第四十話 『カタストロフィ』 2. わかりやすいオチ
それは夕季にとって初の試みだった。
想定外のカラオケボックスデビューを前に、あふれ出まくる緊張の色を隠せない。
予定どおりの一時間を所望したものの、ノリノリかつ強引な二人の主張によって二時間チャージとなったことも、戦況を著しく悪化させていた。
口もとまでカチコチの夕季を、にんまりと光輔が見つめる。
「わかってるだろうけど、三人で割り勘だからな」
「それはわかってる」
重々しく頷く夕季。
「でもあたしは……」
「二時間だから、一人頭、四十五分。これはノルマだ」
「……」
明らかな光輔の計算ミスだったが、自分のノルマが減るのならそれでもいいと、その時の夕季は思ったのだった。
そんな心情を汲み取るはずもなく、日ごろの恨みとばかり、いじわる光輔がさらなる勝ち誇った表情を差し向ける。
「いや~、なんでもできちゃうゆうちゃんに限って、いわゆる一つの、ぼえ~系ってことはないよなあ。なんだかわざとヘタそうなフラグかもしだしてるけど、まさか俺をあざむこうって戦法とかか?」
その顔が非常にムカついたため、夕季はずっと光輔を睨みつけていた。
ただ負けたくないと思った。
「ぼえ~! ぼえ~!」
その衝撃に、夕季はただ目を見開くことしかできなかった。
まばたきもできずに光輔の顔を見続ける。
「ぼっえええ~っ!……」
「ねえ、ゆうちゃん、何歌う? やっぱりアニソン?」
わかりやすいオチにかまうそぶりすら見せず、みずきは片手にリモコン、片手に曲目リストをかまえ、夕季にぐいぐいとせまってきた。
どうやら光輔のぼえ~系は、みなの知るところだったようだ。
「あ、エルバラあったよ。歌える? 歌う? ねえ、思わず歌っちゃう?」
「あ、あの……」
「おぅおぅれぃれぃわ! ぼぅえええ~!」
「入れちゃったけど!」
二時間後、カラオケボックスの出口には、精根つきはてた夕季と、その横顔を熱く見つめるみずきの姿があった。
一人意気消沈する、負け犬光輔の姿も。
「すご~い、ゆうちゃん、まいう~」
両手を取ってくるくると回り出すみずきに、光輔の方をちらちらと意識しつつ、夕季がバツが悪そうな顔を向ける。
「そんなことないよ」
「そんなことないことないって。英語の歌とか、歌詞見なくても歌えちゃうなんて、すごすぎ!」
「カーペンターズ、好きだから」
「三曲目に歌ったのって、何? あれもカーペンターなの」
「……ユーニン」
「そ~なんだあ。ヘビメタかと思った」
「……」
「エルバラのうた、燃えたね」
「……」キッと口もとを結ぶ。「すごく燃えた。……恥ずかしい」
「恥ずかしくないよ、別に。あたしも一緒に歌ってて、上がりまくってたもの。なんかさ、最初のてぃりりりてぃりりりり~り~り~のとこからヤバイよね」
「う、うん……」
「てぃりりりてぃりりりてぃりりりり~り~り~り~だったかな。あれ? またこようね、三人で」
「……うん」
みずきの熱気に押され、夕季が少しだけ口もとをほころばせた。
「ふふ……」
その一瞬で蘇る、負け犬光輔。
「あれ? 今笑った?」
口もとをひきしめ、夕季がムッとなった顔を向ける。
「笑ってない」
だが完全復活した光輔がそれを許すはずがなかった。
「嘘だ。今、うふふふ、って言っただろ」
「言ってない!」
「なあ、篠原、言ったよな? うふふふ、って」
引かない光輔がみずきに同意を求める。
「う~ん……」
「言ったよ、うふふふふって。ええー! うふふふーっ! おまえがー!」
今さらびっくりする光輔に、夕季が完全に不機嫌になる。
「言ってないってば! ぶっとばされたいの!」
