15 ありがとうございますなのです
現場をこの目で見たわけではないが、万理華は一人で怖い思いをしていたのだった。
広瀬いぶきや阿久津七音実や自分のことで頭がいっぱいで、妹のことをすっかり失念していたことに気付く。申し訳なくなると同時に、兄であるはずの自分自身にひどく落胆した。
「万理華はちょっと腕を触られて、ちょっとしつこく話し掛けられただけなのです。怒鳴られたわけでもないのに、なのに……」
妹の目尻がきらりと光った。それを隠すように指で目を拭い、気丈に笑ってみせる。
「今日の万理華はなんだかおかしいですね。元気だけが取り柄なのに、情けないのです」
たしかに、妹はいつでも元気で明るい。こんな顔をすることは滅多に無い。
しかし、
「おかしくねえよ」
俺は妹の背中をぽんと叩いた。
「お兄ちゃん……」
「今日は休め。気持ちが落ち着いたらまた登校すればいい」
万理華は顔を引き締め、ふるふると頭を横に振った。
「休むのは嫌なのです。万理華は学校が大好きなのです」
「……わかった。じゃあ、しばらくの間、俺が学校までついていってやるから」
「で、でも、おにいちゃんと万理華は反対方向の電車なのです。そんなことをしていたら遅刻しちゃうのです」
「走ればぎりぎり間に合う。明日からはもう少し早めに行けばいい。ほら、急ぐぞ」
万理華の腕を引いて家の門から出た。
「えへへ。お兄ちゃん、大好き」
妹はにっこり笑って、俺の指に自分の指を絡めてくる。
「調子乗んな。妹と恋人繋ぎする趣味はねえぞ」
「お兄ちゃんの家族の特権なのです~」
妹はなかなか指をほどこうとしない。
「しょうがねえな。駅が見えてきたら離せよな」
「はーい、なのです!」
彼女の言う通り、俺と手を繋ぐのは家族だけの特権だ。家族であれば触っても蕁麻疹が起こらない。しかし妹や母親と肌を触れ合わせて喜ぶような癖はあいにく持ち合わせていなかった。
まあ、いっかと苦笑する。
妹の笑顔が見られて、俺はほっと息をついた。
駅に着く。平日の朝のホームは当然人でごった返していた。
「じゃあ、学校の最寄りで降りたらすぐにそっちに行くから待ってろよ。なにかあったらすぐにラインしろ」
「お兄ちゃんも気を付けてなのです」
万理華が女性専用者に乗り込んだのを見届けから、慌てて別の車両に飛び込んだ。
ピーク時の車内だったが、ドア付近にいた乗客はヤンキー風情の俺との間にできるだけスペースを確保しようとする。有難くもあり、申し訳ない気持ちにもなった。
斜め後ろには女性がいる。うっかり触れ合わないよう、手すりがぶら下がっている柱を両手でつかんだ。高身長のなせる業だ。
ブレザーが不要の季節になったら、薄手のパーカーでも買った方がいいかもしれないと考える。
いぶきはどうするのだろう。
今はぶかぶかのブレザーで胸を隠せているが、衣替えをすれば半袖シャツ一枚で登校しなければならなくなる。
ポケットの中のスマホが震えた。
取り出すと、女性専用者に乗った妹からさっそくメッセージが届いていた。なにかあったのかと思い、慌てて内容を確認する。
しかし、≪ありがとうございますなのです≫という言葉と、動物のキャラクターがダンスしているスタンプが贈られてきただけだった。
胸の中で「どういたしまして」と返事しながら、俺は口元を少し緩めた。
「ひょえっ」
俺の微笑みは意図とせず、隣にいたサラリーマンを怯えさせてしまった。
やっと万理華の学校の最寄り駅に着いた。大勢が行き交うホームでなんとか彼女と合流する。
二人で構内を出て、学校までの続く住宅街の中を歩き始めたときだった。
「あっ、万理華ちゃーん! 万理華ちゃんも寝坊したの? ……ひいいいいいいっ!?」
妹と同じ制服を来た中学生が、俺を見るなりおののいた。
「紗彩ちゃん、おはよーなのです! 寝坊ではないうえに、この人はヤの付く人ではないのです。万理華の最愛のお兄ちゃんなのですよ」
「お、おお、お兄ちゃん? う、嘘でしょ? こんな新宿歌舞伎町を大股で闊歩してそうな人が……っ?」
万理華の説明を聞いてもなお、「紗彩ちゃん」は顔を引きつらせている。
「嘘ではないのです。お兄ちゃんが小五までママとお風呂に入っていたことも知っているのです。遠足の日、お弁当にアソパソマソポテトが入っていないと号泣して先生に抱っこされていたことも知っているのです。……妹がゆえに!」
ドヤ顔で兄の黒歴史を晒す妹の頭にチョップをお見舞いする。
「お、お互いに高身長なところが、同じ遺伝子を持つなによりの証拠なのです。万理華に気軽にチョップできるのはお兄ちゃんくらいなのです~」
頭を撫でつけながら妹はへらへらと笑う。
「友達と合流できたなら俺はもう行くぞ」
「お兄ちゃん、ありがとうなのです! 助かったのです」
「帰りも迎えに来てやるから、ちゃんとスマホ見ておけよ」
友だちと並んで歩く妹の背を見送り、再び駅へと足を速める。
「うわっ!」
角を曲がろうとして、飛び出てきた自転車とぶつかりそうになった。キッと高いブレーキ音が鳴る。
「あっぶね……」
「ご、ごめんなさい!」
ぶつかっていたら転倒していただろう。文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、運転手は俺の知り合いだった。
「いぶき?」
「えっ、幸太郎!?」
自転車に跨っていたのはなんと、広瀬いぶきだった。




