押し倒されたような体勢でいる広瀬の胸の上で、チワワがはしゃいでいる。九死に一生を得たことを、この犬はちっとも理解していない様子だ。
「よ、よかったあ」
広瀬は子どものような小さな手でチワワを撫でる。
「怪我もしてないね?」
高校生になっても声変わりしないやつがいるのかと感心してしまった。
初めて聞く彼の声は、女子のように高く澄んでいた。
俺ともみくちゃになったせいで、厚い前髪がめくれ上がっている。顔の下半分を隠していた黒いマスクも、チワワが歯で引っ張って剥がしてしまった。
「もおー、やめてよお」
チワワにべろべろと顔を舐められながら広瀬が笑う。
「くすぐったいよ、わんちゃん」
「……」
俺は呆気にとられながら彼の笑顔を観察した。
透明感のある白い肌だ。頬は桃色に染まっている。
やはり熱でもあるのだろう。
黒目がちの大きな目を縁取るまつげは長い。鼻筋もすっと通っている。
神宮寺翔とはタイプが違うが、広瀬も負けず劣らず整った顔立ちをしていた。
黒い髪は指を通してみたくなるほどサラサラで、俺の三つ歳下の妹が使うようなシャンプーの甘いにおいまでする。
ついさっき抱きかかえたときの、彼の体の軽さも腕によみがえった。ぶかぶかの制服の下にはもやしのような体が隠されているに違いない。
広瀬って、なんだか女みたいだ。