第四十話 『カタストロフィ』 3. クロース・トゥ・ユー
校庭で親しげに会話を交わす光輔と楓を、礼也は表情もなく眺めていた。
「ごめん、長くなっちゃって」
光輔との会話を終え、屈託のない笑顔で礼也のもとへと駆け寄る楓。
「穂村君が、古閑さんの家でクリスマス会やるから、弟達と一緒に来ないかって言ってくれたの。迷惑になるといけないから断ったけれど」どこか様子のおかしい礼也に気づく。「どうしたの、礼也君」
「……なんも」
「……。あ、礼也君も一穂ちゃんと一緒に行くんだよね。私は弟達と家でおとなしくしてようかな」
「いきゃいいだろ」
「でも……」
何かを言いかけて楓が口をつぐむ。
礼也が何を考えているのかわからなかった。
わかっているつもりだったのに、時々ふと不安になることがある。自分が理解していた礼也はほんの指先だけの存在で、薄皮をめくった向こう側には見たこともない人間がいるのかもしれないと。
それを楓は、距離が開いたのではなく、近づきすぎたために知りえたものだと感じていた。
自分自身がそうであるように、触れてほしくない部分は誰しも必ずある。
そしてそれは、無理に知る必要がないパンドラの箱でもあるはずだと、楓は理解していた。
何もかもすべてをさらけ出さなければいけないわけではないからだ。
セパルの事案から二ヶ月近くが経っていた。
礼也達にとっては今も臨戦態勢のただ中なのかもしれないが、その場所にいない者からすれば平穏な日々であることにかわりない。
たとえそれがつかの間のものであったとしても、否、つかの間であるからこそ喜ぶべきことであるはずなのだ。
晴天の空を見上げ、自然と楓の顔が笑みであふれる。
「なんだか平和だね。ずっと続くといいのに」
その何気ない一言が礼也にとってのパンドラの箱だと、後で思い知った。
「そんなもん、どこにあんだ」
「え……」
「平和なんてどこにあった。くだらないいじめや差別や嫌がらせを受けたり、縄張りの取り合いに巻き込まれて居場所がなくなる奴らにしたら、今も昔も何の違いもねえだろ。俺にとっちゃ、プログラムだらけの今のほうがよっぽど平和だ。こんな世界なら嫌われ者にでも居場所がある。力があれば認められる。俺みたいな人種には、この世界の方が居心地いい」
「気にしすぎだよ。そういうこともあるかもしれないけれど、全部が全部じゃない」
不用意な楓の言葉が、さらに礼也を刺激する。
「そういうおまえはどうなんだ。必要とされたいってことは、必要とされない人間に優越感を持ちたいからだろ。そいつらを蹴落として選ばれたいってことじゃないのか」
言わなければいいことは重々承知していた。それでも楓は、礼也のその部分だけは確かめておかなければならなかった。
「そうじゃない。誰だって一人では生きていけないから、お互いを必要とすればいいだけでしょ」
「利用し合うためにか」
「……。どうしてそんなふうになっちゃうの。そんな考えおかしいよ」
「そんなのわかってただろ、最初から。知ってたくせに、黙ってたんだろ。その方が、都合いいから」
黙りこむ楓。
その真意に気づき、礼也は己を戒めるように続けていった。
「善意は罪だ。世の中が悪意だけなら、誰も迷わないのに。善意があるから騙される」
「だったら善意だけになればいい。悪意をなくしていけばいいだけでしょ」
「悪意はなくならない。俺達が人間である限りは」
「そんな考えの人ばかりだから、争いがなくならないのかもしれない」
「!」目を見開き、硬直する礼也。「わかってんだろ、そんなの……」
「……」
楓は何も言わずに礼也の淋しそうな横顔を見つめていた。
ただそれが本質でないことを祈りながら。
「何ポケッとしてんだ、おまえ」
学校帰りのいきつけのラーメン屋で茂樹から指摘され、光輔がはっと我に返る。
「ん、ああ……」
忘れていた記憶を取り戻したように、ズハッズハッと過呼吸気味に麺をすすりこむ光輔を、茂樹がいぶかしげに眺める。
