60 ちよりてんへ
中空に出現した楕円の靄の向こうから、異形の存在が姿を現す。
いつもと同じようにテーブルに降り立った異形の存在、もとい――クソ悪魔は見るからに取り乱していた。
……ああ、よかった。お前が焦っていてくれて。
お前が『本体』と繋がっていなければ、どうにもならなかったからな。
キョロキョロと周囲を見回していたクソ悪魔は、美也子さんの席に誰も座っていないのを見るなり、右手を空中に走らせ、何かをタップするような仕草を見せた。
「させるわけないだろう?」
手近にあった果物――ラテックス・ボムを引っ掴み、クソ悪魔めがけてぶん投げる。
ラテボが悪魔の右腕に直撃し、指先の軌道がズレた。
「ッ――⁉」
動きを止めた悪魔が、鬼のような形相で俺を睨む。
自分よりも上位の存在から向けられる明らかな怒気。
しかし、今の俺の心中は恐怖なんかよりも、むしろ充足感が勝っていた。
笑みを抑えられないままに、悪魔に話しかける。
「なあ、悪魔さんや……俺と取引する気はないか?」
「……」
悪魔は俺の問いかけを無視して、再び空中をタップし始める。
俺はそれを、再度ラテボをぶつけて邪魔をした。
ラテボの預金は、まだまだあるぞ?
ただし、悠長にしていられる暇はなさそうだ。
仮想現実からの緊急脱出コマンドは、複数回失敗すると強制発動させられるものがある。
クソ悪魔の狙いはおそらくそれだろう。
だから俺は、またも空中に手を伸ばした悪魔に向かって、話し掛けた。
「仮にアンタが現実に戻ったとして、信用を失った今のアンタに、美也子さんが止められるのか?」
途端、悪魔の手がぴたりと止まった。
どうやら、俺の言葉が考慮に値すると受け取ってもらえたようである。
……信用を壊すように立ちまわっておいて、自分で言うのもなんだけども。
「俺は現実世界に干渉できる体が欲しいんだ。アンタは美也子さんを止めたいんだろ? なら、俺に体をくれればアンタに協力するが、どうだ?」
すると、悪魔が不快感を隠さずに俺を睨んだ。
「協力ダト? ドノ口ガ言ッテイル! オ前ガ――‼」
「言い争っている時間は無いはずだ! アンタは美也子さんを犯罪者にしたいのか、したくないのかどっちなんだ⁉」
「クッ……!」
俺が主導権を握っているように振舞ってはいるが、実際に主導権を握っているのは悪魔の方だ。それを分かった上でこんな駆け引きをやっているのだから、心臓がバクバクしているし、嫌な汗が止まらない。
というか、ただでさえ怖い悪魔の顔が超怖い。
が、目を逸らしては負けな気がして逸らせない。
そうしてしばらくの間、睨み合いが続き――
先に折れたのは悪魔の方だった。
「――ワカッタ。取引ニ応ジヨウ」
そう言ってから、悪魔が空中に指を走らせるのを、俺はただ見守ることしか出来ない。
それから数秒後、悪魔が入力を終える時の特有の動作を見せると、その巨体が忽然と消えた。
……これで逃げられでもしたら終わりだ。
策は全て使い切ってしまったからな。
しかも問題はそれだけじゃない。
悪魔が現実に干渉できる肉体を所持していない可能性だってあるのだ。
これに関しては、悪魔の言葉が嘘ではないことを祈るばかりである。
そのついでに、「他のプレイヤーに別れの挨拶でもしておこうかな?」などと考えていたら、俺の視界が何の前触れもなくブラックアウトした。
◆ ◆ ◆
目を開けたら、そこには知らない天井があった。
すぐに体を起こし、金属でできた寝心地の悪い寝台から降りる。
「よいしょっと」
……あれ?
なんか声高くね?
っていうか、何で胸があるんだ?
