ハレー彗星1
全体的に短めの物語です。流血シーンに類する描写があるため残酷な描写ありを設定していますが、たいして流れません。保険だと思ってください。
今作もまた、読者様の暇つぶしになれば幸いです。
戦歴30年という長い月日を耐え忍び、芽が出るように訪れた平和な時代。空歴150年という王国で最も長い歴史は、国王が四度代替わりをしようと揺らぐことのない盤石の時代となりました。
世界中の人々が戦争を望まない意識が脳に定着したために、世代の流れと共に暴力的な思考は徐々に排他されていきました。
……空を見上げると、そこにあるのは単調な灰色。人々は「空は青い」と口にしますが、私が最後に青い空を見たのはいつのことでしょうか……。
とっくの昔にメモリーカードの容量は限界を超え、過去の記憶を取捨してきた私のメモリーカードには具体的な日付は記録されていませんでした。
空歴に入ってしばらく、市民にも開放された空は朝早い時間にも関わらず飛行機が懸命にプロペラを回しています。それらを監督するように空を舞う、“彼女たち”に私は羨望の眼差しを向けました。
「もう一度……」
戦歴の時代、戦争の副産物とも呼ばれる『ドール』は、戦闘力を排除すればこれほど便利な道具はなかったそうです。
戦争で主に衛生兵として活躍した汎用型ドールは、現代では人々の生活を補助し、主にメイドや執事のような役割を果たします。まさに私がそうです。旦那様に仕え、朝の目覚ましから夜の寝かしつけまで……、いえ、正しくは夜泣きを含む二十四時間の介護。ドールのエネルギーが尽きぬ限りはいついかなる時も“マスター”に仕えることになります。
そして、天女のごとく空を舞う少女たち、『スカイドール』は……。
「……さて、もうお時間ですね」
思考を中断し、大きな屋敷の廊下を静かに歩きます。廊下の端、角部屋の一室の扉を叩きますが、いつものことながら返事がありません。
「仕方ありませんね」
メイド服のポケットから合鍵を取り出して扉の鍵を開けます。重量感のある木製の扉はキィと重苦しい音を立てました。
両手を広げるように扉を開けると、カーテンに遮光された薄暗い部屋の隅に大きなキングサイズのベッドが鎮座しています。布団がおなかの出っ張りに持ち上げられて大きな山になっていました。
「旦那様、そろそろダイエットを始めませんと脂肪に押しつぶされてしまいます」
「……寝起きの老人になんちゅうことを言いやがる。せめておはようの一言はないのか?」
「仕方ありませんね、おはようございます。旦那様」
「仕方ないとはなんだ! 一言余計だ!」
サイドサーブルに置いてあったニット帽を被りながら怒鳴る旦那様。朝から血圧をあげてどうするのでしょうか?
威厳を保つためと、つぶらな瞳を隠すためのサングラスに、立派に蓄えた髭。運動不足の証である出っ張った腹はもうどうしようもないのです。
せめて、盛り上がった状況は、“小柄な誰かが旦那様の腹の上で寝ているから”であればましだったのですが……。
「シイナも、もう朝ですよ。また旦那様の布団に潜っていたのですか。あなたのお部屋は一つ下の階でしょうに」
旦那様の隣で猫のように丸くなって寝ていた短髪の少女、シイナは「うにゅ?」と寝ぼけた声を出して目元をこすりました。
十を過ぎたあたりの容姿のシイナは、旦那様と並べば祖父と孫のような関係に見えるでしょう。
「ハレーお姉ちゃん、おはよー。マクロお父様もおはよー」
シイナは勝手に旦那様の布団に潜りこんでいたことを悪びれることもなくふにゃふにゃとした口調であいさつをしました。
「おはようございます。さあ、今日もレースに向けて練習でしょう。朝食の準備は整っています。シイナも水とエネルギーを補充してください」
「はーい! あっさごっはん!」
ぴょーんとベッドから飛び降りたシイナは寝巻に裸足姿でタッタッと部屋から飛び出していった。
「シイナは朝から元気だな。ハレーは、調子はどうだ」
「いつもと変わりません。何か不調があれば報告します」
「そうか……、ならいい」
旦那様はベッドの端に手を付いて移動すると、ふぅと息を吐きました。私はクローゼットから衣類一式を取り出し、ベッドに並べます。
「お着替えしますよ。腕を上げてください」
「ほいよ。悪いが今日はこれじゃなくて、そっちの赤い……、右から三番目のジャケットを頼む」
長らく旦那様の傍に仕えていますが、時間と言うのは残酷なものです。私がこの屋敷の“もの”となって、見守ってきた青年が今では一人で歩くこともできない老人にまで成長してしまいました。ついでに大きな腹も貯えて、ほんと、ご立派に……。
「ハレー? お前が俺に対して無言で作業するときは何か失礼なことを考えている時だ」
「何を根拠に? ご冗談はそのハゲと髭とサングラスと腹だけにしてください」
「結構失礼だな! 腹と頭はともかく、髭とサングラスはお前が意見したことだろうが」
「申し訳ありません。記録にございません」
「都合のいい時だけメモリー容量足りないアピールしやがって。それ、意外と洒落にならないネタだからな?」
「サングラス、お似合いですよ」
「誤魔化すの下手くそか、さっきは誹謗したくせに」
「着替えは終わりました。食堂へ向かいますよ」
最後に旦那様が選んだジャケットを羽織らせ、部屋の隅に置いてある車いすをベッドの傍へ持ってきます。
旦那様の正面へ周り、少し屈んで抱き着くような形で身体を持ち上げます。旦那様も私の首元へ腕を回して体勢を安定させようとしてくれるおかげで、スムーズに車いすに旦那様を座らせることが出来ました。
「……やはりダイエットしてください。腹が出っ張りすぎて満足に身体を掴めません。危うく投げ捨てるところでした」
「せめて手が滑るところだったといっておくれ。老人を投げ捨てるな」
「まだカーテンを開けていませんでしたね」
「おい、無視すんな」
シャッと勢いよく開けたカーテンからは、やはり灰色の景色が広がっていました。一瞬でもわずかな変化を望むのはドールである私には過ぎた願いのようです。
思わずカーテンを握る手に力が籠ってしまい、ガシャガシャとレール部分の音を鳴らしていました。
「ハレー」
「失礼いたしました。食堂へ向かいましょう」
パッとカーテンを左右の紐で束にしてフックに引っかけ、急ぎ足で旦那様の元へ向かいます。力加減を調整しつつ車いすを押します。
「朝食は塩の効いたスープが飲みてえな。肉が入っているとなおいい」
「ついにボケましたか? 朝食の準備は整っています」
「分かったうえでのリクエストだよ! 少しくらい融通利かせろやい」
「太りますよ」
「うぐっ……、しゃあねえ、今日は我慢してやる」
「今後も、ですよ」
暴走しかけていた回路はすっかり落ち着きを取り戻していました。流石私のマスターです。私の考えることはなんでもお見通しのようです。
「お前が無言で車いすを押しているということは」
「旦那様、また太りましたね」
「やっぱりな。毎日のように言われて飽きちまったよ」
いつまでも冗談が言い合える日々が続いて欲しいと願うには心持たない私たち。そう遠くない未来に訪れるその日が来るまで、せめてこんな日々が続きますように。