第3話 「天の岩屋戸隠れ」
誘凪は、穢れを祓うための禊を終えて黄泉の国から帰還した。
愛する妻を失った誘凪は、もはや国づくりを続ける力が残っていないことを悟った。
誘凪には三貴子と呼ばれる子たちがいた。
誘凪と誘波は子沢山だったが、その中でもひときわ貴い子として敬われていた。
誘凪は、三柱の神に国づくりを託すことを決心した。
「天照や、そなたは高天原を治めなさい」
誘凪は、首飾りを外して太陽の女神に授けた。
「月読よ、お前は夜の世界を治めるのだ」
月読は、月の神だった。
「須佐之男は大海原を治めよ」
最後に、誘凪は海の神に命じた。
誘凪から使命を受け継いだ三貴子は、おのおの治めるべき場所に赴いた。
天照と月読は、与えられた使命を果たそうと日夜努力した。
一方、須佐之男は髭が長く伸び、胸に垂れ下がる年齢になっても泣き喚いていた。
青々とした山が枯れ果て、海や川の水が干上がるほどの勢いで泣き続けた。
荒ぶる神が発する物音は、夏の蠅のように騒がしかった。
大海原は荒れ狂い、あらゆる厄災を悉く呼び起こした。
須佐之男が荒神になったという噂を伝え聞いた誘凪は、心配になって様子を見に訪れた。
「なぜお前は与えられた使命を果たさないのだ」
誘凪が問い質すと須佐之男は泣きながら答えた。
「吾は母上に会いたいのです。母上のいる黄泉の国に行きたいと思って泣いています」
黄泉の国と聞いて、誘凪の脳裏にはおぞましい誘波の姿が蘇った。
誘凪は、恐怖を振り払うように声を荒げた。
「黄泉の国に行きたいだと? それならこの国を治めることはできぬ。どこへなりと出ていけ!」
そう言い残すと、誘凪は近江の多賀の社に隠棲した。
(姉上に暇乞いをしてから母上に会いに行こう)
父親に見限られた須佐之男は、そう思い立つと高天原へ向かった。
嵐の神がのしのしと歩くだけで、大地がみしみしと震えた。
須佐之男が高天原に向かっているという知らせは、「須佐之男が攻めてきた」という報告になって天照に伝わった。
驚いた天照は、すぐに武装して須佐之男の襲来に備えた。
「どうして高天原に上ってきたのですか?」
待ち構えた天照は、姿を現した須佐之男に問い質した。
「姉上、そんな物々しい恰好をされて何事ですか?」
須佐之男は、訝しげに問い返した。
「この国を奪うために攻めてきたのではないですか?」
天照は、さらに詰問した。
「母上に会いたくて泣いていたら、父上に追い払われたので、姉上に暇乞いに参ったのです。吾にやましい気持ちはありません」
疑われていると知った須佐之男は、身の潔白を訴えた。
「あなたが邪な心を持っていないことをどうやって証明できるのですか?」
天照は、須佐之男の弁明を簡単には受け入れなかった。
「それでは誓約を立てましょう」
須佐之男はどうやって証を立てるか一瞬戸惑ったが、開き直って答えた。
誓約は、ある事柄の真偽や吉凶などについて祈誓して神判を仰ぐことだ。
「それでは、あなたが腰に帯びている剣をお渡しなさい」
天照は、剣を受け取ると三段に打ち折り、天の神聖な井戸水で洗い清め、噛み砕くようにして息を吹きかけた。
すると、天照が霧のように吹き出した息吹の中から三柱の姫神が生まれた。
「ならば、姉上が身に付けている勾玉をお渡しください」
今度は、須佐之男が天照から五つの珠を受け取り、天の神聖な井戸水で洗い清め、噛み砕くようにして息を吹きかけた。
すると、須佐之男が霧のように吹き出した息吹の中から五柱の男神が生まれた。
「わたしの身に付けた珠から生まれた男神たちはわたしの子、あなたの剣から生まれた姫たちはあなたの子です」
天照がそう言い渡すと、須佐之男が勝ち誇ったように言い放った。
「吾の心が清らかなので、姫が生まれたのです。これで潔白が証明されたでしょう」
本来、誓約は最初に何を誓って神意を伺うのかを決めてから行うものだが、今回はそうしなかった。
だから、判断基準があやふやなままだった。
須佐之男が、自分に都合が良いように結果を解釈したのは明らかだった。
しかし、天照は母を恋しがって泣き続けた挙句に父から見捨てられた弟のことを不憫に思った。
それゆえ、突っ込みどころ満載の誓約の結果もことさら咎め立てせずに受け入れた。
「姉上、吾の勝ちですからしばらくここで厄介になります。ワッハハハハハ・・・」
須佐之男は、高笑いしながら高天原の屋敷に上がり込んだ。
ところが、天照が須佐之男に掛けた温情は仇になった。
誓約に勝った須佐之男は、勢いに任せて数々の狼藉を働いた。
むしゃくしゃした気持ちを晴らすためだったが、つい図に乗ってしまったのだ。
最初は、天界の田んぼの畔を壊したり、溝を埋めたりした。
次には、天照が初穂を召し上がる神聖な御殿に糞を撒き散らした。
「田の畔を壊したり、埋めたりしたのは土地を有効に使うためでしょう。御殿での出来事は、酒に酔ったせいでしょう」
