21 幸太郎に触っちゃった
駅が近付き人通りも増えてくると、否応無しの視線を感じた。
誰もがいぶきを凝視し、振り返ってくるのだった。じろじろ見られるだけで済んでいるのは、隣に約二メートルの用心棒がいるからだ。今は近寄ろうとする者さえいないが、もしいぶき一人で出歩いていたら、どうなっていることやら。容姿が良すぎるというのも大変だ。
駅のホームに到着する。今日のこの時間は女性専用車両が走っていない。だから俺は女子二人と同じ車両に乗って、しっかりと護衛をしなくてはならなかった。
ホームとホームとの間に電車が滑り込んでくる。乗客は少なく、空席もいくつか見えた。今日は半袖を着ているから、念のために薄手のパーカーを持ってきている。しかしこれなら上着を着なくてもなんとかなりそうだ。
胸を撫で下ろしながら車両に乗り込む。
「あれ? いぶきは?」
電車に乗り込んでから、いぶきがついてきていないことに気付いた。振り返ると、彼女はホームの壁際に立って震えあがっていた。
俺と万理華で慌てて車両を下りる。すぐ後ろでホームドアが閉まった。乗る予定だった電車は俺たちを待つことなく出発してしまう。
「いぶきさん、大丈夫なのです?」
妹と一緒にいぶきの顔をのぞく。なんだか顔色も悪い。
「ご、ごめんね。ちょっと心の準備がいるっていうか。もたもたして、本当にごめんなさい……」
「大丈夫なのです。急いでないのです」
気遣う万理華に、いぶきはもう一度「ごめん」を繰り返した。
「あれだけ空いていても、やっぱり怖いかのか?」
「今日はこの格好だから……」
俺はホームを見渡した。
言わずもがな、駅は老若男女が利用する場所だ。いぶきのためだけに男を蹴散らすなんてことはできない。
「いぶき、約束する」
彼女は顔を上げる。
「俺は絶対におまえのそばから離れない。信じてくれ。だから少しの間、頑張れるか?」
駅のスピーカーから陽気な童謡が流れる。次の電車の到着を知らせる音だ。
いぶきは数秒の間だけ目を伏せ、また俺を見上げた。
「……うん」
「辛くなったらすぐに降りるからな。……じゃあ次の電車に乗るぞ。万理華、いぶきと手を繋いでやってくれるか?」
「はーい、なのです~」
万理華はいぶきとしっかり指を絡めた。
二人の手と手を見下ろし、心の中で「よかった」と呟く。
俺は彼女と手を繋ぐことなんてできないから。
車両に乗り込んだ瞬間、蜘蛛の子を散らしたように乗客が退いた。男も女もだ。これなら不審者も近寄ってこないだろう。
俺と万理華といぶきを乗せた電車が出発する。俺たちは車両の一番奥へ行き、隅で身を寄せ合っていた。
「……」
いぶきは口を真一文字に結んでいる。
「おーい、息してるのか、息」
「! ……ぷはぁっ!」
俺が声を掛けるまで、呼吸すら忘れていたらしい。
「空いていてラッキーなのです~」
いぶきのことを単に「男嫌い」だと思っている万理華がにへへと笑う。
俺たちはそのまま電車に揺られていた。駅ごとに乗客は入れ替わるが、一向に混む気配はない。順調に目的地まで到着できそうだ。
「あと三分くらいで着くな」
案内表示を確認しようと顔を上げたそのときだった。
『……急停止します!』
突然のアナウンスだった。ブレーキ音がギィー!っと響く。
「きゃっ……」
いぶきがよろけた。靴のヒールが床を擦り、きゅっと音を鳴らす。
「いぶき……っ!」
トラックに轢かれそうだった彼女を助けたときのように、俺はまた何も考えずに小さな体を抱きとめてしまった。彼女が女だとわかっているのに。
お互いの体が密着する。服屋の試着室で妹が言っていた通り、体躯の割に胸が大きいんだな、などと考えている場合ではない。
彼女は俺の両腕をしっかりとつかんでしまっている。ざらざらと粗く薄いレース越しに彼女の手のひらの柔らかさと体温を感じた。
電車が完全に止まる。乗客たちがざわめきだした。
「ご、ごめんっ!」
彼女ははっと息をのみ俺から離れた。涙目になりながら、レースの手袋をはめた両手を見下ろしている。
「ど、どうしよう……! 私、幸太郎に触っちゃった……!?」
「いぶきさん、落ち着いて。大丈夫なのです。お兄ちゃんも今日はちゃーんとお薬を持ってきているのです」
「ああ、だから心配するな」
俺も、そして恐らく妹も内心は焦っていた。しかし取り乱してもいぶきを余計不安にさせるだけだ。
「大丈夫だから」
俺はいぶき、そして自分自身に言い聞かせながら左胸を触る。大丈夫だ。薬はちゃんと入っている。
「あっ……」
しかし気付く。薬は持ってきたが飲み水が無い。電車の中だから自動販売機もあるはずがない。




