2 男子一期生
「ねえ、あれって……」
靴紐を結び直す俺の後ろで、女子たちが声を潜める。
「男子一期生じゃない?」
「なーんか、変な感じ。令涼に男子が入ってくるって。同じクラスになったらどうしよー」
「ほんとだよねー。トイレとか着替えとか、のぞいてこないといいけど」
「ちょっとお、やめてよおー」
聞こえていないと思っているのか、彼女たちはけらけらと明るく笑っている。会話から察するに、中等部から内部進学した新入生たちだろう。
……のぞきなんてするわけねーだろ。
うんざりした気持ちになりながら立ち上がり、そして噂話に興じる女生徒たちをつい振り返ってしまった。
「きゃあああっ!? ご、ごめんなさいっ!」
「許してー!」
「命だけはーっ!」
彼女たちは俺を見るなり血相を変え、ぴゅーっと逃げて去っていく。
この二メートル近い身長と目つきの悪さのせいで、必要以上に怖がらせてしまった。しかし俺は女子とはなるべく関わりたくないのだから、彼女たちが近寄ってこないのはむしろ願ったり叶ったりだった。
もしも近寄られて、接触なんてしてしまったら……。
無意識のうちに左胸に手を当てる。ブレザーの下のシャツの胸ポケットには「お守り」が入っている。うっかり女子に触れてしまったら、俺はこの「お守り」に頼らざるを得ない。
「ちょ、ちょっと! 部外者の立ち入りは……!」
学園に勤務する警備員が駆けつけてきた。彼はご丁寧に警棒まで構えている。
「……俺、ここの新入生です」
うんざりしながら説明した。女子から避けられるのはいいのだが、このように見ず知らずの男性からも怖がられてしまうことが多々ある。
「し、ししし、新入生なんですかっ!? 本当にっ!?」
「制服を着ているんだから、見ればわかるだろ!」と文句を言いたくなったが、ぐっと堪える。入学式もまだだというのに、校内で事を起こしたくはない。
提出する予定の書類を見せ、新入生の名簿も参照してもらって、俺はようやく警備員から解放された。
朝からほとほと疲れた。さらに重くなった足で高等部の昇降口へ向かう。
俺が所属することになった一組の靴箱の前に、一人の生徒がいた。襟にネクタイをつけ、スラックスを穿いている。
俺と同じ男子一期生だ。
彼は少し屈んで、ぴかぴかのローファーを脱ごうとしている。
「……翔?」
俺が呼びかけると、彼は自分の足元から顔を上げた。互いに目が合うなり、アイドルのような整った顔が引きつる。
「やっぱり! 神宮寺翔、だよな?」
俺は嬉しくなって、子どものように彼に駆け寄った。
「ええと、ごめん。人の顔を覚えるのが苦手で。きみは誰だったかな……」
丁寧な口ぶりだが、俺に見下ろされて彼は明らかに戸惑っている。
「俺だよ。幸太郎だ。久しぶりだな」
「えっ、こ、幸太郎? ……岬幸太郎なのか!?」
翔はあんぐりと口を開け、俺を見上げている。
「本当に? 本当にあの幸太郎……?」
彼が俺のことを「岬幸太郎のなりすまし」だと思うのも無理はない。
翔とは同じ学習塾に通っていたのだが、俺が小五のときに退塾して以来、顔を合わせることは一度も無かった。
翔とつるんでいたあの頃、俺はまだ純粋であどけない少年だった。
身長だって翔よりもずっと低く、平均にも届いていなくて、道行く老人に女子と間違えられることだってあった。
当時と今の俺を結びつけるのは容易いことではないだろう。
「久しぶりだね。会えて嬉しいよ、幸太郎」
ようやく納得したようで、翔は爽やかに微笑んだ。昔から美少年だったが、高校生になり、なおのこと磨きがかかっている。
「幸太郎も令涼に入学したんだ。奇遇だね」
「不本意だがな」
「あ……、第一志望じゃなかったのか?」
スニーカーを脱ぐ俺に、翔は少し気まずそうに尋ねた。
「まあな。……インフルエンザのせいで志望校を受験できなかったんだよ」
嘘をついたわけではないが、少しぼかして事情を話した。
実際はこうだ。
情けないことに、第一志望は学力が足りずあっさり落ちた。
第二志望と第三志望の受験日は一日違いだったのだが、インフルエンザにかかってしまったためにどちらも受験できなかった。
進学先が無い崖っぷちの状態で中学を卒業した俺が受験できたのは、ここ、令涼学園だけだったのだ。
「翔は? おまえならもっと偏差値の高い学校にだって行けたんじゃないか?」
「親の強い勧めもあって、僕は令涼が本命。ここに姉がいるから、きょうだい割で学費が安くなるんだ」
「へえ、そんな制度があるのか」
私立の学校というのは、それぞれ独特の制度が設けられているらしい。
「この靴箱を使うってことは、幸太郎も一組かい?」
「ああ。同じクラスだな。よろしく。もしかしたら、野郎どもは一組にまとめられているのかもしれないな」
「ありえるね。……そこのきみも一組かい?」
翔は靴箱の向こうにいた誰かに声を掛けた。一年生であることを表す青いラインの入った上履きにかかとを入れながら、俺も顔を上げる。
一人の男子生徒がいた。
厚い前髪と黒いマスクのせいで顔はよく見えない。
彼は、俺たちと同じ高校一年生とは思えないくらい小柄だった。着ている男物のブレザーもスラックスもぶかぶかだ。
高校生になってからの成長を期待して、大きめのサイズを注文したのだろうか。俺自身の身長はすでに190センチを超しているので、少し分けてやりたい気持ちになる。
「……」
黙りこくっている彼に対し、翔が友好的に微笑む。
「男子一期生同士、仲良くしよう。僕は神宮寺翔。きみの名前は?」
きゅ、と上履きが床を擦るような音がした。しかし鳴ったのは床ではなく、小柄な男子の喉だったようだ。
「……っ!」
彼は小さな悲鳴をあげ、ダッシュで廊下の奥へ逃げ去ってしまった。
「人見知りなんだね、きっと」
翔はやれやれというふうに笑っている。
「人見知りだったとしてもシカトはだめだろ。幼稚園児じゃないんだから」
俺は名前も知らない小柄な同級生にあきれながら言った。
結局、翔を無視して逃げた男子はクラスメイトではなかった。
彼の姿は一組の教室には無かったのだ。