第2話 「黄泉の国」
誘波が死んでからどれくらい経ったのだろう。
ふらふらと立ち上がった誘凪は、誘波の亡骸を出雲の国と隣国の境にある比婆山に埋葬して墓を造った。
「会いたい・・・、もう一度、誘波に会いたい・・・」
誘凪は、こぼれ落ちる涙を拭いもせず、ただ立ち尽くした。
しばらく呆然としていた誘凪は、ある考えを思い浮かべた。
「そうだ、黄泉の国へ行こう」
どうして今まで思いつかなかったのだろう。
これから黄泉の国へ行って、誘波を連れて帰ればいいじゃないか。
しかし、死者が黄泉の国の食べ物を口にしてしまったら、もうこの世界には戻れないという話を聞いたことがある。
(急がなければ・・・)
誘凪はすぐに思いが至らなかったことを悔やんだが、いまさら言っても仕方がない。
思い立ったら吉日とばかりに、黄泉の国行きの決意を固めた。
黄泉の国は、出雲の国のはずれにある黄泉比良坂を下った奥深い場所にあると言われている死者の国だ。
誘凪は、黄泉比良坂へと向かった。
長く曲がりくねった坂を下りると、巨大な岩山の門がそびえ立ち、道を遮っていた。
ここが黄泉の国の入口のようだが、扉が固く閉じていたので中に入ることができなかった。
「誘波、誘波・・・我だ、誘凪だよ・・・迎えに来たよ!」
誘凪は、扉の向こう側に聞こえるように大声で呼びかけた。
しばらくしても、何の反応もなかった。
「誘波、お願いだ、ここを開けてくれ!」
誘凪は、扉を叩きながら再び叫んだ。
何度も繰り返して叫ぶと、ようやく扉の向こう側から懐かしい声が聞こえてきた。
「誘凪? 誘凪なの?」
間違いない。それは、確かに愛しい誘波の声だった。
「どうしてここへ?」
誘波に尋ねられて、誘凪は答えた。
「汝を迎えに来たんだよ。まだ、国づくりは終わっていないじゃないか。一緒に帰ろう」
しばらく沈黙が続いた後、誘波の嗚咽が聞こえてきた。
「いまさら遅いわ・・・。わたしは、すでに黄泉の国の食べ物を口にしてしまいました・・・。もう、そちらの世界には戻れません・・・。なぜ、もっと早く迎えに来てくださらなかったのですか?」
誘波の切なく、哀しげな声を聞いて、誘凪の心は締め付けられるように痛んだ。
「すまない、誘波・・・。もっと早く迎えに来ればよかったのに・・・。でも、我はまだ諦められない。誘波を愛してるんだ!」
誘凪は、なおも食い下がった。
「わたしだって、帰れるものなら帰りたい・・・」
誘波は困惑していたが、意を決したように言葉を続けた。
「わかりました。あなたがせっかく迎えに来てくださったのですから、わたしをそちらの世界に帰してもらえるよう黄泉の国の神々にお願いしてみましょう」
誘凪は、望みをつなぐことができて少しほっとした。
「でも、わたしが黄泉の国の神々と相談している間、決して中を覗いてはなりません。絶対に、わたしの姿を見ないと約束してください」
誘波の強い口調に驚きながらも、誘凪は約束を守ると誓った。
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(遅い・・・)
何時間経っているかもわからないまま、誘凪は待ち続けた。
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(遅すぎる・・・)
いつまで待てばよいのかわからないまま、ただ待ち続けるのは辛かった。
誘凪は、しだいにイライラし始めた。
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(何かあったのだろうか?)
誘凪の心の中に不安な気持ちが湧き上がってきた。
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(誘波だけで、黄泉の国の神々を説得することができるのだろうか?)
(強引に引き止められているのではないだろうか?)
(はるばる黄泉の国にまで来たのだから、自分も行って一緒に交渉したほうがよいのではないだろうか?)
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(そうだ、少し中の様子を見てみよう)
誘凪はとうとう待ちきれなくなって、扉を開けて中を覗いてみた。
誘凪は誘波に会いたいという思いが強すぎて、先ほどまでびくともしなかった扉が簡単に開いたことを不思議に思う余裕さえ失くしていた。
誘波が戻ってくるのを待つこと自体が、誘波を連れて帰るための条件として誘凪に与えられた試練だったことに気づくことができなかったのだ。
誘凪は、誘波との約束を破ってしまった。
その結果、どのような報いを受けることになるのかも知らずに・・・
(暗くて中がよく見えないな・・・)
誘凪は髪を束ねた櫛の歯を一本折ると、それに火を灯して扉の中に入っていった。
黄泉の国には、何かが腐敗しているような異臭が漂っていた。
誘凪は、暗闇の中を小さな灯りだけを頼りに一歩ずつ前に進んでいった。
足元は凸凹でゴツゴツした岩のように固く、至るところに異臭を放つ何かが散乱していて歩きにくかった。
誘凪は、ところどころ躓いて転びそうになりながら歩き続けた。
異臭は、奥に行くほどだんだん強くなっていった。
ゴツッ・・・
誘凪は、黄泉の国のかなり奥まで入ったところで何かに足をぶつけた。
・・・?
