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ハレー彗星7

 レースを前日に控えた夜、旦那様がいつもお休みになられる一時間前に、私は旦那様から部屋に召喚されました。


 ノックの後、旦那様の返事を聞いて入室すると、旦那様はベッドに腰かけ、水の入ったコップを仰いでいました。


「ハレー、ここ最近、いろんな奴に自分の過去を語っているそうだな」


「はい。気まぐれではありますが、それが何か?」


「どうして俺に語ろうとしない。お前のマスターは俺だ。一番お前のことを知っているのも俺だ。だからどうして……、俺の隣で語ってくれないのだ」


「旦那様……」


 ヨギリにすらバレていたことを、旦那様に隠すことは不可能でした。私が明日のレースで死を覚悟していることはお見通しだったようです。


「今日までの練習で、お前がゴールに辿り着いた回数は一度もない。それが本番では妨害も付いてくる。そんなお前がゴールを目指そうものなら、何振り構わず推進エンジンの爆発的な威力に期待するしかない。当然、全身のパーツが爆発の瞬間的な威力に耐えられるわけがない」


「…………」


「俺は、お前に看取ってほしい。俺にとってあの頃の家族はもう、お前しかいないんだよ。だからよ、まだ死なないでくれ。……お願いだ」


 固めた握りこぶしを膝に強く押し付けて頭を下げる旦那様は、子どもの謝罪のように力んでいて、今にも泣きだしそうな声音でした。


「では、どうしてレースへの招待状を私に渡したのですか? 私が記念に参加することは旦那様にも分かっていたはずです。私の最後を飾るにはこれ以上ない舞台ですから」


「モデルとしてのハレーはもう死んだ。今のお前は俺のメイドだ。俺の世話をするのが仕事だろう」


「それは命令ですか? 命令であれば、私はレースへの参加を取り消し、以後、旦那様の傍にお仕えすると誓います」


「…………」


 今度は旦那様が黙ります。旦那様はかつて私に命令を出したのは一度きりです。私が旦那様のメイドとなる時に形式上命令されただけです。ドールを購入する際に役割を振るための事務的なものです。


 私の身は旦那様の物。旦那様がこれ以上語らないのであれば、当初の予定通り私は明日のレースへ参加します。しかし、旦那様が命令するのであれば……。


「……命令、されないのですね」


「できるわけないだろ。命令したら、俺たちは家族でいられなくなる」


「旦那様、勘違いしてはいけません。私はドールであり、物です。本来命令で従わせることがマスターの役割であり、物はそれに従う。それだけの関係です。私たちが特殊なのです」


 物を生かすも壊すもマスターの命令次第です。ここで旦那様に活動停止を命令されたとしても、私は旦那様を恨むことはありません。恨むだけの機能を持ち合わせていないとも言えますが。


 時計の音だけが響く静かな空間で旦那様はゆっくりと顔を上げました。


「俺のわがままを聞いてくれるか?」


 私が肯定するまでもなく、旦那様は語りだします。


「好きな女が隣にいて欲しい」


「奥様に失礼ですよ」


「あいつも知っていることだ。浮気だと頬を張られたこともある。それでも俺はお前が好きなんだ」


「お答えする必要はありますか?」


 首を横に振る旦那様。よかったです、また罵詈雑言の限りを尽くさなくてはならないところでした。


 水差しからコップに水を注いで旦那様の手に握らせます。無理矢理にでも一口飲んでもらいたいのです。強引に勧めた水を飲んだ旦那様は大きく喉を鳴らしました。


「――はぁ。空に輝く彗星に憧れた少年に、もう一度見せてほしい」


「さっきと言っていることが矛盾していますよ。私に飛んでほしいのですか? それとも傍に居てほしいのですか?」


「どっちもに決まってんだろ。空飛んで、そのまま俺の傍に居ろ、ハレー!」


「難しいことを仰いますね」


「ゴールしなくてもいい。スタート直後にリタイアしてもいい。お前が空を飛ぶ姿を見られたのなら、それで俺は満足できる」


「私の望みは、ゴールしたい。それだけです」


 旦那様の望みに真っ向から対立します。これだけは私の中でも譲れない望みでした。


「モデルとして死んだお前が、もう一度空を飛ぶ理由はなんだ?」


「意地です」


「なんだそりゃ、意地?」


「はい。旦那様に限らず、私はあともう一度だけ、人々の視線を、空を飛ぶ私へ集中させたいのです。あの日、天の階を見たあの日、後悔はないと思っていましたが、どうしても私はモデルなのです。空を飛び、人々の視線を集め、歓声を一身に受ける。そのために生きるロボットなのです」


「それが、お前の意地なのか? 憧憬を抱いていた民衆に指さされ、無視され、マスターの借金と逃亡の責任を転嫁されて、罵られて、それでもお前は、もう一度そのぼろぼろの翼を広げるのか?」