白いワンピースを着ていることから察するに、この体は明らかに女性ヒューマノイドのものである。
白を基調とした狭い空間には、寝台の他に高そうなPCが二つと、大きな作業机が置かれているのみ。PCはそれぞれ寝台といくつものコードで繋がっていて、寝台から伸びる一本の太いコードが俺の後頭部にまで伸びていた。
……どおりで頭が重いわけだ。
このままだと動き辛くて仕方ないので、とりあえず頭のコードを外すことに。
寝台に腰かけながら、頭のコードに手を伸ばすと、目の前の作業机の上に置かれていた古めかしいモニターに、ちょうど自分の姿が反射して見えた。
「ん?」
真っ暗なモニターに映っていたのは、高校生くらいの少女。
その顔になぜか既視感を抱いたものの、思い出すまでには至らない。
なんとなくモヤモヤした気分のまま、頭のコードを外そうと格闘していると、いきなり部屋の扉が開いて誰かが入って来た。ので、その誰かさんを確認しようとして顔を上げたら、急にコードが外れた。
ゴトン。
「あ……」
それとほぼ同時に、白衣を纏った初老の男が部屋に入って来た。
その男の顔には見覚えがあった。
というか、忘れるわけがない。
憎たらしいその顔を間近に見た瞬間、俺の体は勝手に動いていた。
「目覚め――」
「くたばれ、青木ぃ‼」
俺は青木が何か言い切るよりも先に、その鼻にチョキをぶっ挿して、思いっきり上にかち上げてやろうとしたが、無理だった。
というより、青木の鼻にチョキをぶっ挿すこともできなかった。
「私の名前は青木じゃない……。青井だ」
そんなん微差じゃん。だいたい合ってるじゃん。
とは思いつつも、とりあえず謝罪。
「すまん」
「君は本当に協力する気があるのか……?」
「あるぞ? 今のはただの挨拶だ。気にしないでくれ」
「…………そうか。まあいい。ついて来てくれ」
そう言って部屋を出ていった青井を追って、俺も部屋を出た。
どうやら俺がいた部屋は、どこかのマンションの一室だったようだ。
そのまま生活感の無いダイニングを素通りして、玄関へ。
用意されていたというよりは、ずっとそこに置かれていたっぽい靴を履くように促されたので、それを履く。
するとその時、今の俺の姿そっくりな少女がどこかのテーマパークで撮ったらしい写真が、玄関の飾り棚に置かれているのが目に入った。
俺の視線を追って青井も写真を見たが、説明してくれる気はないらしく、無言で玄関を出ていってしまった。
二人して無言のままエレベーターに乗り、マンションのエントランスを出る。
外に出たら空は真っ暗。
脳内チップを使う要領で視界に時計を表示すれば、時刻は深夜の三時前だった。
空タクもほとんど走っていないこんな時間に、一体どこへ行こうというのだろうか?
「アンタ……美也子さんの行先に心当たりがあるのか?」
「ああ」
青井が空を見上げながら言葉少なに返す。
ああ、じゃないだろ。場所を聞いてるんだよ、場所を。
「……場所は?」
と、俺が尋ねた丁度その時、暗闇から空タクが降りてきた。
どうやら、予約はすでに済ませてあったらしい。
自動で扉が開くのに合わせて、青井が空タクに乗り込む。
それに続いて俺が乗り込むと、ようやく青井が質問に答えた。
「宇宙エレベーターだ」
「――は?」
「君はニュースを見ていないのか?」
「見てはいるぞ? 近いうちに、竣工から十周年を記念したイベントがあるとかなんとか言っていたような……?」
「そのイベントに花蓮も参加するはずだ。狙うならそこだろう」
「え……? アイツがイベントに参加?」
花蓮ってそんなに有名な奴だったのか。
もしかして、リーダーをやっていたチャラ男とかも、実はすごい奴だったとか?
「イベントはいつから始まるんだ?」
「たしか、イベントの開始時間は、日本時間で明日の午前七時だったはずだ。今から数えて、あと二十八時間しかない」
「それだけ時間があれば十分じゃないのか? 宇宙エレベーターがあるのは、インド洋の赤道上にある人工島のはずだろ?」
「人工島に行くだけだったら、確かにそうだ」
……ってことはもしかして?
「宇宙ステーションまで行くのか?」
「ああ。そうなる」
どうやら、そういうことらしい。
次話より第三章『機械仕掛けの人形』編が始まります。




