16 二人きりで
男子用の制服に黒いマスク。いつも通りだ。
今日、学校で彼女と顔を合わせたら、約束をキャンセルしたことを謝るつもりだった。しかしこんなところで会うとは思っておらず、動揺して咄嗟に言葉が出てこない。
「幸太郎、体調は大丈夫なの? 万理華ちゃんから寝込んでるって聞いたけど……」
「寝込んでるだなんて大袈裟な。薬の副作用で眠くなっただけだ」
「薬を飲むほど酷かったの? 本当にごめんね。私、幸太郎の体質のことなにも知らなくて。私とわんちゃんを助けてくれた日も、あれも私が原因だったんだね……」
「知らなくて当然だろ。言ってなかったんだから」
彼女が泣きそうな顔をしているので、大げさに声を明るくさせる。
いいやつなんだな、と感動してしまった。俺の顔を見るなり心配ばかりしてして、「お出かけ」のことは話題にすら出さない。
「それより、悪かったな。一緒に出かけてやれなくて」
「ううん。いいの。そんなことより、幸太郎が元気になってくれて本当によかったよ」
彼女は本当に気にしていない様子だ。
「ところで、いぶきはこの辺に住んでいるのか?」
俺は彼女の自転車を見下ろした。華奢なフレームが心許なく思えるのは運転手が彼女だからだろうか。
「うん。あっちに大きな学校があって、その近くに家があるの」
いぶきは妹の通う学校の方角を指さした。
「今日はアラームをかけ忘れてうっかり寝坊しちゃったんだ。じゃあね、幸太郎。また学校で話そう。……二人きりで」
「え?」
彼女は目を細めた。
マスクの下で彼女がどんな風に笑うかを、俺は知っている。
いぶきは小さく手を振り、再び自転車を漕ぎ出した。
時間がぎりぎりであることを思い出し、俺も小走りを始める。次の電車を逃せば一限目に間に合わないかもしれない。
広瀬いぶきは他の野郎どもに正体がバレないようにしているのだ。
だから、彼女が俺に「二人きりで」と釘を刺すのも無理はない。人前でぺちゃくちゃ喋っていたら、男子たちに詮索されてしまう可能性がある。
――二人きりで。
その言葉に深い意味は無いし、舞い上がる必要だって無いのだ。
ホームに到着し、車両に飛び乗ると同時にドアが閉まる。
チンピラが駆けこんできたと思ったのか、乗客たちがどよめいた。俺が電車の中で危ない目に遭うことは生涯にわたって無いのだろうな、と思う。
走ってきたために息が上がっていた。汗も掻いていたが、満員の車内なのでブレザーは脱げない。
呼吸を整えながら窓の外を眺めた。
電車は今、橋の上を走っている。眼下には河川が広がっていた。
ずっと向こうの土手の上を自転車で走り抜けている男子高校生の姿が目に留まる。さっき口を利いたばかりの同級生、広瀬いぶきだった。
落ち着きを取り戻してきたはずの自分の胸がまた高鳴っていく。
電車はスピードを上げた。橋を過ぎて住宅街に入る。彼女の姿は見えなくなってしまった。
この車両は俺たちの通う令涼学園へ向かっている。
窓越しの空を見上げた。
自分の胸の中をそのまま映し出したような青空が広がっていた。
*
「一緒に通学? 私が、幸太郎と?」
屋上へ続く扉の前で、いぶきが瞬きを繰り返す。彼女は俺の真似をして、階段の段差を椅子代わりにしていた。小さな手には、俺と連絡先を登録したばかりのスマホが握られている。
階段の周りには俺たち以外誰もいない。遠くから昼休みを過ごす生徒たちの喧騒が聞こえてくるだけだ。
俺は購買のパンを食べながら、今日電車の中で考えた案をいぶきに話した。
これからしばらくの間、俺は妹を送迎することになっている。好都合なことに、いぶきの自宅は妹の学校の近くだ。
だから、妹を送るついでにいぶきを迎えに行き、一緒に電車に乗って通学するのはどうか、と。
「自転車通学、大変だろ? 俺と一緒に電車に乗れば変な奴も絡んでこないだろうし。どうだ?」
「でも、迷惑じゃないのかな。私のために一緒に通学なんて……」
案の定、彼女はもじもじと考え込む。
「俺はどのみち妹の学校の最寄り駅まで行かなくちゃいけないんだ。なにも負担は無い。ただ、おまえがどうしても電車に抵抗があるって言うなら無理強いはしないけど」
「……一緒、なんだよね? 幸太郎も」
「ああ」
不安そうな彼女に大袈裟に頷いてみせる。
「じゃあ、行きたいな。幸太郎と一緒に」
「よし、決まりだな。明日の朝、家の近くまで行くから」
「うん……っ!」
これで少しは彼女に恩返しができるだろうか。
昼食のゴミを片付け二人で階段を下りる。お互いにそろそろ教室に戻ったほうがいい。長時間行方をくらませているとクラスメイトたちから心配されてしまう。
二人で多目的室の並ぶ廊下を歩いていると、女生徒と男子生徒の声が聞こえてきた。どこかの教室で談笑しているようだ。
数少ない男子生徒。それはつまり、俺のクラスメイトだ。
俺といぶきがこんなところで密会しているのを見られたら詮索されてしまうかもしれない。もし照井だったら最悪だ。空気を読まずにしつこく質問攻めにしてくるに違いない。
横目でいぶきを見やると、彼女も身構えているようだった。
早く行こうぜ、と小声で言おうとした瞬間、すぐ横のドアが開いた。
「……幸太郎?」
多目的室から男女二人が姿を見せ、俺といぶきに目を見開いた。
男のほうはイケメンであり旧知の神宮寺翔。
そしてもう一人は、なんと阿久津七音実だった。