「おまえさ、古閑さんにほんとになんにも感じないの?」
「なんにもって」
「女としてだよ」
「感じない」
「なんでよ」
「なんでよって。おまえさ、自分の姉ちゃんとつき合いたいと思うか」
「なんであんな生きモンと!」
「それと同じだよ。あいつに対してはそういう感情しかないの。もともと家族みたいな感じだから一緒にいても全然ドキドキとかしないし、そういうこと考えるのもなんか変な感じなんだって」
「そんなこと思ってるの、おまえだけじゃないのか」
「そんなことないって。あいつも雅もそうだから。だから平気で思ったことずけずけ言ったりできるんだよ。あいつ絶対、俺のこと弟みたいに思ってるけどな。俺の方が早く生まれたのに。しぃちゃんは完全にそうだな。いまだに近所のちっちゃい子みたいに話してくるから」
「……。おまえ、いいな~」
「何が」
やにわに発した茂樹の呟きに反応する光輔。
「何がだと」
すると茂樹は意味ありげに、ハアア~、と大きくため息をつき、いかにもうらやましげな様子でつないだ。
「古閑さんに下の名前で呼ばれててさ。何か特別扱いって感じじゃん」
「何を言い出すのかと思えば……」やれやれの光輔。「俺の場合、それが普通になってるからよくわかんないよ」
「それがどんだけ特別なことなのか、おまえはわかってんのか!」
「は?」
「失ってから気づくんだよ。なんでもないよーなことが、しあわせだったと思うんだよ。くぱぁ、とかラッキーなこととか、二度とは戻らないんだよ。それじゃ遅いんだよ」
「何それ」
「トゥラブリュ~だよ! ちょっとエッチなギャルゲだよ!」
「エロゲーじゃん……」
「それの十五禁バージョンだよ! これがムズくて、もう! なかなかしげきちゃんって呼んでくれねーし!」
「だから、わかんないけどさ」ちゅるっと麺を吸い込む。「んじゃさ、夕季に言っといてやろうか。これからは、茂樹ちゃんって呼ぶようにさ。呼び捨てでもいいか」
「おまえってさ!」
ぐぐっと顔を近づけた。
「おお!」
「そんなことしたら幸せすぎて俺がトロけちゃうじゃねえか!」
「おまえってさ……。あ、別に君づけならそんなハードル高くないかもな」
「なんでだよ、そこは呼び捨てだろ!」
「溶けてなくなれよ……」
「あ~あ、俺も夕季って呼んでみたい……」うるんうるんとラーメン店の天井を見上げる。「おっちゃん、餃子追加!」
「あ、俺も」ズハッズハッと残りの麺をすすり込み、スープを一気に飲み干す光輔。「呼べば」
その流れがあまりにも平坦だったため、もともと理解力に難ある茂樹の思考回路が、瞬時に現実対応できなかった。
何かの叫び絵のような表情にかわり、すぐさま自分のことは棚上げして協力プレイの失策をネチネチと責め立てる嫌われ者のゲーマー顔に変貌した。
「ムリムリムリムリ!」
「じゃ、ゆうちゃんは? 篠原がいる時とかにさらっとさ」
「それもムリムリムリ!」
「だいじょぶだろ。あ、じゃあさ、また今度どっかに一緒に行こうぜ」
にんまりとエテ顔になる茂樹。ハキハキと叫んだ。
「おっちゃん、学生ラーメンおかわり!」
「なんでニヤニヤしてんの……」ポンと思い出す。「そういや昨日、あいつと篠原とカラオケいってさ。あいつけっこう歌うまい……」
「頼むから俺も呼べよ!」
礼也が深く息を吐き出す。
思い返す憂いは、ほんの数日前の出来事だった。
*
雅の運転する軽乗用車の助手席に座り、夜空を眺めながら礼也が一息つく。
後部座席に目をやれば、一穂が横になって眠っているのが見えた。
「疲れちゃったのかな」
雅の声に礼也の心が反応する。
ガチガチに固まりながらハンドルにしがみつく、決死の形相の雅の姿にため息をもらした。
「よく寝てられるって。こっちゃ心配で目も離せないってのによ」
「ひど~い」ぷっぷくぷうとほっぺたをふくらませ、瞬きもできない横目をわずかに向ける雅。「でもかなりうまくなったでしょ。しぃちゃんにも褒められたんだよ。もう、ちょーよゆー……」
