ハレー彗星4
レースを今週末に控えた平日の朝、いつのもように旦那様を叩き起こし、朝食を摂らせたところで、私は旦那様のお世話をメイド長へと引き継ぎました。
「なんだハレー、どこか出かけるのか?」
「今日は有給の申請をしていたのですが、旦那様のおなかを支えられるのは私しかおりませんので、朝だけはこの通り」
メイド服のスカートを軽く持ち上げてカーテシーをします。皮肉を込めた挨拶です。
屋敷で働くメイドはそのほとんどが研修の身であり、屋敷の隣の別館で経営を始めたばかりのホテルの従業員として働いています。シフトで日に数人がこちらで掃除、洗濯、料理等を担当します。こちらのお屋敷もいずれは観光客用の宿泊施設用に改築するつもりでその準備を細々と進めています。
「なんだ、俺の棺でも見に行くのか?」
「よくお分かりで」
「……冗談のつもりだったんだけどな」
「ハレーさん、そろそろお時間ですよ」
メイド長は長らくこの屋敷に勤めているベテランです。七十年近くを活動する私と最も歳が近く(といっても私より十近く若いですが)よく話し相手になってくれます。旦那様と交えてよくプライベートなお茶会を開いています。
「それでは、よろしくお願いします」
「いってらっしゃいませ」
メイド長の洗練されたお辞儀に私も返します。旦那様は水を口に含んでいたので、手だけ振ってくれました。
屋敷を出る前に部屋に戻り、メイド服から着替えます。ギャザーブラウスにボトムスのパンツ、昔は外を歩くときはドレスが一般的でしたが、時代の流れには逆らえません。それにドレスよりもこちらの方が動きやすいのは確かです。鏡越しに違和感がないかチェックし、雨傘を持っていきます。ポーチにはシルクのハンカチと財布、後は充電用小型バッテリー三つを入れてあります。
「これも忘れてはいけませんね」
事前に用意していた水筒を二本ポーチに仕舞います。
窓の外は相変わらず灰色、今日は特に雨雲が多く何もかもが灰色でうんざりします。
「あれ? ハレーお姉ちゃん、おでかけ?」
「おはようございます、シイナ。お寝坊ですよ」
玄関の扉を開けようとして、寝ぼけ眼で階段を下りてきたのはシイナでした。
今日の練習はお休みで、シイナはノースリーブのシャツにタータンチェックのフリル付きスカートというラフな格好でした。
「どこ行くの?」
練習がないと一日退屈になるのでしょう。きらきらした目で私の出かけ先に期待を寄せていたのが分かったので、その期待に応えてあげます。
「旦那様の棺を選びに」
「え?」
「冗談ですよ」
私はポーチから財布を取り出し「私のお買い物ですよ」とシイナに笑いかけると、犬ならば尻尾をぶんぶん振り回しそうな勢いで自分の部屋の方へ駆けていき「シイナも行くから待ってて!」と一瞬で姿を消してしまいました。
私のお買い物に付いてくれば、洋服やアクセサリーを買ってもらえることを知っているのでしょう。以前、旦那様に洋服をおねだりしてエナメルのジャケットが宅配されたときのことが相当堪えているようです。
「ふふ……」
その時のシイナの呆然とした顔は記録から消すことができません。やはり女の子なのですね。
「おまたせー! さ、行こ!」
小さなナップザックを背負って戻ってきたシイナは長靴を履いていて、まだ屋敷の中なのに、子ども用の傘を差してくるくると回しています。
行儀が悪いですが、子どもらしいなと思えば小言を言う気もなくなります。年齢的には祖母と孫のような関係ですが、見た目は母親とその子どもくらいです。ドールは見た目の変化がないのです。
「街に出るの?」
「はい。裁縫道具がだいぶ摩耗しているので、そろそろ買い換えようかと」
傘を差し、外へ出ます。シイナもパタパタと駆けてきて私の隣に並びました。
「それじゃあ!」
「アクセサリー店か、洋服店あたりでしょうか。もし今日はいい子にしていたら――」
「いい子にしてる! だからお洋服のお店に行こうよ!」
どうやら新しい洋服が欲しいようです。私もたまには一着見繕ってもいいかもしれません。普段は内外をメイド服で過ごす以上、クローゼットの中は物寂しいです。暇を持て余しているハンガーも一つくらい働かせてあげましょう。
屋敷を出て少し歩いたところから、街へは乗合馬車で向かいます。スカイドールの推進エンジンを応用して開発された人間用の推進エンジンを使用した物で動くため馬はいません。なので、名称をただの『車』に変更しようという意見があるようです。
馬車だった頃は木製の胴体に幌を被せただけで、少し風が強い日はすぐに欠便でした。今は飛行機の作りを基盤に加工した鉄の胴体とそのまま繋がった天井という頑丈ぶりで、風雨に強く、便の本数も倍近くに増加しました。おかげで街へのアクセスは容易となり、気軽に足を運ぶ人々も増加しましたように思えます。
