22 宝物があるみたい
『――お客様にお知らせいたします。ただいま危険を知らせる信号を受信いたしました。この場にてしばらく停車いたします』
「幸太郎?」
「お兄ちゃん、お薬が無かったのですか?」
「い、いや……。持ってる、けど」
焦りが顔に出てしまったのだろう。いぶきにも万理華にも心配されてしまった。俺はなるべく冷静を装って二人に事情を説明した。
「……水が無いんだ。水無しじゃ、さすがに飲めないな。早く出発してくれればいいんだけど」
電車は一向に動き出す気配が無い。立ち並ぶ雑居ビルに囲まれてただじっとしているだけだ。
『ただいま危険を知らせる信号を……』
スピーカーからもう一度、状況を説明するアナウンスが流れる。乗客の誰かが舌打ちした。
俺こそ舌打ちしたい気分だった。トラブルの対応に追われているであろう運転手や車掌にではない。いぶきと万理華に心配をかけている自分自身に対してだ。
レースと手の感触が残る自分の腕を見下ろした。
あることに気が付いて、初夏の日差しで焼けてきた肌を凝視する。
「あれ……?」
肌には少しも変化が無かった。
「なんでだ?」
以前いぶきを助けたときには、ものの数分で蕁麻疹を発症した。それなのに今は腫れも痒みも無い。熱っぽさも感じなかった。
『大変お待たせいたしました。電車が動きます。ご注意ください』
体になんの変化も無いまま十分遅れで目的地に到着し、俺たちは電車から降りた。ホームの端に寄り、いぶきと万理華の手袋を観察する。
「こんなものでも蕁麻疹を防げるのか……?」
自分のこの体質と付き合い始めてもう六年目になるが、このような薄い布でも発症を防げるとは。俺にとっては世紀の大発見だった。
「ということは」
万理華が顎に手を当て、探偵の如く考え込む。
「手袋さえしていれば、お兄ちゃんといぶきさんは手が繋げる、ということなのです!」
名案だと言わんばかりに万理華は人差し指を立てた。
「て、てててて、手をっ? 幸太郎とっ?」
いぶきは赤くなり、自分の両手を隠すように背中に回した。そのせいで胸がぐんっと前に押し出される。ワンピースの胸元のスナップボタンがぷちんと音を立てて全て外れた。
「きゃーっ!」
彼女は叫びながら俺に背を向ける。
「いぶきさん。やっぱり、おっぱいが苦しかったのではないのでしょうか?」
「おっぱいって言わないでってば!」
「いぶき、大丈夫だっ。俺は何も見てないから!」
俺は手で自分の両目を覆い、彼女のために優しい嘘をつく。
――万理華も下着はピンクと決めているのです。
試着室での会話が脳内で再生される。
気を遣って「見ていない」と言ったが、本当は目撃していた。ピンク色の布に包まれた、いぶきのふっくらとした胸を。
「いぶきさん、お兄ちゃん。本当に蕁麻疹が起きないのかどうか、もう一度手を繋いで実験してみるのです!」
「わ、私じゃなくて、万理華ちゃんと幸太郎が繋いでみればいいんじゃないの?」
服を整えた彼女がおずおずと向き直る。
「お兄ちゃんは家族には反応しないのです。だからお兄ちゃんは、万理華やママ、おばあちゃんやひいおばあちゃん、血の繋がった女なら誰だってイケる口なのです」
「とんでもない誤解を生むような言い方はやめろっ」
「いぶきさんも、お兄ちゃんで練習すれば男の人に慣れてくるかもしれませんよ?」
「おい、万理華。おまえはいつも強引なんだよ。無理強いは」
「……練習、させてもらえる?」
彼女は顔を真っ赤に染めながら、ためらいがちに俺に両手を差し出した。
「こ、幸太郎が、嫌じゃなければ」
俯くいぶきを見下ろしていると、俺まで照れてきてしまう。
この体質だから、異性と手を繋ぐと考えると緊張してしまうが、決して嫌ではなかった。
しかし一つだけ、彼女に確認しておきたいことがある。
「……おまえは嫌じゃないのか?」
彼女はただ生理的に男が苦手、というわけではない。男に不信感を抱いても仕方がないくらい、つらい経験しているのだ。
そんな彼女の手をまともに握ってもいいものなのだろうか。
「……い」
もごもごと彼女は何か言った。
「幸太郎なら、い、嫌じゃない。手を繋いでみてほしい」
いぶきは覚悟したように目をつむる。
差し出された手が震えていた。
俺の胸の中心が熱を帯びていく。電車内で症状が出なかったのはまぐれで、やはり蕁麻疹が出てしまうのではないだろうか。そう思うほど、体がすでに熱っぽい。
しかし、気が付いたときには、俺は彼女の両手を握っていた。
子どものように小さい手だ。
守ってあげたい。そう思った。
電車に乗れず、好きな服を着て出かけることすらできない。
そんな彼女のことを、俺が守ってあげられたらいいのに。
「……大丈夫そうだな」
蕁麻疹が出ないことを確かめて、俺は手を離した。これ以上いぶきの体温がまだ残っている手のひらを彼女に見せる。
「……よかった」
彼女は微笑み、胸の前で小さな手を重ねた。
そこに宝物があるみたいに。




