17 いぶきの母
お互いにぽかんと見つめ合う。
「「なにしてるんだ?」」
俺と翔の声が重なった。阿久津七音実が怪訝そうに睨んでくる。
「そこ、どいてくれない? 邪魔なんだけど」
「い……」
言われなくても、と言いたかったのだが、情けないことに俺の声は掠れていた。
「い、いいい、言われなくてもどくんだゼッ」
動揺して口が利けない俺の代わりに言葉を発したのは、いぶきだった。
阿久津は腕を組みさらに顔を歪める。
「あんたら一年だよね? 先輩に対して言葉遣いがなってないんじゃない?」
「そ、それはうっかり失礼しましたなんだゼ。じゃ、さらばだゼ!」
いぶきは廊下を掛け出す。目で合図され、俺も彼女の後に続く。相変わらずひどい発声だったが、なんとか助かった。
振り返ると、まだ話し足りなそうな阿久津が翔の腰に腕を回しているのを見てしまった。自分が触れられたわけではないのに背筋が凍る。
「あの人って、一組の神宮司くんだよね? 『なんで幸太郎と五組の男子が一緒にいたんだろう』って思ったかなあ?」
廊下を曲がり、女の子らしい声に戻ったいぶきが眉をひそめた。
「翔になにか訊かれたらテキトーなこと言っておくから安心しろ」
しかし、あの二人はなんで一緒にいるんだろうか。
よくよく思い返してみれば、俺と翔、阿久津は同じ学習塾に通っていたのだから、三人とも顔見知りだったということになる。
しかし俺が知る限り、翔と阿久津は話をしたことすらないはずだ。
翔は阿久津と付き合い出したのだろうかという邪推まで思い浮かぶ。
もし本当にそうだったとしても、俺に二人の仲を切り裂く権限は無い。無いけれど、翔とは距離を置くことになるかもしれない。阿久津が視界に入るだけで、体がストレス反応を起こしてしまうくらいなのだから。
翌朝、妹を学校へ送り届けた俺は、スマホを取り出し地図アプリを開いた。いぶきの自宅へ向かうためだ。
彼女の苗字である「広瀬」という表札をつけた門扉は難なく見つかった。俺は初めて目にする広瀬家の前で、しばらく呆けてしまった。
彼女の家は、周囲の住宅の三倍か四倍ほど大きかった。この辺りではあまり見かけないちょっとした庭やガレージもあり、窓ガラスには警備保障会社のステッカーまで貼られている。広瀬はお嬢様だったらしい。
よくよく考えれば、彼女は中等部から令涼学園に通っていたし、気に入ったワンピースを全色買っていた。本当にお嬢様だったとしても頷ける話だ。
――広瀬家からは毎年多額の寄付金を受け取っている。
養護教諭の工藤先生が瓶底眼鏡を光らせながら、確かそんなことを言っていた。
俺は感心しながらスマホを取り出した。家の前に到着した旨をいぶきに知らせるためだ。
しかし、ラインのアイコンをタップしようとしたと同時に玄関のドアが開き、中から四十代くらいの女性が姿を見せた。彼女は門扉の前に立つ俺を見て目を真ん丸に見開く。
顔つきも身長もいぶきにそっくりで、母親であることは一目瞭然だ。彼女も目を引くような美人だった。長い髪を整え、皺の無いワンピースを着ている。この邸宅の住人にふさわしい気品を感じた。
「あ、おはようございます」
やましいことは一切していないのだが、母親に遭遇するとは思っていなかったので少し気まずさを覚える。
「僕、いぶきさんの同級生で」
と説明しているうちに、彼女は「フーッ」と息を吐き玄関先で倒れてしまった。
「だ、大丈夫ですか!?」
俺は慌てて門扉から身を乗り出した。悲鳴を上げられたことは幾度となくあるが、気を失わせてしまったのは今回が初めてだった。
「お母さんっ!?」
家の中からいぶきの声が聞こえてきた。「大丈夫よお」とお母さんが答えた声が聞こえ、ほっと胸を撫で下ろす。再びドアが開いて、母娘が登場した。並んで立つ二人の身長差はほとんどない。
「すみませんねえ、驚かせてしまって」
いぶきの母はのんびりと謝る。
「こちらこそ、怖がらせてしまってすみませんでした」
俺もぺこぺこ頭を下げた。
「『怖がらせて』? いいえ、違うのよ。感動してしまって」
「か、感動って?」
「ええ。男性恐怖症の娘にもようやく彼氏ができたんだなって……。うううっ」
「お、お母さんっ、違うってば! 幸太郎はただの同級生だから!」
涙ぐむ母親にいぶきが慌てて説明する。
「娘から話は聞いております。有難いですわ。電車に一緒に乗ってくださるだなんて。自転車通学は自転車通学で心配しておりましたの。事故に遭うリスクも、遭わせるリスクもあるでしょう? そうかといって車での送迎は原則禁止になっていますし、私も仕事があって朝は忙しいですし……」
「いえ、自分の家族を送迎するついでですから。あと、いぶきさんとは本当にただの同級生です」
「幸太郎さん、これを受け取っていただけます?」
「ただの同級生」という説明を無視し、母親は一枚のカードを差し出した。




