36 信頼
いぶきの母親は、アポ無し訪問した俺を歓迎してくれたうえに、「念のために」と不織布マスクまで提供してくれた。
俺に薄着の姿を見られてしまったいぶきは悲鳴をあげてドアを閉め、廊下で少し待つようにと指示してきた。
「じゃあ、後はごゆっくり」
彼女の母親は俺を置いて一階へ戻ろうとする。
「いいんですか?」
思わず尋ねてしまった。「いぶきと俺を二人きりにしてしまっていいのか」という意味だ。
「ええ。信頼してますから」
何食わぬ顔で彼女は言う。
「信頼って……。僕たちそんなに話したことも無いですし、どんな人間かだってわかりませんよね?」
「あらあら」
わかってないわね、と言う風に彼女は笑う。
「あなたは男性不信の娘が唯一信頼できる男の子なのでしょう。娘が信頼している人を母親である私も信じる。当然のことじゃないですか」
「……えっと」
きっぱりした物言いに俺は面食らった。
「あ、ありがとうございます」
感謝すべきところなのか迷いつつも頭を下げる。
「……どーぞ」
部屋の中からいぶきの声がした。まだ怒っている様子だった。
「それに」
母親は俺に片目を瞑る。
「あなたが悪事を働くつもりだったら、もうとっくに働いているでしょ?」
母親を見送り、いぶきの部屋に入室する。
ドアの向こうには絵に描いたような「女の子の部屋」があった。家具は全て白。床に敷かれた毛足の長いラグはピンク。ドレッサーやチェストの上はおしゃれなランプや香水の瓶やぬいぐるみで飾られている。
男装している普段の姿からは想像もできないようなインテリアだった。
ただ、カーテンの布は黒い。遮光効果があるのかもしれないが、そこだけ重苦しい雰囲気で、この部屋から浮いている。外界からこの部屋をのぞかれないようにするためのバリケードのように思えた。または籠城するための囲いだ。
城の主であるいぶきはベッドの上にいた。布団を被り、顔の上半分だけ出して俺を睨んでいる。熱を出した名残のせいか羞恥心のせいなのか、まだ顔が赤らんでいる。
「ごめんな、熱が出てるときに」
「もうっ、来るならラインしてよ。幸太郎が来るってわかってたら、メイクしたりウィッグつけたり、着替えだって……」
「したよ、ライン。スマホ見てないだろ」
「え?」
彼女は慌ててナイトテーブルに手を伸ばしスマホを取る。画面を見て、「ほんとだっ」と小さく叫んだ。俺からのメッセージを五件ほど受信しているはずだ。
溜めていたメッセージを確認し、彼女は眉をひそめた。
「あ、阿久津先輩と話したって……、本当なの?」
彼女は目を見開く。慌てたように布団から出てきて俺との距離を僅かばかり詰める。
「なんで阿久津先輩とのことを幸太郎が知ってるの? 『話はつけた』ってどういうこと? 困るよ。あの人を怒らせたら、私、正体をばらされちゃうの!」
彼女は赤かった顔を青くさせてしまう。俺はラグの上に膝をついた。
「大丈夫だ。阿久津はもうなにもしてこない」
「なにも? 阿久津先輩と、どう話をつけたの?」
「え? ええと」
俺は昨日の保健室での出来事を思い返す。
彼女に脅されそうになり、逆に脅すことに成功した。詳細について、いぶきは知らなくてもいい。胸を揉んだことなんて、とくに知られたくない。
「俺を信じろよ。万が一何かされたらすぐ俺に言え」
とにかく、いぶきには安心してほしかった。色々なものに怯えながら生きている彼女のことが不憫でたまらなかった。
「じゃあ、……また明日から幸太郎と一緒に通学できる?」
いぶきの目がきらきらと濡れる。
「ああ」
俺は彼女のきれいな目に見惚れながら大きく頷く。
「昼休みもおしゃべりしていい?」
「いいんだよ」
「お出かけも、できる?」
「できる。いぶきが行きたいところ、どこへだって連れてってやるから」
「……ありがとう」
彼女が目を細めると、頬に涙が伝った。
この体質のせいで、涙を拭ってやることはできない。
「なあ、いぶき」
「なに?」
彼女はティッシュで自分の目元を拭う。
「おまえは、今でも俺のことが好きか?」
「………………!?」
声にならない声を上げ、彼女はまた頭から布団の中にこもってしまった。
「ちょ、ちょっと待って! き、気付いてたの!? いつからっ!?」
「やっぱり、『ヒロ』はいぶきだったのか……」
「ヒロ」は、ヒロトでもヒロムでもなく、「広瀬」。
記憶の中の男の子の顔が鮮明になっていく。