「おい、前! 前!」
「え? え? え?」
「ちゃんと前見てろって! 猫いんだろ、ネコ!」
「え!」
「ほら、ぶつかんぞ! ブレーキ、ブレーキ!」
「うるさいな、もう!」
「素で切れやがったな……」
「も~!」
「おい!」
「あぶない、ふせて!」極めて安全でソフトなブレーキング。「……。何、今の。なんでこんなとこにウシがいるの」
「だからネコだって。あんなちっこいウシ、見たことねえだろ。模様は似てたけどな」
「も~! って言ってなかった」
「おまえがな」
「ウシネコかな。これだから田舎はあなどれないね」
「ちびりそうな顔で何トンマこいてやがる」
「確かにちびったけど」
「ちびったのか!」
「知らないうちにスピード出すぎてたよ。もうちょっとで轢くとこだった。あぶないあぶない」
「こんなまっすぐで、二十キロしか出てなかっただろ。おせーからアクビしながらよゆーで逃げてったけどな」
緊急停止にもまるで動じず、安らかに眠り続ける一穂をちらと見やる。
「ずぶてえな、こいつ……。びびりのくせして」
「やっぱりまだこわいな。特に夜は」
「そのうちなれんだろ。だんだんマシになってきたって。たぶん」
「一人だと不安だから、なれるまで礼也君、横に乗ってよ」
「……いいけどよ」
「卒業したら、すぐに免許取るんでしょ。そしたらこの車、運転させてあげるから」
「その前に廃車になってなきゃいいが」
「どーゆう意味だいな、ちみぃ……」
メガルのゲートをくぐり、自分の駐車場に納車する。
それから雅は、雲一つない空に浮かび上がる月を見上げて笑った。
「綺麗だね」
揺すっても一向に起きそうにない一穂から手を遠ざけ、雅の呟きに礼也が振り返る。
すると雅は車から降り、駐車場の奥の方へと歩き出した。
もう一度一穂の様子を確認してから、礼也が車外に出る。
雅は金網越しに見える海の彼方へと目線を向けていた。
風もなく波も静かな海面は、もう一つの月を見事にトレースしていた。
「こっちの月も綺麗だね」
「ああ」
「どれだけ似てても、こっちの月はにせものだけどね。まったく同じように見えるけど、本物じゃない。まるで何かみたい」
「!」
はっとなり振り返った礼也の目に映ったのは、生気を失い今にも消えてしまいそうな雅の姿だった。
やがてそれが月光による影のいたずらだと気づき、ほっと胸をなでおろす。
それを見て、雅がおもしろそうに笑った。
「どうしたの。びっくりした顔して」
「いや……」うまく言葉にならなかった。
雅が口もとのほころびを正す。
「このままあたしがいなくなっちゃうと思った?」
「!」
「やっぱり礼也君は鋭いね。ごまかせないな。実はね……」
礼也が奥歯を噛みしめる。
「ふざけんな、てめえ! そういうのは冗談でもやってらんねえぞ」
「あ、マジ切れ。ごめん、ごめん」
申しわけなさそうに雅が繕い笑いを始めた。
それでも礼也の感情はおさまらない。それは決して怒りだけのものではなかった。
「てめえだってそうだろうが。ほんの今さっき冗談言ってた人間がよ……」
「……」
「いや、わりい。今のなしな」
「こっちも駄目駄目だった。ついからかってみたくなっちゃって」
「ったくよ……」心の底から安堵し、自嘲気味に笑った。「いじわる雅か。かわんねえな、ちっとも」
「あははは」雅も嬉しそうに笑い返した。「礼也君は優しいね」
「な!」
「ふふん」
「ほんっと、おまえはよお!」
そこへ寝ぼけまなこの一穂の乱入。
「ねえ何やってんの」
「のおっ!」
収拾不可能となり、一人とっちらかる礼也を、雅は面白そうに笑いながら眺めていた。
*
礼也が拳を握り締める。
それは自身の力のなさを責める憤りのようでもあった。
世界が激震に揺れた。
ほぼ同時のタイミングで、中国とロシア、そしてインドでクーデターが起きたのだ。
時を同じくして、世界中で大規模なテロが立て続けに起こり、世界情勢は混乱を極める。
今、世界が大きく動き出そうとしていた。