第一章-1
人を簡単に傷つけられる力は、安易に振るって良いものではない。
例え人を助けられる力でも、人に振るえばそれは暴力であり正義ではなくなる。
今、手のひらを血に染めてやっと、やっとそれに気がついた。
失われた者は回帰しない。
もう後悔しても遅いのだ。
もうこの手に付いた血は落とせない
〜*〜*〜*〜
旭青空は一般的な女子高校生である。
「いってきまぁす」
家の中に誰がいる訳ではないが、つい口に出してしまうのはもう癖だろう。無人の部屋に声が反響して寂しく消えた。
ローファーを履いた足でアスファルトを叩き、足にカラメル色のそれを馴染ませる。室内に対して少し大きめなドアに鍵をかけた青空は、学校に向かい足を進め出した。
家の前から駆け出す時間はいつもより遅いが、いつもどおりの朝である。
空は目が冴えるように碧い快晴だ。
やや足早に地面を蹴りながら、行儀悪く鞄から出した携帯の画面を覗き込む。浮かんでいるのはいつも二人で登校している幼馴染からの、先に行くという旨のメッセージ。携帯を乱暴に電源を切り鞄に放り込み、足を早める青空を道行くサラリーマン達が顔をしかめて避けていった。
まずい。大分困った状況だ。
いつもより二本遅い電車に乗り、学校の最寄駅に着いたはいいのだが、駅前のスペースにそびえ立つ名物の柱時計が示すのは、始業9分前の時間だ。
問題は、駅から学校まで少し距離があることだ。
例えここから全力疾走したとして、通勤ラッシュ真っ只中のこの人混みでは学校に付くまで少なく見積もって15分はかかるだろう。今月あと一回でも遅刻したら反省文だと、教師から伝えられたことを思い出す。眉をひそめる幼馴染の顔が目に浮かぶようだ。
致し方ない。思わず大きなため息が口からこぼれ出た。
なるべく人目にふれないよう、そっと脇道に逸れる。
今からすることは、決して人に見られてはいけないのだ。
ゴミが散らばる薄暗い路地裏は、人の熱気や直射日光が無い分少し涼しい。見逃すことの無いよう、しっかり四方を確認すると、青空は路地を構成するレンガ造りの壁の片方に手をかけた。
レンガとレンガの間につま先を挟み込み、壁に手のひらを這わせていく。
呼吸を整え、身体中に散った力を四肢に集中させる。
ビキビキと脚が悲鳴を上げ、脳の裏側に電流が流れる。自分の体の中に人知を超えた力が漲るのを感じた。
全身の力を込めた脚で壁を駆け上がり、腕の力で身体を弾き出す。手や腕の力は添えるだけで十分だ。
足をかけていたレンガの角が崩れて少し形が変わった。
瞬間、ロケットのように青空の身体が強い風を切った。
ふわりと宙に浮ぶ感覚のあと、一瞬空中で体が停止する。
衝撃に備えるように筋肉を緊張させながら下を向くと、先程まで立っていた地上は20メートル程下にもなっている。
青空は青空を舞っていた。
重力に引っ張られながら中層マンションの上に着地すると、かすかに足の裏が痛み、すぐに治っていく。狭い中層マンションの屋上も次の動作のための助走距離には丁度いい。
少し頼りないコンクリートの上を全力疾走し、またもや身体を数メートル上へと跳ね上げて、更に高い建物へと飛び乗る。
走って跳んで、少し高いビルに着地するを繰り返していれば、いつの間にか人混みは豆粒の集まりのようになっている。一般人など普段は到底侵入できないであろう高層ビルの上を青空は走っていた。その姿はさながら貧しい子供たちに施しをする正義の怪盗のようであるが、青空自身はそのような高尚な目的で動いているわけではない。一重に遅刻を回避しているだけなのだ。
人混みを縫って進むより、ビルの上を全力疾走したほうがずっと速いのは明らかだ。これからの業務に頭を悩ませるサラリーマン達は案外空など見ていない。
まぁ、たとえ空を見ていたとしても超高層ビルの屋上から屋上へと一瞬で飛び移る影など、見つけるのは難しいだろうが。
独特の浮遊感も慣れたもので、超高層ビルから人のいない道に立った電柱を介して自動販売機の上に飛び降りる。全身に鋭い衝撃が走り、自販機が一瞬軋んだような気がするが、考えないよう努めて人のいない道を抜ければ、そこはもう学校のすぐ前だ。
