〈31〉小公爵様、それはお互い様です
ユーリを隣に校庭を歩いていると、視線の向こうで人集りを見つけた。
女子生徒たちが、地面に座り込んだ一人の令嬢を取り囲んでおり、彼女の周りには教科書や筆記用具が散乱している。
「どうしたのかしら?」
「転んだようだね。膝から血が出ている」
レイシアとユーリは女子生徒たちの元まで歩んで声をかけた。
「大丈夫?」
麗しの貴公子ユーリの登場に、若い娘たちは色めき立つ。皆顔をほのかに紅潮させて、それぞれ顔を見合せ目配せし合っている。
ウェーブのかかった茶髪をした、怪我をした生徒が言う。
「転んで足首を捻ってしまったんです」
ユーリはその場に膝を突き、彼女に尋ねた。
「少し診ていい?」
「は、はい……ユーリ様」
「失礼するよ」
ユーリは丁寧な手つきで、左足の靴下を下に下げ、患部を観察した。その仕草さえ艶やかで、野次馬の中から歓声が漏れ聞こえる。
「捻挫だね。歩けそうにないかな?」
「はい……。上手く力が入らなくて……」
「この様子では無理もないよ」
ユーリは立ち上がり、レイシアにそっと囁くように言った。
「レイシア、彼女を抱えて医務室に連れて行ってもいい?」
「そうしてあげて」
ユーリが他の令嬢に親切にするのは、本当は妬けてしまう。けれどそれを口にするのはわがままだと思い、にこりも笑みを浮かべる。
「…………」
そして彼は、再び怪我をした令嬢に向き直る。
「よければ僕が連れて行くよ」
「……! で、でも小公爵様のお手を煩わせる訳には……」
「なら、ずっとそこに座ってるつもり?」
ユーリが穏やかに微笑むと、令嬢は顔を赤くさせてこくんと頷いた。
「お、お願いいたします」
「うん。君を抱えるから、首に掴まっていて」
「は、はい……っ」
彼女がユーリの首に手を回す。ユーリは令嬢を、小揺らぎもせずに軽々と抱き抱えた。いわゆるお姫様だっこだ。彼の絵に書いたような紳士的な振る舞いに、周囲の女子生徒らは完全に乙女心を鷲掴みにされている。
当の本人、ユーリは周囲のざわめきなど全く意に介さず、淡々とレイシアに告げた。
「レイシアも一緒に来て」
「分かったわ」
レイシアの同伴に、抱えられた令嬢は不満そうにこちらを見た。レイシアは床に散らばった転んだ令嬢の持ち物を拾い集め、医務室に向かった。
◇◇◇
「本当にありがとうございました……っ」
医務室に令嬢を送り届ける頃には、彼女はすっかり熱を帯びた眼差しをユーリに向けるようになっていた。
「それじゃ、お大事に。さ、レイシア。行くよ」
「お待ちください、ユーリ様!」
「何?」
令嬢に引き止められ、ユーリは再度彼女に目を向けた。
「あ、あの……今度、お礼を……っ。お食事でも、いかがでしょうか……っ」
「その気持ちだけ受け取らせていただくよ。ごめんね」
「……」
ユーリは愛想よく微笑んでいるが、どこか淡々としていて、事務的な感じがした。
(多分、こういうことがよくあるんだわ。……少し親切にしただけで好かれてしまうのも大変ね)
ユーリに誘いを断られ、しゅんと肩を落とした令嬢は、ユーリを見た後――レイシアを値踏みするように一瞥した。そして、恐縮した様子で言う。
「あの……ユーリ様とレイシア様はよく一緒におられますが、どういったご関係なのですか?」
「僕の恋人だよ」
「……!? そう、なんですか……」
令嬢は次に、レイシアに尋ねた。
「ユーリ様は私たちにとって雲の上の存在のお方です。レイシア様は、そんなお方の隣に立っていて、惨めに思うことはないのですか」
つまり、レイシアがユーリには相応しくないと言いたいのだろう。この令嬢は、大人しそうに見えて案外はっきり物を言うらしい。しかし、レイシアは、彼女の嫌味にさして動じなかった。
(そう見られるのも、仕方がないことかもね)
何しろ、自分はただのモブで、ユーリは小説の中の主要人物だ。はなから、釣り合っているとは思っていない。しかし、劣等感を感じたところで現実は変わらないではないか。
レイシアはへらへらと笑いながら答えた。
「そう思うこともあるかもね」
「…………」
一切動揺を見せない態度に、令嬢は口ごもった。彼女の嫌味を受け流したレイシアは、さっさと退出しようとユーリの方を見た。――すると。
(お、怒ってる……?)
彼の形の良い唇は扇の弧を描いている。一見笑っているように見えるが、その目はちっとも笑っていない。
レイシアが侮辱に近い言葉を受けたことが、相当気に障ったらしい。ユーリも基本的に寛容で怒るタイプではないので、そんな彼を怒らせた令嬢は逸材かもしれない。
「僕らは一緒にいたいからいる。それ以上でもそれ以外でもないよ。体裁を気にして付き合っている訳じゃないから」
ユーリは怒りを声に含ませず、いつもの温厚な表情で淡々と言っただけだった。
それだけ言い残したユーリに手を引かれ、レイシアは医務室を出た。
◇◇◇
医務室を出て、険しい顔をしたユーリが開口一番に言った。
「ごめん。嫌な気分を味わわせた」
「このくらいで気にしたりしないわ。むしろあなたも大変ね」
「たまに、変に期待を抱かせるくらいなら、誰にも親切にしない方がいいんじゃないかと思うよ」
「ふふ。ユーリ様にそれはできないわ。優しいから」
「それはどうかな」
目を合わせただけで恋されるユーリ・ローズブレイド。人生で一度はそんな風にもてはやされることも味わってみたいものだが、好かれすぎれば、人間不信に陥ってしまうかもしれない。実際ユーリは人間不信だった。ユーリがレイシアに心を許してくれたのが不思議だ。
生徒会室へ戻るための長い廊下を歩く。道中、彼はきまり悪そうにしていた。
「君は大人だな。……僕ばかり、嫉妬したり、勝手に不安になったり、腹を立てたりしている」
レイシアは小さくため息をついた。
「……私だってしますよ、嫉妬。落ち込んだり、怒ったりもする」
「え……」
「それを表に出さないだけ」
レイシアはユーリを見上げて、顔を赤くさせながらもごもごと呟く。
「さっきも言ったけど、私だってユーリ様のことが――好きなんだから、当たり前でしょ。さっきあの女の子をお姫様抱っこしたのだって……嫌だった」
「……!」
ユーリは僅かにたじろぎ、口元を手で抑えた。次の瞬間、レイシアの身体が宙に浮かび、きゃっと悲鳴を上げる。ユーリはレイシアのことを横抱きにし、愛おしげにこちらを見下ろした。
「今日の君、かわいすぎて僕の心臓がいくつあっても足りないよ」
「ちょっ、ユーリ様! 下ろして……っ、人に見られてらどうするのよ!?」
「嫌だね」
ユーリは子どもがいたずらを企むように口角を上げ、なかなかレイシアのことを離してくれないのだった。