「ギャァァァァァーッ!」
足元にある何かを確かめようと灯りをかざした時、誘凪は驚愕のあまり、それが自分の声とは信じられないほどの悲鳴を上げた。
そこには、かつて誘凪が愛した女神の変わり果てた姿があった。
腐敗した誘波のからだには蛆が湧き、頭、胸、腹、股、左右の手足から出てきた八雷神が誘凪をジロリと睨みつけた。
誘波の顔は黒ずみ、鼻が捥げ、歯がむき出しで、片方の目は落ち窪んで失われていた。
「誘凪・・・? どうしてここにいるの・・・? なぜ約束を破ってしまったの・・・?」
誘波は残ったほうの目をギョロリと動かし、誘凪の顔を凝視しながら恨めし気に呟いた。
「決してわたしを見ないでとあれほど約束したのに・・・。こんな醜い姿を見られるなんて・・・。これほどの辱めを受けるなんて・・・」
「わたしは今でも誘凪を愛しているのに・・・。あなたと一緒に帰れることを楽しみにしていたのに・・・」
「なのに、お前は裏切った・・・。わたしに恥をかかせた・・・。なんと恨めしい・・・」
「憎い・・・。お前が憎い・・・」
「許さない・・・。絶対に許さない・・・」
誘波の声はしゃがれて、しだいに大きくなっていった。
「そうだわ・・・。お前も一緒に黄泉の国で暮らせばよいのだ・・・」
「お前も死んで、朽ち果てるがよい・・・。そうしたら許して、あ、げ、る・・・」
「ウフフフッ・・・。アハハハッ・・・。ギャハハハハハッ・・・・」
(く、狂ってる・・・。あれは、我が愛していた誘波じゃない・・・)
あまりのおぞましさに戦慄を覚えた誘凪のからだは硬直し、足がガタガタと震え出した。
(逃げなくちゃ・・・、逃げなくちゃ・・・)
誘凪は、恐怖に慄いたからだに鞭を打ってなんとか踵を返すと、出口に向かって脇目も振らずに走り出した。
「ウヌッ、おのれ、逃がすものか!」
誘波は絶叫した。
「おぬしら、あの男を捕まえろ! 絶対に逃がすでないぞ!」
誘波は、辺りにいた黄泉醜女というゾンビのような姿をした魔物たちに命令した。
「いやだ、捕まりたくない・・・。く、来るな!」
誘凪は、前につんのめりながらも必死に逃げた。
しかし、黄泉醜女たちの足は異常に速く、誘凪のすぐ後ろまで迫ってきた。
「食い止めろっ!」
誘凪は、黒い蔓草でできた髪飾りを外して背後に投げた。
すると蔓が勢いよく伸びて葡萄の実がなった。
それを見つけた黄泉醜女たちは、葡萄の実にむしゃぶりついた。
時間稼ぎができると思ったが、黄泉醜女たちは葡萄の実をすぐに食べ尽くして、再び追いかけてきた。
「盾になれっ!」
誘凪は、今度は髪にさしていた櫛を後ろに投げつけた。
すると筍が生えてきた。
黄泉醜女たちは、筍に食らいついた。
「チッ、この役立たずどもめ! 何をしている、お前たちも行け! 絶対に逃がすな!」
誘波は激怒して、雷神たちと黄泉の国の軍勢に命じた。
新たな追っ手は、凄まじい勢いで誘凪に追いついてきた。
「クソッ!」
誘凪は、背中に背負った十拳の剣を後ろ手で抜いて振り回した。
聖なる剣は眩い光を放ち、追っ手の目を眩ました。
その隙をついて、誘凪は出口まで続く坂の麓まで戻ってきた。
そこには桃の木が立ち、邪気を祓う力を宿した桃の実がなっていた。
「救い給えっ!」
誘凪は、桃の実を三つ捥いで追っ手に向かって投げつけた。
すると、桃の神聖な力によって悪霊たちは勢いを失い、ちりじりになって退散した。
(我を助けてくれたように、人々が苦しんでいる時には助けて欲しい)
誘凪は、桃の木にそう祈った。
この桃は、後の時代で桃太郎に転生し、鬼ヶ島に鬼を退治に行くことになるのだが、それはまた別の話。
これで一安心と思ったところ、誘波が自ら追いかけてきた。
「待てーっ! 逃がさんぞーっ‼」
「ゲッ!」
誘凪は足をもつれさせながらも必死になって走り、なんとか出口までたどり着いた。
誘凪は、千人がかりでも動かせないような巨大な岩石を押し転がし、急いで出口を塞いだ。
誘凪はようやく逃げ切った安堵感から、ゼイゼイと息を切らしながら大岩にもたれかかった。
すると、大岩の向こう側から、美しく優しかったころの誘波の声がした。
「どうしてこんな酷いことをするの・・・。わたしはこんなにもあなたを愛しているのに・・・。お願い、わたしを置いていかないで・・・」
「我と汝は住む世界が違うんだ。もう一緒に暮らすことはできない。願わくば、誘波が黄泉の国で安らかに暮らすことを祈っているよ」
誘凪は、誘波を諭すように言った。
すると、ガリッ、ガリッという誘波が爪で岩を引っかく音が聞こえてきた。
「全部お前のせいだ! お前がわたしとの約束を破って酷い仕打ちをしたからこんなことになったのだ。許さない、絶対に許すものか!」
誘波は、声を荒げて叫んだ。
「そうだ、これから毎日、お前の国の住人を千人呪い殺してやる」
誘波の怨嗟の声を聞いた誘凪は、強い決意を持って宣言した。
「我と汝は、御中主様から国づくりをする使命を授かった。だから、汝が毎日千人殺すのなら、我は毎日千五百人の子どもが生まれるようにしよう」
大岩の壁に隔てられた暗闇の中では、誘波の咽び泣く声が響いていた。
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双神の夫婦喧嘩のあおりを受けて、人は生き死にする運命を背負った。
これが、この国で最初の愛憎劇の顛末だ。
そして、誘凪と誘波の子孫たちによる栄枯盛衰の物語が始まる。