始業より2分早い到着である。
だいぶ違反じみた登校ではあるが、ひとまず遅刻は回避した。
やはり建物の上を通って正解だったと、青空は胸を撫で下ろす。
もちろん今までの青空の行動は全て、常人にできていいものではないのだが。
旭青空は一般的になろうとしている女子高生である。
〜*〜*〜*〜
「今日はまた随分と遅かったね〜。」
羨ましいほどにサラサラな髪をおしゃれに遊ばせ、まだ肌寒いにも関わらずシャツの袖を爽やかにまくりあげた男が、朝礼が始まる寸前に教室に滑り込んだ青空に声をかける。
「うん。まあ、ギリギリセーフだから。」
青空が気にするなといったように右手を振ると、男は苦笑を浮かべながら目線の高さをあわせるように腰を落とした。
「ちなみにあたしをおいて登校した責任は後でとってもらうから。春がいないせいで乗り過ごしかけた。」
「理不尽だよねぇ。俺があおを待って遅刻したらどうするつもり?」
「あんたみたいな成績優秀者は一回くらい遅刻しとけ。」
青空の一言に件の男はからからと笑う。
その様子にクラスの一部の女子が黄色い悲鳴を上げた。
落ち着いた声色や口調、タレ目がちの優しい目に整った顔立ち、まぁ、モテるのも納得であるが、そんなモテ男は幼馴染の桜木春であり、さらに言うなら十年前から自分に心の底からお熱であると考えると、性格が悪いことだと分かっていても青空は優越感に浸らずにはいられない。
青空とて春のことは憎からず思っているが、その気持ちに応えられないのが心苦しいところだが。
なんて、傲慢なことだ。
「ねぇ、そーいえばさ、」
春の声に青空は向き直る。
「用務員の高橋さん、辞めちゃったんだってね。」
「死ぬほどどうでもいい」
真面目な声色と内容のギャップに肩透かしをくらう。
学校にとっては大事かもしれないが、青空にとって顔もわからない職員一人が辞職したことなんて暇つぶしにもならない話だ。
「えー?でもそんな素振り全然なかったから変だなって」
「あんたのその人脈キショいよ。なんで用務員までカバーしてんの。」
青空のきつめの一言に春は顔をしかめ、無造作にくくられた青空の髪ひっぱる。
「でも本当に変なんだよ。高橋さん今年の体育祭の職員参加種目こそ一位取るって言ってたし、このタイミングで辞めるのは絶対おかしい!奥さんもいるのにさ。」
「事情があったんでしょ、多分。まじであんたやばいよ。」
「ひどいなぁ…、あおのうっすい人脈と同等に考えないで欲しいよね。」
青空は顔をしかめて、青空の席の前にしゃがみ込む春の足を軽く蹴る。
一方の春は不可解そうな表情を変えずに青空の若干色素の薄いセミロングヘアーをみつあみにしだした。
「絶対おかしいもんなぁ…。」
やたらと器用に髪を編み込んでくる春の手を払う青空の耳に、訝しげな声が残った。
この男の厄介なところは、軽率な予想をするがその予想が三割ほど当たっているということだ。
なまじお人好しの性格から悪い想像をすると後先考えずに突っ走ってしまうのも問題で、青空はそのような場面を何度も見てきている。
幼い頃の記憶がじんわりと頭をよぎった。
「やっぱ変だから、俺ちょっと調べたい…かも…な。」
自分でも何をすれば良いのか分かっていないのだろう。
降ってくる声に不安が滲んでいるのがわかる。
自然と青空の口からため息がもれた。
「いいよ、一緒に行ってあげる。」
「え?」
春が驚いたように声を漏らす。瞳孔がキュッと縮まり、青空から見ても驚いたのがよくわかった。
「あんた放っておいたら絶対おかしなことするでしょ。
まず用務員室でやめた理由きいてみる?事務室とかのほうが良いか…?」
「いいの…?これ完全に俺の自己満足だよ…?」
あまりにも情けない声色に青空は吹き出しそうになる。
「いいって言ってんじゃん。いつものことみたいなもんでしょ。」
そう、こうやっていつも自分は巻き込まれていくのだ。
まぁ悪くはないが。
と、青空は笑みをこぼす。
「ほら、いくよ。」
依然不安そうな表情を浮かべている春を尻目に青空は席を立ち、教室を出た。