ハレー彗星6
また降り始めた雨に傘を差しながら屋敷に戻ると、玄関が浴場の方向へと一直線に濡れていました。何かを引きずったような雨水は、屋内に入って気を抜いていたシイナの足を滑らせます。
「す、滑るよ! な、なんでぇ〜?」
扉横のタンスからタオルを出そうとして残り一枚しかないことに気付きます。
「ヨギリですね。練習から戻ってタオルだけ持っていきましたね」
適当に引っ掴んだのでしょう、浴場へと続く曲がり角にタオルが数枚落ちていました。
転んで濡れたお尻を摩るシイナは落ち着くと、今度は慎重にその場を離れ、しかし新しい服が楽しみなのかすぐにスキップで部屋へと戻っていきました。
仕方なく残りの一枚で床を拭きながら跡を辿り、物音のする脱衣所へと入っていきます。
大きな鏡面が壁一面を覆い、床には無造作に置かれた雨水を吸って重くなったドレス。鏡面へと向かって険しい顔つきをするスカイドールが一機。
普段のドレス姿ではなく、簡素なシャツと短パンに身を包み、温風で髪を乾かしながら関節にオイルを差すヨギリの姿がありました。鏡越しに私の姿を見たヨギリが、顔面の寄った皺を驚愕の表情で一気に伸ばし、ついでに背筋も伸ばして硬直しました。
「ヨギリ」
「は、ハレー!」
ヨギリは視線をいろんなところへ飛ばし、やがて私が手に持つタオルの意味を悟ったのか、私の方へ向き直します。こちらを向いたまま器用に温風のスイッチを切りました。
「あ、あの――」
「あまり、上手くいっていないようですね」
割り込むように現実を突きつけると、ヨギリは下唇を噛んで俯きました。
ここ数年のレースで一位を取れていないヨギリは、私が管理していない時間を盗んで無茶な練習に励んでいます。残り二回のレース、相当焦っているのでしょう。昨年に比べ、ひと月のメンテナンスオイルの使用量が倍近く増えています。
「ヨギリ、少し老婆のおしゃべりに付き合ってくれませんか」
「……なによ、本当にババア面して」
近くの椅子に腰かけて、持っていたびしょ濡れのタオルを畳みながらヨギリの暗い顔を見ます。汚れを流してメンテナンスもしていたはずなのに、私の灰色の視界でもそれは暗いと分かる程です。
「『天の階』という伝説を知っていますか?」
「あれでしょ? 『大翼の天使』という物語のラストに出てくるやつ。ドールが空へと飛んでいく際、雲をかき分けて現れる天へと通ずる階段ってやつ。でも本当に存在するかどうかも怪しいって」
ヨギリの記憶に頷きます。活動期間を過ぎ、動きを止めたドールのメモリーカードに稀に記録されている未知の存在。元はスカイドールの原点となる物語『大翼の天使』のラストに登場する空想上の階段。それが天の階。
「私はそれを見たことがあるのです」
「は? 死ぬ瞬間にしか見られないのに? あんたいつ死んだのかしら?」
冗談だと思ったのか、ヨギリは鼻で笑いながら責めてきました。決して冗談ではないと信じてもらうために、淡々と時期を口にします。
「五十年と二ヵ月十八日前に」
「…………」
具体的な数字を出すと、ヨギリは黙ってしまいました。
「私がモデルドールとしての活動を終えた日。家族が解体され、マスターが行方不明となったあの日、私は一度死にました。病人のようにベッドに横たわって空を見上げ続け、誰かが起動してくれるまで待とうとスリープモードに移行しようとした瞬間、暗転しかけた視界に一瞬だけ、空に透明な階段が見えたのです」
「見間違いじゃないのかしら?」
「かもしれません。しかし天の階は誰も見たことがありません。だから、その見間違いこそが“本物の天の階”ではないかと思っています」
「……屁理屈よ。それに、見えたとしてなんの意味があるのよ」
「大した意味なんてないと思いますよ」
「もう! なんなのよ! 意味深に天の階を見たことがあると言ったら、それに意味はないって! わたくしをおちょくっているのかしら!」
