〈43〉小公爵様、死亡フラグが立っています(2)
これは、レイシアとのピクニックの日からしばらく過ぎたころ。冬というにはまだ早く、木々の黄色や赤が美しい秋晴れの日。まだ学園に編入してまもないアリーシャは、校舎内で迷っていた。
(図書館の場所が分かりません。……そもそも、ここはどこなのでしょうか)
きょろきょろしながら校舎の中を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「何かお困りかな?」
低く艶のある声に振り返ると、ユーリが立っていた。漆黒の髪に、深碧色の瞳。端正な顔立ちはさぞ人好きするだろう。
そしてこの人は、ナターシャの幼馴染であり――レイシアの恋人だ。彼に失礼があれば、レイシアに失望されてしまうかもしれない。そう考えただけで血の気が引いてしまう。
口元に手を添え、おろおろと視線をさまよわせながら言う。
「は、はい……。図書館の場所が分からなくて」
「ああ、図書館は西講堂の隣の建物……って、西講堂も分からないよね」
「……ご、ごめんなさい」
アリーシャが申し訳なさそうに言うと、彼が微笑んだ。
「どうして謝る? まだ不慣れなのは当然さ。案内するから、一緒においで」
「ありがとうございます……!」
アリーシャはぎこちなく礼をして、ユーリに並んだ。彼は、すれ違う女性たちの注目を集めていた。
(きっとこの方は、多くの方に愛されて、良い思いばかりされてきたのでしょう)
思考が卑屈な方にばかり傾くのは、アリーシャの悪い癖だ。すぐ人のことが羨ましくなって、ないものねだりばかりしてしまう。
「ユーリ様……は、レイシア様とお付き合いされているのですよね」
「うん」
「レイシア様は……私なんかと違って素敵な方です。思いやりがあって、沢山の人に好かれていて……」
「……」
つい弱音を吐露すると、ユーリが立ち止まってこちらを見下ろした。まるで、憐れむように眉を寄せながら。
「アリーシャ嬢は、自分のことが嫌いかい?」
「……!」
アリーシャは予想外の問いに驚いた後、なんの迷いもなく――頷いた。
「嫌いです。なんの取り柄もなくて、卑屈で、悪いところばっかりの自分なんて、好きになれるはずありません」
いつもは物静かなアリーシャだが、自分への悪口ならすらすらと言えてしまう。ユーリは苦笑する。
「はは、僕と同じだ。僕も少し前まで、自分のことが大嫌いだったよ」
「え……」
そのときだった――。秋の爽やかな風に吹かれ、ユーリの前髪が揺れる。
「……っ。ひどい……」
アリーシャは自分の口から零れた言葉にはっとし、口元を塞いだが遅かった。
「見えちゃった?」
ユーリは自分の前髪を撫で上げて、額の右にある痛ましい傷跡を見せた。恐らくは、何年も前の古い傷だ。前髪に隠れて分からなかったが、彼の彫刻のような顔にそぐわない醜い傷痕が大きく残っている。
「幼いころ、義理の母に付けられた傷なんだ」
「……そんな……っ」
「ちょっと乱暴な人でね。子ども相手にひどいだろう?」
公爵夫人が義理の母、ということは、実母は別にいるのだろう。それに、義母に暴力を受けたのは、そのとき限りの話しなのか、日常的になのか……。やたら滅多に聞いてはならないだろうと思い、口を噤む。しかし、ユーリは自分からアリーシャが疑問に思う点に触れた。
「僕は自分が嫌いだった。不貞でできた子どもだから、ひどいことをされるのも当然だと思っていた。いつも孤独で、何をしても満たされなかった。だけど最近、気付いたんだ。自分に本当に欠けているものが」
「欠けている……もの?」
「そう。レイシアやナターシャにはあって、僕らには足りないこと」
アリーシャは息を飲んで、彼の言葉を待った。
「自分を受け入れることだよ」
「自分を……受け入れる」
「そう。誰かから愛されることを望む前に、自分を大切にするんだ」
ナターシャは、学園中の生徒たちを敵にしても、マティアスとユーリを手放さなかった。自分が本当に大切にしたい人を選んでいた。きっとアリーシャなら、悪口を言われたら自分の意志をねじ曲げて、二人から離れていたかもしれない。レイシアも、いつだって自分の信念に従って行動している。
ユーリは、アリーシャが周りの顔色ばかりうかがって自分の心を封じ込めていることを見抜いていた。
「自分を許してあげて。嫌な自分を抵抗せずに受け入れて、ありのままの自分でいる方が、案外物事はスムーズに進んでいくものだよ」
ユーリの言葉は、心の奥にぐっと刺さるものだった。彼の言葉を頭の中で反芻していると、彼が遠くへ指を差した。変わろう変わろうと思って足掻いて、結局うまくいかなかったアリーシャ。だが彼が提示してくれたのは、このままの自分で生きていくという新しい方向だった。
「あの赤レンガの建物が図書館だから」
アリーシャは彼にお辞儀した。
「親切に……ありがとうございました。助かりました」
「どういたしまして。それじゃ――頑張ってね」
労りに満ちた柔らかい微笑を見て、理解した。
(レイシア様がこの方を好きになった理由が、分かる気がします。……この方は、まとっている空気がどことなくレイシア様に似ている……)
道案内を終えて踵を返したユーリを、引き止める。
「ま、待って……!」
「何?」
「あっあの……! レイシア様のこと、独り占めはしないでください……! 私の、私のお友だちでも、あるので……っ」
ユーリは少し目を見開いた後、意地悪に口の端を上げた。
「――それは難しいお願いだ」




