28 くだらない理由
「ちょっと待って。おまえ、塾にいた……?」
難問が解けた受験生みたいに輝く阿久津七音実の目にぞっとした。
「あー! そうか、そういこと!? 小学生のときからってこと?」
興奮したように叫んで、私の姿をねめまわす。
男装した私の姿を。
「まー、男装してる事情なんて興味無いけど、どうせあれでしょ? 男が寄り付かないように~みたいなくだらない理由でしょ? ちょっと自意識過剰じゃね? よく見れば可愛いかもしれないけど」
彼女の言葉に、頭の後ろで糸がぷちんと切れるような音がした。
「違う……」
ついこぶしを握り締める。
くだらない理由?
自意識過剰?
この人に、私の何がわかるというの?
「幸太郎以外の男子は、あんたが女だって知らない?」
彼女は新しい悪戯を思いついたというような顔を見せる。
「……」
「その反応!! やっぱり隠してるんだね。……ねえ、取引しようよ」
「と、取引……?」
一方的な申し出に身構えた。
「あんたが実は女だってこと、誰にもばらさないであげる。でも、その代わり……」
水滴がおでこにかかった。薄い灰色だった雲の色が、いつの間にか黒に変わっていた。
*
一日の授業が全て終わった。当番のため教室を清掃し、やっとスマホを確認する。いぶきからメッセージが届いていた。
「おいっ、なーにニヤニヤしてんだよー!」
画面をタップしようとした俺に照井が茶々を入れる。彼は部活があるため、体操着に着替えながら俺のスマホをのぞこうとする。
「うるせー」
俺はチワワをどかすみたいに照井を手で払った。
「幸太郎っ! 抜け駆けは無しだからなーっ!」
「そ、そんなんじゃねーよ。妹からだ、妹」
「……え、妹からのラインでそんなにニヤニヤするか?」
俺の咄嗟の嘘に照井がちょっと引いている。
俺はそんなにニヤニヤしてただろうか。
思わず自分の口元を隠した。いぶきを見習うわけではないが、俺もマスクをつけて生活したほうがいいかもしれない。画面にいぶきの名前が表示されただけで口を緩めてしまうなんて。
しかしメッセージを開き、俺の顔は再び引き締まった。
≪先に帰ります≫
「……」
画面を見下ろしながら俺は眉をひそめる。
「先に帰るって言ったって……」
今朝も一緒に電車通学したのだ。校内に彼女の自転車は無いはず。まさか、一人で電車に乗って帰るつもりなのだろうか。
そんなわけない。
慣れてきたとはいえ、つい先日までホームの端で震えあがっていたくらいだ。
「うっわ、まだ降ってるのかよーっ! 雨だと筋トレになるんだよなあ……」
照井が窓から身を乗り出してぼやいた。昼過ぎから降り始めた小雨は、いつのまにか本降りになっている。
俺は荷物を持って教室を出た。周りに教師がいないのを確かめてから、廊下の真ん中でスマホを操作する。「スマホの使用は禁止」という校則を破って、いぶきに電話を掛けるためだ。
『……幸太郎?』
いぶきはすぐに通話に応じてくれたが、声には元気が無かった。
「先に帰るって、なんでだよ」
スピーカーがザアッと鳴った。雨で濡れたアスファルトの上を車が走っていく音だ。彼女はすでに校舎を出ているようだった。
「自転車だって無いだろ? あ、親が迎えに来てるのか? それならそうと」
『あ、歩いて帰るの』
「は、はあっ? 歩いて?」
声がひっくり返った。ここから彼女の自宅まで歩いたら、着く頃には夜になってしまう。
「うわーっ。絶対びしょびしょになるじゃーん! 今日、折りたたみ傘しかないんだよね」
「うちの親、迎えに来てくれないかなー」
俺に横を通り過ぎる女生徒たちが、窓の外を眺めながら雨の心配をしている。それほどに雨脚が強くなっていた。
「こんな雨の中歩いたら風邪ひくぞ」
『あ、明日からは、また一人で自転車に乗って登下校するね。幸太郎、今までありがとう』
「な、何だよ。突然」
長い別れを告げるときのような言い方だった。
わけがわからない。少なくとも朝までは、変わった様子が無かったはずだ。
『昼休みも友達と過ごすし、お出かけも万理華ちゃんと二人でするから。幸太郎はもう護衛なんてしなくて大丈夫だよ』
「……何かあったのか?」
『幸太郎を付き合わせるのが申し訳なくなっただけだよ。一緒に登校するのも負担だろうし、お出かけだって興味無いでしょ? カフェなんて……』
「だから、電車で登下校するのは、妹の送迎のついでなんだって! 何回も言ってるだろ」
いぶきの一方的な会話に苛立ち、自分の口調がだんだん荒くなっていく。周りの同級生たちに怯えたような眼差しを向けられて我に返る。
「……出かけるのだって」
カフェ巡りに興味があるかどうかと訊かれたら、はっきり言って「無い」。自らネットで情報収集したり、一人で来店して過ごしたりだなんてとても考えられない。
けれど、
「負担じゃないよ」
むしろ、俺は楽しみにしていた。
いぶきと出かけることを。
女の子らしく着飾った彼女と同じ時間を過ごせることを。
はにかんだ彼女の笑顔をまた見たいと思っていた。
「だから」
『幸太郎、ありがとう』
彼女の声は、なぜかまだ暗い。
『………………ごめんね』
「いぶき?」
返事は無い。通話は切られていた。
何度かけ直しても、彼女が出ることは無かった。




