35 人生で一番幸せ
一階がうるさい。
お母さんの陽気な声が二階の私の部屋にまで聞こえてくる。多分、玄関先でご近所さんと話しているか、リビングのドアを開けたまま電話でもしているんだろう。
私は音から遠ざかるように寝返りを打った。
もう、静かにしてよ。具合が悪いんだから……。
文句を言いたくなるけれど、お母さんは熱を出して寝込んだ私のためにお仕事を休んでいる。文句を言うどころか、感謝しなくちゃいけない。それに本当はもうほとんど体調も回復してきている。明日からはまた学校へ行けるだろう。
でも、行きたくない。
幸太郎に会いたかった。一緒に通学したい。人気の無い場所で、二人でお喋りしたい。お出かけだってしたい。
でも、そんなことをしたら阿久津先輩が私の正体をばらしてしまう。彼女から言われたのだ。「女だと言いふらされたくなかったら、岬幸太郎から距離を置け」と。
幸太郎以外の男の子たちに正体を知られるなんて、耐えられない。彼女に従うしかなかった。
阿久津七音実が憎たらしくてしかたない。
でも、なにもできない。
私は非力な小学生だったあの頃のまま、なに一つ成長できていない。
そう思うと、悔しくて涙が出てくる。
私はまた、幸太郎とお別れしなくちゃいけないんだ。
悲しくて悲しくて、涙が止まらない。
涙を拭ったら、着ていたパジャマの裾が濡れてしまった。寝汗も掻いている。もうひと眠りしたいけれど、その前に着替えてさっぱりしたくなった。
ベッドから起き上がり、少しふらつきながらクローゼットへ向かう。上下のパジャマを脱ぎ捨て、下着も替えようかと迷っているとき、四着のワンピースが目に留まった。幸太郎と万理華ちゃんのおかげで手に入ったワンピースだ。
ずっと前からあのお店のインスタをチェックしていて、この新作のワンピースもすごく気になっていた。通販で買うことだってできるけど、やっぱり実際に着てみないとサイズ感はわからない。
お店の中に入れなくてもいい。気になっているワンピースを遠目から見てみよう。そう思って、私はいつも通り、男の子の恰好をして家を出た。
試着できたときの胸の高鳴りは今でも忘れられない。
幸太郎が褒めてくれたことだって、とび上がるくらい嬉しかった。
それだけでも幸せだったのに、この服を着て幸太郎とお出かけができた。私は女の子の恰好でこの家から出ることができた。
人生で一番幸せな瞬間だったなんて言ったら、幸太郎に「大袈裟だ」と笑われてしまうだろうか。
小物を収納している衣装ケースを開け、中からレースの手袋を取り出した。
今度お出かけするときにも、この手袋をつけていくつもりだった。
でも、もう叶わない夢だ。
手袋があろうがなかろうが、私はもう幸太郎とは触れ合えない。話もできない。顔を合わせることさえ……。
レースの手袋を胸に抱きまた泣きそうになっていると、コンコンとドアがノックされた。
慌てて目元を拭い振り返る。
「お母さん、なに?」
尋ねるのと同時にドアが開いた。
ドアの向こうにいたのは私のお母さん、そして、
「…………幸太郎?」
使い捨てのマスクを付けた幸太郎だった。
どうして幸太郎がここに。そう訊く前に、彼ははくるんと私に背を向けてしまった。
「み、見てないからなっ!」
彼の耳が真っ赤になっているのが見えた。
「いぶちゃんっ。なんです!? その恰好はっ!」
お母さんも眉間に皺を寄せる。
「え?」
二人ともどうしたのだろう。
そこで私は思い出す。
着替えの途中だったことを。
キャミソールは着ているけれど、寝ているだけだからと思ってブラジャーを身に着けていなかったことを。
「…………!!」
私の絶叫が家中にこだました。