天照は、弟が騒動を起こすたびに庇った。
しかし、とうとう庇いきれない大事件が勃発した。
天照が機織場でお召し物を織らせている時、須佐之男が屋根に穴を開けて皮を剥いだ馬を投げ落としたのだ。
機織場は騒然となった。
不幸なことに、機織女が驚いて倒れた拍子に機織りに使う先が尖った板で下腹を貫かれて死んでしまった。
「すべてわたしの所為だ。わたしが弟の悪行を咎めなかったばかりに、増長させてしまったのだ」
天照の顔面は蒼白になった。
「わたしは父上の期待を裏切ってしまった。高天原を治めるどころか、神聖な場所を汚し、大切な機織女を死なせてしまった」
天照は誰もが認める優等生で、これまで挫折を経験したことがなかった。
「こんなことになってしまったからには、わたしを信頼してくれた天界の神々に顔向けができない・・・」
いたたまれなくなった天照は、突然、その場から逃げるように走り出した。
無我夢中で天の岩屋の中に駆け込んだ天照は、急いで入口の岩戸を閉じてそのまま隠れてしまった。
太陽の女神が引きこもってしまったのだから、さあ大変。
日の光は消え、天界も地上界も真っ暗闇になってしまった。
永遠に闇夜が続く世界には妖怪や魔物がはびこり、疫病神が闊歩した。
あらゆる災禍が世界中に蔓延した。
困り果てた神々は、天上の河原に集まってどうしたものかと相談し合った。
皆は、知恵の神として知られる思金に何か良い方法はないかと尋ねた。
「では、まず鶏を集めてください。それから鏡と勾玉が付いた飾りを作ってください」
思金は、てきぱきと指図した。
それから、特別な任務を担う神たちを呼び、それぞれの役割を伝えた。
すべての準備が整うと、思金は集めた鶏を鳴かせた。
天の岩屋戸の前では、勾玉で装飾され、枝に鏡を掛けた榊を太玉が捧げ持った。
天児屋が恭しく祝詞を唱えると、天宇受女が軽やかに神楽を舞い始めた。
宇受女の舞いは次第に激しくなり、着衣がはだけてお腹や太もも、そして乳房までもが露わになった。
天の岩屋戸を取り囲むようにして宇受女の舞いを観ていた神々が、やんややんやと囃し立てた。
宇受女は乳房が露出していることを気にも留めず、そのまま狂ったように舞い続けた。
しまいには裾が捲れて、女神の聖なる門が見え隠れした。
男神たちがひと際大きな歓声を上げた。
神々が騒ぎ立てる物音や笑い声は、岩屋の中にいる天照にも聞こえてきた。
(外は真っ暗なはずなのに、いったい何が起きているのかしら・・・?)
気になった天照は、岩戸を細めに開けて、外の様子を覗き見た。
「そなたはなぜそのように舞い踊り、神々は笑っているのですか?」
天照は、岩戸の前で我を忘れて踊り狂っている宇受女に尋ねた。
「あなた様よりも貴い神様がおいでになったので、皆が喜んでお祝いしております」
宇受女は、踊りながら答えた。
その時、太玉は捧げ持った榊を岩戸に近づけ、児屋が天照に鏡を向けた。
天照は、自分よりも貴いという神様の姿をよく見ようと岩屋から身を乗り出した。
その瞬間、岩戸の側に隠れて待機していた怪力の手力男が天照の手を取って、外に引き出した。
そして、太玉が急いでしめ縄で結界を張り、岩屋の入口を封印した。
「これでもう、岩屋の中には戻れません」
太玉は、畏まって天照に告げた。
天照が姿を現したことで再び日の光が射し、天界と地上界を明るく照らし始めた。
神々は、歓喜の声を上げた。
天照はしばらく呆気に取られていたが、やがてぽつりと呟いた。
「これは、わたしではないか・・・?」
天照が自分よりも貴い神様だと思って見ていたのは、鏡に映った自分の姿だった。
「違います。ここにいらっしゃるのは、これまでの天照様ではありません。試練を乗り越え、一回り大きくなって戻ってこられたスーパー天照様です」
思金がおもむろに答えた。
「ス、スーパー天照・・・、それはちょっとダサいですね・・・」
天照の飾らない一言に、神々は爆笑した。
「もちろんスーパー天照様というのは冗談です。これからは天照大御神様とお呼びします」
思金の言葉と共に、神々は揃って叩頭した。
「その名も大仰過ぎる気がしますが、そなたたちがそうしたいのであれば・・・」
天照は、引きこもったことを後ろめたく感じないように冗談を言って場を和ませてくれた思金の心配りをありがたく思った。
また、途中で使命を投げ出した自分を許してくれた神々に感謝した。
復帰した天照が最初にすべきことは明白だった。
天照は須佐之男を厳罰に処したうえで、高天原を追放した。
さすがにやり過ぎたと反省していた須佐之男は、天照の命令に素直に従い、処罰を受けた。
これ以降、天照は慈悲深く、かつ厳格に国づくりを進めた。
こうして天照は、天界と地上界を統べる最高神として、神々と人々から慕われ、敬われる存在になった。