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31 ヒロ

「私ならここにいるが?」


 低い声とともに保健室の蛍光灯がぱっと灯る。眩しさに目がチカチカした。ぼやける視界の端には人影が揺らめく。

 目を細めて、保健室の主である工藤先生の姿をやっと認識した。

 白衣にひっつめ髪に瓶底眼鏡。いつもと変わらぬ地味な装いだ。


「すまんな、岬。熱を出した広瀬を親に引き渡しに行っていた」


 淡々と説明する彼女はなぜかスマホを構えている。


「な、なに撮ってんの!?」


 阿久津七音実(どれみ)が声を荒らげた。


「保健室の鍵を勝手に開けて侵入している不審者たちがいると思ってな。私も一応、非力な女だ。用心のため動画撮影しながら入室してみた。……そしたらなんと、下級生にセクハラし、さらに恐喝まがいな発言をしている女生徒が撮れてしまった、というわけだ」

「みっ、岬だって私に暴力を振るおうとしたじゃん!」

「そうだな。……だからァ、ちょっと編集する必要はあるかもだけどォ~」


 工藤先生はクククと喉の奥を鳴らす。

 今のは阿久津のモノマネか?

 苛立ちを覚えるほどに似ていなかったが、阿久津を煽るには十分な効果があったようだ。


「~~~っ!」


 彼女は乱れに乱れたシャツをたぐり寄せて立ち上がり、保健室を出て行こうとする。


「阿久津よ」


 スマホを白衣のポケットにしまいながら彼女は呼び止める。


「次に見かけたら容赦しないからな。あと、健康面だけではなく、恋の相談にも乗ってやるからいつでも来なさい」

「こ、こここここ、恋っ?」


 阿久津の声が裏返った。


「おまえ、岬幸太郎に恋をしているんだろう?」

「!? ……ば、ばばばば、馬鹿じゃないのっ!?」


 彼女はもう一度「ばーか!」と叫ぶと、ぴしゃりとドアを閉め退出した。


「行動の動機も語彙力も小学生並みだな……」


 やれやれと工藤先生はため息をつく。

 俺はぐちゃぐちゃになったシーツの上に倒れ込む。体中が痒く、熱く、重い。


「俺に恋って、なんですか……。それ。脈絡が無さ過ぎ……」


 首を掻きむしると爪先に血が滲んだ。

 だって、あいつは翔のことを呼び出していたんじゃないか。


「そんなことより、まずは薬を飲みなさい。持っているな?」


 彼女は保健室の冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出し、俺に差し出してくれた。


「ほら、新品だ」

「……恩に着ます」


 俺は腫れあがった手を伸ばし、よく冷えたペットボトルを受け取った。薬を口に放り、水で流し込む。


「飲みかけのほうがよかったか?」

「……ごほっ。んなわけ、な、ないじゃないですか!」

「おふざけだ」


 むせ返る俺の横で、工藤先生がクククと笑った。





 雨が降っている。

 まだまだチビであどけない顔をした俺がパーカーを脱いだ。梅雨時でまだ肌寒いだろうに、タンクトップ姿になってしまった。小学生の俺は脱ぎたてのパーカーを同級生の顔に投げつける。


 頭の片隅で「これは夢なんだろうな」と思いながら、その映像を眺めていた。

 同級生はぎこちない手つきでパーカーをキャッチした。戸惑う彼の顔が見える。


 あ、ヒロだ。


 ヒロは同じ塾に通っていた男子だ。でも、あまり話したことがなかった。俺は公立中学に行くつもりだったが彼は私立を目指しているらしく、クラスも違って接点が無かった。

 よく見ると、ヒロはずぶ濡れだった。

 そうだ。俺は彼を見かねてパーカーを貸してやったんだった。


「……ごめんね」


 雨音に負けそうなくらい小さい声で彼は謝る。体が冷えたのか、しきりに鼻をすすっている。


「別にいいって。気にすんなよ」


 傘を差しながら俺は笑った。


 その次の日も雨だった。

 ずぶ濡れの服でとぼとぼ歩く彼の後姿を見つけ、また声を掛けた。


「塾の前で転んで、水たまりに入っちゃったんだ」


 彼は泣きそうな声で言う。服を濡らしたまま、彼の親が待っているというコインパーキングに向かって歩いていた。

 塾には専用の駐車場が無い。だから車で子どもを送迎する保護者達は、少し先のコインパーキングを利用しなくてはならない。

 俺は車ではなく、電車で通塾していた。俺が利用する駅とヒロの親が待つコインパーキングは同じ方向だ。だから二人で並んで歩き始めた。


「何か買おうよ」


 俺は自動販売機を見つけて立ち止まった。彼は「お金、持ってない」と言って首を振った。


「しょうがないなー」


 俺はなけなしの小遣いでリンゴジュースを奢ってやった。彼は最初は遠慮していたけれど、歩き出すと缶に口を付けてちびちびとジュースを飲み始める。


「幸くんはコーヒーが飲めるの?」


 俺が飲んでいる無糖のカフェラテを眺め、彼は目を丸くした。


「砂糖が入ってなくても大丈夫なの?」

「うん。甘いの苦手だから」


 昔から、俺は甘いものが好きではなかった。かっこつけていたわけではない。口の中がべたべたする感覚が気持ち悪いのだ。


 その日以来なんとなく、塾の終わりには二人で帰り道を辿るようになった。道中では飲み物を買った。

 彼はちゃんと財布を持ってくるようになって、自分の飲み物代は自分で払った。


 並んで歩くだけで、とくに会話らしい会話もしなかったと記憶している。

 ヒロはすごく大人しいやつだった。大人しい、というよりは暗かった。口数は少ないし、声もすごく小さい。

 それから、ちょっとどんくさいところがあるみたいだった。


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