「肯定します」


 即答し、頷きます。


 背中に仕舞われた大きな翼は、モデルを引退してから一度も風を切ったことがありません。練習の時も義翼を使用していましたから。整備は怠っていないので推進エンジン等問題はありませんが、耐久の面で見れば、確かにぼろぼろと言えるでしょう。


「“空駆ける彗星”ハレー。……懐かしい呼び名だな」


「その二つ名を覚えている人も今や両手の指で収まる程度かもしれません」


「そこまで時は流れておらんよ。俺の知り合いはほとんどハレーのことを覚えている。ジジババは最近のことはよく頭からすっぽ抜けるが、過去のことはよく覚えているもんだ」


 おそらく、納得はしていないのでしょう。旦那様は私にそっぽ向くような態度で、ベッドに横になりました。


 私も明日に備えてバッテリーを充電しなくてはなりません。お暇するために部屋の電気を消そうとすると、旦那様の呟きが聞こえてきました。


「納得はしていない。だが、空を“駆ける”なら万全の状態で挑め」


「はい。これよりスリープモードに入り、明日のレースには充電が満タンの状態で挑みます」


「それと……、その前に電気を消せ」


 部屋を消灯すると、一瞬の暗闇の後暗視モードに切り替わり、部屋の構図が線のように見えるようになります。


 旦那様が寝返りを打って私に背を向け、くぐもった声で呟きます。


「……今までありがとうな。俺の世話をしてくれて。ハレーは俺にとって母親でもあり、先生でもあり、友であった。そして、俺のことを看取ってくれる娘だと思いたかったが、それはシイナに譲ってやってくれ」


「そうですね。どう思考を重ねても旦那様は私の中ではお坊ちゃまです。マクロ様」


 最後は旦那様としてではなく、一人の少年として相手をします。その思考に命令違反の警告が体内に響きましたが、そんなのどうだっていいと一蹴すればすぐに警告は消えました。警報装置もおんぼろのようです。


「ハレーのいない老後なんざ考えたこともねぇ。……なあ、俺は何が原因で死ぬと思う? 病気か? 怪我か? それとも寿命か?」


「肥満が原因でしょうね。ブクブク肥えたそのお腹が少し引っ込めば格好も付いて、望みの死に方もできるのではないでしょうか。あの世でも動きやすくなるはずです」


「はは、そうか。痩せて格好良くなれば、あの世でお前を探すのも楽になるか」


「私は物です。物にあの世はありません」


「ハレーは他のドールよりも感情が豊かだ。きっと神様も本当の人と間違えてあの世に送ってくれるはずだ。だから、待っていてくれ。妻と娘の二人に会って、俺の居場所を作っておいてくれ。そう遠くない未来、俺も行くからよ」


 旦那様の屁理屈に、そのような贅沢が許されていいのかと想像します。可能なら、私だってまた奥様とアイナ様、そして旦那様に仕えたくあります。旦那様の言葉を信じるくらいならきっと罰は当たらないでしょう。


「縁起でもないことを仰らないでください。奥様とアイナ様には、すっかり痩せてハンサムになった旦那様が白いタキシード姿で現れるとお伝えしておきますので、あしからず」


「ははは、そりゃ厳しいな。タキシードのあの恥は勘弁だ、せめて恰好だけはつけていくから、それで一つ頼んだ」


「承りました」


 見えていないでしょうが、恭しく礼を一つ。旦那様は大きな欠伸を漏らします。


「少し話し込んじまったな。もう、眠い」


「お休みなさいませ、旦那様」


「ああ、お休み、ハレー。明日を楽しみにしているよ」


 私が聞いた旦那様の声はこれが最後となりました。


 旦那様の部屋を出て、自室へと戻って久しぶりの完全スリープモードへと移行した私は翌朝まで目を覚ますことはありません。


 暗闇に染まる視界。元から灰色の世界にあまり変わりのない暗転に瞼が落ちます。





 翌朝、レース当日。朝はいつも通りメイド服に着替えて旦那様を起こしに行こうとすると、私の部屋の前でヨギリが待っていました。今日もドレスを身に着けていて、でもどこか荒々しい雰囲気が漂っています。


「ヨギリ? どうしましたか?」


「すぐ準備しなさい。レース会場へ向かうわよ」


「どうしてですか? まだ時間はあるはずです」


 ヨギリは唇を噛みしめると、拳を握り、何かに耐えるような態度で私に背中を見せます。


「昔と違って、今はレース前にやることが山のようにあるのよ。企業所属なら別だけど、わたくしたちは全部自分でやらなくちゃならない。だから時間的にはもうギリギリなのよ、すぐに出るわ。準備して」


「待ってください。せめて旦那様を起こしてから――」


「その必要はないわ」


 私の言葉を遮って、ヨギリがその理由を口にした。


「マスターは昨夜、持病が悪化して病院に搬送されたわ」


「え?」


 旦那様とのお別れは唐突に、私の中の何かがガラガラと崩れ去る音がしました。






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