toxic
午前二時の閉店時間に合わせて店を出たけど、どうにもまだ飲み足りない。バスも電車もとっくになくなって、寂れた駅前にはもう碌な飲み屋が残っていなかった。どうせ明日は仕事ないし続きは莉央の家でやろう、ということになって、道中のお供にとガラスのカップに入ったお酒を一本ずつ買った。競馬場なんかでおじさんが持ってるような、いわゆるワンカップ。あたりめをひと袋買って、二人でしがみながら夜道を歩く。どっちも足元がおぼつかなかったけれど、あたりめとワンカップの方は順調に減っていった。深夜の街の空気は昼よりも澄んでいるようで、少しだけ息がしやすい。
「ねーぇー、今日三百万回目くらいのゴリラ上司の話していーい?」
莉央が若干呂律の回っていない様子で言う。それって分速何ゴリラくらいになるんだろう、と余計なことを考えながら許可を出した。
「いいとも。何ゴリラでもぶちかましたまえ」
「ホント?」
「ホントホント」
「きゃー最高、抱いて!」
万歳でもしそうな莉央の口調に思わず笑ってしまってから、また一口お酒を含んだ。からっとした雑味のない辛口。安物な分、変に味が複雑じゃないのがいい。カクテルなんかとは比べ物にならないアルコールが盛大に喉を灼く。
さっきの「最高、抱いて」なんてフレーズは、どういうわけか莉央が最近気に入っているものだ。今日ももう何度目か分からない。抱いて、なんて、私にはなかなか口にできないものだけど、莉央はいいねでも押すみたいにぽんぽん口に出す。ホントに抱いてやろうかって一瞬思うくらい。私はそれを聞く度に少し照れくさくなる。そしてほんの少しだけ、憎たらしくなる。
「はいっ、それでは聞いてください。長恨歌」
じゃぁーん、とカップ片手にエアギターを決め、そろそろ暗記できそうなくらいに聞いた愚痴を特に長恨歌とは関係なく並べていく。
「ああ~ゴリラ~! あたしの最っ高に大嫌いな上司ぃ。何故かあたしの結婚事情に興味津々~。彼氏いないの、いい人いないの、結婚は若いうちがいいよ、色々言ってくるけど全部大きなお世話じゃあーっ! めんどくさいから~彼氏いることにしてるけど~今度は子供の心配してくる~、そんなことよりお前んちの息子のメンタルの心配してろ~? ゴリラこれでもエリートなんだかっらー、難関国公立志望の息子の重圧如何許りか~! 最近口利いてくれないとか言ってたけどそれ、あそれそれ、気をつけろ~。勉強しろって言ってるんだけどね~、じゃない、それを言うから息子が黙るんじゃい! あんたの言葉が息子をつ、ぶ、す! アットホームな職場だって? それなら願ったり叶ったり、息子への控えめな接し方を学んだら今度あたしらにも使ってくれ~っ、ふぅー! ……じゃかじゃんっ!」
どうやら歌い終わったらしい。余韻を楽しむように目を細めて風を浴びている莉央にひとまず拍手を送ってやる。
「いえーい。せんきゅー、せんきゅー、せんきゅー」
「どんどん洗練されてくじゃん」
「あらー褒め上手。これでゴリラも浮かばれるわ」
「おいおい殺すな」
「あっそっか」
失礼いたしましったー、と大して申し訳なくもなさそうに言った莉央は、煙草か何かでも咥えるようにあたりめの端を噛んだ。少しだけがちゃついた歯並びがちらりと覗き、夜気にぷんとあたりめが香る。自分の吐息も相当いか臭いのだろう。でもそれを嗅ぐ人間はいないし、と内心言い訳をしながらあたりめをもう一本出してもらって、莉央の真似をして口の端に咥える。
途端に莉央が変な顔をした。
「え、何? 何らかの番長的なあれ?」
「なわけあるかい、お前だわ」
「あたし? ……あっ、おお、ホントだあたしか、ぬはは!」
酔っ払いのツボは恐ろしく浅い。ヒールの足元を危なっかしくカクつかせながら、莉央は大声で笑った。どこにそうも笑う要素があったのか見当もつかない、と思った途端、今度はそれが私のツボに入って止まらなくなった。二人してげらげら笑って、ひと段落の後に傾けるワンカップのうまいこと。
「いよっし決めた、あたしなる早で転職する」
鼻息も荒く莉央が宣言した。
「おおっ」
「やめよ、やめ。上司に仕事教えなきゃいけない職場なんか意味分かんなすぎでしょ。あたしはあんなゴリラ園で終わる女じゃないもんね……いや、てか冷静に考えておかしくない? なんであたしがゴリラに仕事教えてんの? だったらあたしが上司じゃん!」
「うーん、ごもっとも」
「だよね? ええーい、だったらあたしを上司にしろーっ!」
勢いよくカップを傾けた莉央は、まあ案の定というか、盛大にお酒を零した。口の端から溢れたお酒は光りながら喉を伝い、お気に入りの桜色のブラウスと、彼氏に貰ったという体でつけているらしいネックレスを瞬く間に濡らしていった。
「わーっ!」