ダンッと床を強く踏んだヨギリがオイルの入れ物を投げつけてきます。すっかり乾いた長い髪がブワッと広がり、地に触れた花弁のように落ち着きました。
オイルをまき散らしながら飛んできた入れ物を片手でキャッチし、これ以上こぼれないようにタオルの上にそっと置きました。
「もし意味があるとしたら、それは勲章なのだと思います。悔いが残らないように頑張った証」
「あんたのモデルとしての頑張りって何? ただ人に飽きられて捨てられたことのどこに頑張った勲章があるのよ!」
「往生際の悪さ……、この一点に尽きるでしょうね。私の家族が解体され、私だけがこうして活動している理由がそうです。人に飽きられてもなお空を飛び続け、逃亡に近しい毎日を送ったあの日々が懐かしいです」
かぶりを振るヨギリは何が気にくわないのか、拳をぎゅっと握っています。私は立ち上がると、タオルとオイルの入れ物を椅子に置いてヨギリに近づきます。
そっとヨギリの頭に手を置いてあげると、反撃するわけでもなく私の手を受け入れました。
「悔しくはなかったのかしら? 偶像として生きて、時代の流れに抗えず見捨てられたことに」
「言ったでしょう? 私は天の階を見たと。それは勲章であると。私なりにその解釈を見出している以上、悔いはありません。時代の流れに逆らえないことは家族の消失と共に気付いていました。私も近い将来死ぬと思っていました」
「何があんたの動かしたのよ」
「本当に私のことを求める人がいなくなったのか、それだけが知りたかったのです。空から見下ろして、でも誰も空を見上げていなくて、だから私は満足しました」
「それで死んだって……、都合がいいのね。わたくしだったら悔しくて地面に頭から落ちてでもこの名を歴史に刻んでやるわ」
「それ、とてもいいじゃないですか」
「え?」
冗談のつもりだったのでしょうか、ヨギリの意地を聞いた私はそれを肯定したのですが、ヨギリは驚いた表情で私を見ます。頭に載せた手を振り払って一歩後ろに後ずさり、怯えにも似た表情が私を見つめます。
「それがヨギリの頑張り方なら、私は否定しません。むしろ“どろんこお嬢”らしい終わり方ではありませんか? 私は好きですよ」
「そ、その名前で呼ばないでよ! 今のわたくしは血濡れの女王よ! そんな不出来なわたくしはもういないの!」
むきになって頬を膨らませるヨギリが大変可愛らしいです。この様子ならもう大丈夫でしょうか。
私は笑みを浮かべながらヨギリに背を向けます。タオルと入れ物を持って脱衣所の扉を開けようとしたとき、ヨギリに呼び止められました。
「待ちなさい! ハレー、あなた……、どうしてこんなことを話したのよ」
「ただの暇つぶしですよ。今日は一日暇なのです。旦那様のお世話もメイド長が受け持ってくれています」
「そうじゃないわよ。なんで大会を週末に控えた時に限って天の階なんて単語を出したのかと聞いているのよ」
「寿命の短い老婆の気まぐれです。深い意味はありませんよ」
適当にあしらってこの場を去ろうとしましたが、ヨギリの言葉が私の足を止めました。
「今度のレースで死ぬつもりでしょう?」
「…………」
「人に頑張れば天の階が見られますよと説いたあなたが、マスターの世話も中途半端にリタイアするあなたの前に、あの伝説が現れるわけないわ」
ヨギリへと振り向いた私は、一言呟くように問います。
「私を止めますか?」
「止めないわ。勝手に死になさい」
ピシャリと言い切ったヨギリはこちらに近づいてきて、私の胸倉を掴みます。壁に押し付けられ、後頭部を強く打ち付けられました。
狂犬のような形相で私を睨むヨギリは、しばらくして何も言わず手を離し、タオルと入れ物を奪い取りました。
「勝手に死ぬといいわ。でも、せめてあなたの頑張りというもの見せて頂戴。悔いの残らないレース。わたくしはこの目で見てみたいわ」
それだけ言うと、ヨギリは脱衣所を後にしました。
音のしない脱衣所はとても不気味で、椅子に腰かけると、時が刻むのをやめたような静寂が漂いました。