〈2〉小公爵様、取引しましょう (2)
レイシアが前世の記憶を取り戻したのは、つい二週間前のことだ。
「ん……おはよう、アニー」
「おはようございます、お嬢様。朝食のご用意ができておりますよ」
「そう、すぐに食堂へ行くわ」
いつものように目を覚まし、傍らのメイドと挨拶を交わす。しかし、ベッドから立ち上がったそのときだった。
途端に、目の前に閃光が走り、呼吸が苦しくなる。そして、レイシアの脳内に膨大な情報が流れ出した。瞼の奥に映し出されていく、見たことのない景色や建物、知らない人たち……。
「うっ…………」
レイシアは堪らず、頭を抱えながらその場にうずくまった。
「お、お嬢様!? いかがなさったのですか……っ! しっかりしてください、お嬢様…………!」
アニーの声はどんどん遠のいていき、まもなく意識を手放した。
再び目を覚ましたとき、これまでレイシア・アヴリーヌとして生きてきた記憶の他に、日本人としての記憶が蘇っていた。
目を開けた先には、見慣れた天井と、心配そうにこちらを見下ろしているアニー。つい先程も同じ光景を見ていたはずなのに、どこか妙な心地だ。
「お嬢様……っ。良かった、お気づきになられたのですね。半日以上眠っていらしたのですよ……!」
「え……そんなに……?」
窓の外へ視線をやると、既に夕暮れの気配が漂っていた。窓の外から差し込むオレンジ色の淡い光が、部屋の床に少し歪な四角形を描いている。
「今、お医者様を呼んで参りますからね!」
ぱたぱたと足音を立てて出ていったアニーを見送り、レイシアは頭の中の情報を整理した。
今、二度目の人生を生きるこの世界は、前世に読んでいた――小説『瑠璃色の妃』の世界だ。
レイシアという人物は、小説に登場していない。いわゆるモブというやつだ。しかし、モブの中でもそこそこ好待遇で、王都から離れた片田舎ではあるが、公爵家の娘として育てられた。凡庸で取り立てて褒めるところはない、どこにでもいる普通の女の子。
現在は王都の王立学園に通っており、アヴリーヌ家の本邸とは別の、学校近くのタウンハウスで少数の使用人たちと共に下宿している。
レイシアの父、アヴリーヌ公爵は平凡で目立つ人ではなかったが、領民からは好かれていた。母は控えめで優しい。穏やかな両親の元で育ったレイシアも、派手なことは好まず、控えめで優しい性格だった。
(ユーリ様が殺されることを知ってるのはたぶん、世界で私だけ……)
レイシアは頭を抱えた。
『瑠璃色の妃』において、主要人物であるユーリは、一年後の卒業式典後の夜会でナターシャの妹に刺されて亡くなる。
レイシアは、目立つことも刺激的なことも好まない。しかし、人一人の命がかかっているのに、それを見過ごせるほど冷酷ではなかった。
ユーリ・ローズブレイドといえば、家柄、容姿、能力に恵まれ、完璧な貴公子として学園内で最も有名な人物だ。平凡を絵に書いたような日々を送ってきたレイシアにとっては、あまり関わりたくない相手。それに、ただでさえ存在感がないモブの自分に、一体何ができるだろう。
思いつくのはせいぜい、主人公であるナターシャを連れたユーリに向けて、「ちょっと! その女誰よ!」とか「私たちのユーリ様に近づかないで!」と、ありがちな野次を飛ばすことくらいだ。モブというのは、そういうささやかな存在だ。
(知らなかったことにする? いやいや、見殺しにするっていうのも寝覚め悪いし……)
天井を仰ぐレイシア。しかし、ぱしんっと手で頬を叩いて自分を鼓舞する。
「まぁ、うまくいかなかったとしても、そのときはそのときよね」
深く考えることはあまり好きではないし、何事もまずはやってみることが肝心である。
前世のレイシアは、今世とはほとんど別人格といえる。思い切りが良いといえば聞こえは良いが、行き当たりばったりで短絡的だった。
(ようし。当て馬小公爵様の死亡フラグ、折ってやろうじゃない!)