「あーあー何やってんの……ほれこれで拭け」
「ひーかたじけねえ」
受け取ったハンカチを首と胸とに押し当てて水分を吸い取る。服は念入りに拭いたのに、小さな白いストーンをあしらったシンプルなネックレスは適当に撫でただけ。本当に彼氏からもらったんじゃないんだな、と思う。少し気分が軽くなる。莉央は仕上げとばかりにぽんぽんと全体をはたいて、これ預かっとくわ、とそのまま鞄にしまいこんだ。
「愛ちゃん流石に泊まってくっしょ?」
泊まる、という言葉に言外の意味がないのは分かっている。
「……ええー? んでもー、彼氏さんに悪いしー?」
ぶりぶりにぶりっ子して言えば莉央は苦笑した。
「だからいないっちゅーねん。むしろ欲しいわ。なってくれ彼氏に。身長180センチ超えの細マッチョで軽々とあたしをお姫様抱っこしてくれる日本語が堪能なおしゃれリッチセクシー石油王になってくれ」
「なれるか」
「あー、アラビア系の顔なら石油王じゃなくてもいいや。おしゃれリッチセクシーアラビア人になってくれ」
「だからなれるか」
なるって言ったら彼氏にしてくれただろうか、と思いながら一笑に付した。莉央の方も少し笑った程度で、はなから真剣ではないのだろうことは私にだって想像がつく。
「で? 泊まってくんでしょ?」
「うん。少なくとも始発出るまでお邪魔する。帰りようないし」
「じゃあ洗って返すわ。朝までには乾くと思うし」
「まあー、かたじけない」
「気にすんなよ、ゴリラ代だし」
「ゴリラ代!」
あっはっは、と遠慮のない声量で笑ってしまってから慌てて口を覆った。ここが深夜二時過ぎの路上であること、ともすると忘れそうになってしまう。思えばここまでも結構な大声で喋ってきてしまったけれど大丈夫だろうか、とひやひやしているのを、莉央はちらりと見て取るなり、お構いなしに声を上げて笑った。
「んっふ、愛ちゃん真面目なあ! もっと飲まんかいほれほれ」
「もっと飲まんかい、じゃないんだよ酔っ払いめ。深夜だよ深夜、大抵の人類はもうみんな寝てんの」
「んじゃあたしら奇行種ってわけ?」
言うや否や、心底気持ち悪い動きで走り出した莉央があっという間に小さくなっていく。それがまた無性に面白くて堪らなかった。笑いすぎて息が苦しい。ひいひい言いながら、涙も拭いつつ。ふらふら歩いて追いかける私を、莉央は電柱に寄りかかって待っていた。自分でも左右に揺れながら、食べかけのあたりめをもしゃもしゃと口に突っ込んで。
「ホント、最高」
「でっしょー? 早く昇進させて、そしたらゴリラ軍団率いてこの世の全てをぶち壊してやるんだから」
腰に手を当てて胸を張った莉央はサラシとでっかい旗が似合いそうだった。ちん、と意味もなくカップをぶつけ合い、その意味のなさにまた笑い出しながら歩き始めた。けど。
歩き出して数歩のところでふと、莉央が不思議そうな顔をして空を見上げた。
「お」
「……何、どした」
「いや、おでこに雨当たった……かも?」
「えっ」
嘘でしょ、と言って見上げた私の生え際にも、真っ暗な空から冷たい雫が落ちてきて弾けた。
「おわっホントだ」
「愛ちゃん傘入れてくんない?」
「なんで持ってる前提なんだよ、ないない、マジでなんっもない」
「嘘でしょ!? あ、とっ、とにかく財布だけ守らせてっ」
「あっ待って私のも入れて――っやば、降ってきた!」
財布を渡してお酒預かって。莉央がコンビニで貰った袋にどうにかふたつの財布を押し込んだところで、もう普通に降っていると言っていい強さになった。自然と足早になったけどそんなものでは通じなくて、雨宿りできそうなところ、と思った頃には既に大粒になっている。ひとまとまりの、切れ目のない雨音。髪の隙間に染みた雨は頭皮に触れてくるし、パンプスの足元はあっという間にびしょびしょになって、せめて鞄だけはと思いながらも両手のカップ酒が死ぬほど邪魔だった。
「ひゃー!? 聞いてないよこんなの! こんなん言ってたっけ!」
「言ってない言ってない!」
「くっそーこのゴリラ豪雨!」
今日の莉央、腹の立つものは取り敢えずゴリラになるらしい、と妙に冷静にそれだけを思った。ゲリラ豪雨な、という台詞は音声化される前に掻き消される。
「愛ちゃんお酒こぼすなよ!」
どんどん強まる雨音の中で莉央が怒鳴った。
「零すかい! 命の水だぞ!」
とは言っても、街灯の少ない夜道は暗いし手にも雨はかかるし、実際溢れているのかどうかもよくは分からなかった。もう知らん、と覚悟を決めて、ヒールが許す限りの速度で走って行く。目も開けにくいような中で、メイクがじゃんじゃん流れ落ちていくのを感じるような気がした。水たまりは深さを増し、パンプスの中にも水が入り込む。スカートはあっという間に重くなって、背中を伝った水がスカートを超えて下着まで重く湿していった。