今は石畳ですが、かつては土がむき出しだった路面を走る車は、私の記録していた時間よりも遥かに早く街へ到着しました。終点の展望台から車を降りると、シイナが真っ先に街へと続く階段の方へ走っていきました。
赤いレンガの家々が立ち並ぶ王都一の街、展望台から見下ろす景観は、今日が雨でなければ壮大なものであるのは間違いありません。この国が長年他国に誇ってきた世界一の街がすぐ近くにあると思うと実に感慨深いです。
街の遥か遠くに見えるレース場は街を横向きに大きく線を引くように設立され、コースの左右をずらりと観客席が並んでいます。これがファーストクラスのレースとなれば街中の……、いえ、国中の人が集まって現地で観戦します。もし選手に遠征で参加しているスカイドールがいれば、海外からも応援に来ますから、いつだって満員御礼です。
今日は買い物ついでにコースの下見に来ました。特にスタート地点をよく見ておきたいのです。
シイナを追いかけて階段を降りると、白いひげを立派に貯えた掃除夫がトングでごみを拾っていました。掃除夫がシイナの足元にごみが落ちていたことを教えてくれていたようで、シイナがお礼に頭を下げていました。
今日の私はシイナの保護者です。私も掃除夫に感謝して頭を下げました。
「お嬢ちゃんが足滑らせて転んだ日にゃ、夜も眠れん。気ぃ付けるんだよ」
「はい。お気遣いありがとうございます」
「ハレーお姉ちゃん、はやくはやく!」
シイナに腕を引っ張られ、他の予定を後回しにして仕方なく洋服店へ直行しました。
〇
「そういえばヨギリは本日何をしているのでしょう?」
洋服店で一時間以上かけて選んだ服が入った紙袋を大事に抱えるシイナに聞きます。
「今日も練習だって。今度のレースは負けられないからって」
「そうですか。……あのドレスで?」
「うん。今日も赤色だったよ」
「彼女の衣装はなんのこだわりがあるのでしょうか」
「趣味じゃないのかな? 目立ちたがり屋だし」
「デビューからしばらくはレースで墜落してドレスを汚してばかりだったので、ファンからは『どろんこお嬢』なんて呼ばれていましたね」
「え、そうなの?」
雨は落ち着いたので、傘を細くまとめて持ちます。コースの下見をしようと場所を検索しましたが、レース時以外は立ち入り禁止らしく断念しました。
残りの時間をかけて向かうつもりでしたので、急に用事がなくなってしまいました。旦那様に何かお土産でも、と思いましたが、それは帰りの食料品のお買い物と合わせてでいいでしょう。乗り合いの時間もまだまだ先です。
「……シイナ、少し遠いですが、行きたい場所があります。いいですか?」
「いいよ。ハレーお姉ちゃんがシイナに許可を求めるなんて珍しいね」
「そこは、シイナにはつまらない場所です。迷子にならない程度に街で自由に行動してもいいですよ」
シイナは首を横に振ると私の手を小さなで握ってきました。私より遥かに小さな手だからこそ、私の手のひらにすっぽりと収まってくれる安心感がありました。
「ううん。シイナも行く。シイナ、ハレーお姉ちゃんのことあまり知らないから。この前のモデルドールのことだって。だから行くの」
「嬉しいことを言ってくれますね。足を滑らせやすい場所です。手をしっかり握っていてください」
「うん!」
懐かしい温もりを思い出して、方便を使ってシイナの手をしっかり握りました。
今のシイナみたいに笑って、私の手をぶんぶんと振り回すあの子のことが記録から溢れ出てきます。
「シイナ、目的地に着いたら、少し昔話に付き合ってもらえますか?」
「いいけど、今日のハレーお姉ちゃん、元気ないね」
「そうでしょうか? ……そうかもしれませんね」
「ほら、口の端に指を当てて……、ニィー!」
シイナが人差し指で口角を持ち上げました。本人はそれで笑顔を作っているつもりでしょうが、どこからどう見ても変顔の類です。リンゴみたいに赤い頬が可愛らしく、どうしてもあの子の面影と重なって見えてしまいます。
それでもシイナの変顔は私の笑顔を作りました。
「ニィー、こうですか?」
「あはは! ハレーお姉ちゃん、それじゃあ変顔だよ!」
「そうですか、では、シイナも変顔をしてもらいましょう」
「え? わ、わ! ダメだよー!」
私はシイナの顔に手を伸ばし、頬を包み込んでグッと持ち上げます。とても可愛らしい笑顔が出来ました。これには私も笑顔にならざるを得ません。
「むー、人前で変顔なんて恥ずかしい」
感傷に浸るには絶好の日かもしれません。
残り少ない活動時間。活動を終える前に私を語るくらいの時間はあるでしょう。