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26 ずっと昔から

「ゆ、夢……」


 私がいたのは「あの日」の電車の車内ではなく、自分の部屋のベッドの上だった。

 厚い遮光カーテンの隙間からは、穏やかな朝日が漏れている。


「……」


 夢だったとはっきり悟った瞬間、自分の目から涙があふれ出た。


「ううっ……」


 早く泣き止まなくちゃ。

 この顔でリビングに行ったら、お父さんもお母さんも心配してしまう。優しい両親にこれ以上の心配なんてかけたくない。


「う、ふ、……ふううっ」


 そう思うのに、涙はなかなか止んでくれなかった。

 「あの日」の出来事を思い出すと、恐ろしくてたまらない。いつまでも「あの日」にとらわれている自分が、情けなくて仕方がない。

 悔しかった。

「男の人」は私のことも、私に何をしたのかも、もうきっと忘れている。それなのに私は未だに一人で電車に乗れないし、好きな服だって着られない。悪夢にうなされて、めそめそと泣いている。

 ホームで身動きできなくなった私を心配して声をかけてきた女の人の言葉だって、まだ頭にこびりついていた。


――そんな服、もう着ちゃだめだよ。


 ぽろんと音がした。スマホがメッセージの受信を知らせた音だ。


「……幸太郎?」


 メッセージの差出人の名前を見て、私はやっと泣き止むことができた。彼は毎朝、時間通りに私の家を訪ねてくれる。だから、朝にメッセージをくれたことはこれまでにほとんどない。

 なにかあったのかなと心配になり、涙を拭きながら画面をタップしてメッセージを確認する。


≪ごめん! 寝坊した≫


 またぽろんと音がして、今度は万理華ちゃんからのメッセージを受信する。


≪お兄ちゃんは、昨夜は胸がいっぱいで寝られなかったようなのです~≫


「……ふふ」


 笑うと目じりがまた少し濡れた。


≪私も胸がいっぱいで寝られなかったよ≫、とメッセージを送る勇気はまだ無い。


 代わりに≪今日は自転車で行くね≫と返事を打つために画面を操作する。幸太郎と一緒に学校へ行けないのは残念だけど、忙しいときに律儀に連絡をくれたことが嬉しかった。

 文章を作成している最中に、幸太郎からまた新規のメッセージが届いた。


≪絶対に迎えに行くから、準備して待ってろよ≫


「幸太郎……」


 止まったはずの涙がまた溢れてきた。


「幸太郎。幸太郎……」


 スマホを握りしめる自分の手からは、彼の体温は消えてしまっている。その代わりに、胸の中がじんわりと温かくなっていくのを感じた。

 苦しいくらいに。


「幸太郎、早く会いたいよ……」


 だって私、幸太郎のことがずっと昔から……。

 




 屋上の出入り口の前で幸太郎と別れ、自分の教室である一年五組へ戻る。

 昼休みになると、あの場所で二人きりで密会してお喋りするのが日課になっていた。昼休み中ずっと席を離れていたら友人に怪しまれるだろうから、幸太郎が昼食を食べ終わるまでの短い時間だ。

 でも、私にとってはかけがえのない時間だった。マスクの下で、ついついにやけてしまうのが止められない。


 五組の教室の前に、仲の良いクラスメイトの背中が見えた。誰かと話しているみたいだけど、相手は同じクラスの生徒ではない。五組に髪を染めている子はいない。


「……!」


 誰なのかがやっとわかって、私はつい身をすくめた。

 くるくるした明るい髪に厚いメイク、短いスカート。

 二年生の阿久津七音実(どれみ)先輩だった。身を翻して逃げたいほど苦手な人物だ。

 校則違反を犯しているからではない。

 彼女が過去になにをしたか、私は知っている。私や幸太郎になにをしてきたかを、私は知っている。この目で見てきた。


 どくんどくんと胸が鳴る。

 彼女と目が合ってしまった。


「あ、来た来た。あいつだ」


 私に気付くと、先輩はなぜか嬉しそうだった。友人も振り返って、心配そうな目線を送ってくる。声に出さず「いぶき」と私を呼んだのがわかった。


「あんたのこと探してたんだ。ちょっと来てよ」


 私の返事も待たず、阿久津先輩は廊下をずかずかと歩いていく。

 友達の視線を背中に感じながら、私は先輩の後をついていくしかなかった。





「開いてないじゃん! だるっ」


 阿久津先輩は眉間に皺を寄せながら多目的室のドアをガタガタ揺らす。ドアは開かない。しっかりと錠が掛けられているようだ。

 いつだったか、この部屋で彼女と一組の神宮寺翔くんが一緒にいたのを思い出した。


「ここだけいつも空いてたのになー。さすがに先生たちにバレたかな?」


 彼女は舌打ちすると階段のほうへ歩き出す。もうすぐ休み時間が終わるから教室に戻りたいとは言い出せなかった。そんなことを言おうものなら、彼女になにをされるかわからない。


 たどり着いたのは屋上の扉の前だった。ついさっきまで幸太郎とお喋りしていた場所だ。

 もちろんプライベートな空間ではないけれど、阿久津先輩に踏み入られるのは抵抗がある。


 彼女は胸ポケットに挿していたヘアピンを引き抜いた。何をするのかと思って眺めていると、扉に掛けられた南京錠の鍵穴の中に慣れた手つきでヘアピンの先を差し込んでいく。

 数秒して、あっけなく錠が開いた。彼女は躊躇いもせず扉を開け外に出て行く。鍵を掛けているくらいだから、この屋上はもちろん出入り禁止だ。中等部のときだって、一度も出たことの無い場所だった。


 立ち尽くしている私を先輩が振り返り、「早く来い」と顎で言う。

 仕方なく屋上に出た。空は雲が多くて昼間なのに薄暗い。風は吹いているけどぬるく、湿気を帯びている。この時期特有の不快指数の高い空気だった。顔に当てているマスクを外したくなるけれど、ここは校内だ。とくに阿久津先輩のような人の前で素顔を晒すことはできない。


「見て」


 彼女が見せてきたのはスマホの画面だった。そこには一枚の写真が表示されている。


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