「最っ悪!」
「あーん、もー! おしり寒いー!」
「こらっレディが大声でそんなこと言わないのっ」
「ひーん」
莉央の家まではあと十分近くかかる。高校に沿って左へ曲がると長い上り坂があって、その頂上を少し過ぎたところにあるのが莉央のアパートだ。いつもなら、角を曲がってすぐにレンガ色の最上階が見えるところだけど、今日は街灯の光以外ほとんど何も見えなかった。最早雨というよりシャワーだ。春物の薄い服はひたすら肌にまとわりつき、多分見事に透けている。見る人のいない深夜だったのが救いかもしれない。その代わりにというか、雨宿りできそうな場所もこの辺りには全くないけど。
全身を打つ雨粒。烟る視界。気を抜くと莉央の方へ視線が横滑りする。ブラウスが張り付いた莉央のシルエットはきっと体のラインを夜に浮かび上がらせているのだろう。直視するわけにもいかない。
まあ仮に見たところで、莉央は気にもとめないんだろう。
「もーっなんなのこの雨! さむーい! なんで今降るのー!」
寒い、なんで、寒い、と台詞がループし始めた莉央を隣に、私は手の中のワンカップに目をやった。街灯に近付くと微かに水面が見えてくる。でも、乱暴に運んできたはずのそれは、何故か増えている気がする。増えるわけがないだろ目の錯覚か、と暫く目を凝らして漸く、どうやら雨水が思い切り入り込んだらしいということに思い至った。確かに蓋はしなかったけどここまで増えるか、と感心している間にもカップの中の水面は揺れる。大きな波紋が右にも左にも、絶え間なく現れては消え。薄まりきったお酒は最後に見た時の倍くらいの量になっていて、ということはつまり、倍の薄さになっているってことだ。
さぞまずかろう。
そんな推測がやっぱり、意味もなく笑いのツボにはまる。
「ぷっ、あっはっは! 莉央! 莉央っ!」
「あ゛んだあ?」
余程余裕がなかったのかひどい声を出した莉央に、ほら、とカップを片方差し出した。
「ワンカップ辛口、夜の雨割り!」
「――んあっはっはっはっは! ひっ、ひでー!」
大雨の落ちてくる漆黒の夜空を見上げ、莉央はこれでもかと口を開けて笑った。今地道に登ってきた坂を転げ落ちていきそうなほどに背を反らして。思わず立ち止まった莉央を急かす気にはもうならなかった。とっくの昔に下着までぐしゃぐしゃだ。雨に降られている状況もそうして諦めてしまえば、一周回って面白くなってくる。お酒はこんなだし、私も莉央も骨の髄まで酔っ払って、何もかもおかしくなってしまっているのだから。
道の真ん中に突っ立って、髪も顔も服もどうしようもなくなったまま、色んなことを遠くに置き去りにして私たちは笑った。夜の闇の中に哄笑する莉央は、とびきり馬鹿で、変で、最高に可愛くて愛おしかった。
「よっし、飲も!」
ひったくるようにカップを取った莉央は、私のカップに勢いよくその縁をぶつけた。派手に溢れたお酒が私の肘にまでかかる。滴るどころではない量の水分が、雨に混じってあっという間に境目を失くした。このやろう、と私からもカップをぶつけがてら派手に中身を引っ掛けて、残りをぐっと流し込む。
なんてことはない。気の抜けた、どこまでもうすーいアルコールだ。
「いざっ」
莉央は、まるで海賊か何かのようだった。口の端から滝のようにお酒を零しながらぐいぐいと飲み干していく。雨に濡れ、空を仰いで目を閉じた莉央の絵になり具合は、本当にいくら眺めていても飽きないようだった。このままずっと眺めていられないだろうかと思う。でもそれ以上に、莉央が今全身に浴び、或いは飲み干していく夜の雨が、何か致死性のものであればいいのにと思った。ほんの少し。だけど確かに。
一瞬間だけ視界も聴覚も奪うように強まった豪雨が、私と莉央の間に柵のような帳を下ろした。
あーあ。
溺れてしまえばいいのに。
「っ、ぷはーっ! まずいっ、もう一杯!」
天にグラスを突き上げた莉央の仁王立ち。たった今空になったばかりのカップにどんどん雨水が溜まっていく。あっという間に一センチほどにもなったそれを一息に呷って、ビールのコマーシャルか何かのように爽やかな歓声を上げた。
「かぁーっ!」
「うまい?」
「いや! 常温の水だね! ――でも、嫌いじゃないな?」
ふん、と不敵な笑みを浮かべた莉央に思わず苦笑しながら、今なら言ってもいいかなと空っぽになったカップを掲げた。雨の方はさっきほどじゃなくなったものの、今度は風が出てきて寒さが増し始める。ちん、と無意味にぶつけたカップの向こう、ぴったりと服を張り付かせた莉央の体からそっと目を逸らした。
「……最高」
抱いて。
「――わははっ!」
莉央は、大きな口を開けて笑っただけだった。