「いや、ぶっとばすって……」
ぷいと顔をそむけた夕季に、ようやく光輔がやりすぎを自覚した。
「でも、言ったよね?」もう一度だけ、みずきに同意を求めてみた。「ね?」
みずきと夕季が困った顔で見つめ合った。
「言ったと思うけど、ゆうちゃんが不憫で言えない」
「……」
みずきと別れた後で、帰り道を同じくする二人の間に微妙な空気が流れる。
光輔を気遣うように、夕季がちらちらと様子をうかがっていたからだった。
それに気づく光輔。
「なんだよ」
「別に」
そのリアクションに、わずかに存在するつもりの光輔のプライドが傷つく。
「言えばいいだろ。はっきりとさ。俺がへたっぴだってさ」
途端に夕季が顔色を失う。
「そういうつもりじゃないけど。……でも意外と。もっと上手だと思ってたから……」
「どうせ俺はへたっぴだよ! ぼえ~系で悪かったな!」ぷんすかとそっぽを向く。「もうおまえとはいかない」
すると夕季が、むぐ、と顎を引いた。
「……。ごめん」
思いのほか申し訳なさそうなその様子に、ちら見した光輔がしまったというまなざしを泳がせる。
「……。俺はアニソンよりもバラードの方が得意なんだよ。今度、隆雄とのハモり聴かせてやるから、ビビるなよ」
「……」
その夜、いつもと違う雰囲気に、忍が顔を向ける。
それが夕季の鼻歌であることに気づき、にんまりと笑顔をリリースした。
「なんだか嬉しそうだね」
はっと我に返る夕季。
「そんなこと……」
やや申しわけなさそうに眉を寄せた忍だったが、まあいいか、という顔になる。
「またスキーに行きたいね。でも無理かな。今、みんなすごく忙しそうだから」
「あたし、頼んでみる」
「いいよ、無理にお願いしなくても。これで最後ってわけでもないし」
複雑そうな表情で、夕季が忍を見つめる。
それに気づくことなく、忍は楽しそうに続けるのだった。
「あ、だったら二人でいこっか。光ちゃんやみやちゃんも誘ってもいいけど、あたしの車だと四人プラス荷物はきついかな」
夕飯の片づけを手伝いながら、夕季が脈絡もなくそれを口にした。
「お姉ちゃん」
「ん」
「カラオケとか、いく?」
「うん、まあ……。いく?」
「……。二人で」
「はあっ!」
「……」
言葉もなく見つめ合う二人。
「あたし達二人で?」
「……うん」
「なんでまた唐突に」
追いつめられた夕季が、もう少しだけ続けてみる。
「たまにはいいかもって思って」
するとふいに忍の態度が軟化した。
「ふううん。たまにはいいかもね。好きな歌を気がねなく歌えるし。よそさまと一緒だと、どうしても踏み切れないのがあるんだよね。……光ちゃんやみやちゃんがいると、めちゃくちゃになりそう」
「光輔なら大丈夫」
「ん?」
「ほっといても、一人で勝手に歌ってるし。たぶん」
「どうしたの、急に」
「どうもしない。変?」
「うん。ごめん。でも、なんか、らしくないような」
「……そうかな」
「そんなにってわけでもないけどね」
ふいにニヤつきだした忍に、夕季が少しだけ上目遣いになる。
「どうしたの、にやにやして」
「うん。なんだか最近楽しそうだなって思って」
「……。あたしが」
「うん」
「……」
「あれ、否定しないね」
「……ん」
「よかったかもね」
「何が」
「やっと普通っぽくなったかもって思ったの」
「……」少しだけ悲しそうに夕季が眉を寄せた。「お姉ちゃんは普通じゃない」
「ああっ!」
「ふあ~あ! 今年はクリスマス大会もなしか……」
大あくびをしながら、桔平が吐き捨てた。
「やりますよ」書類の整理をしていた忍が振り返り、笑う。「前に、みやちゃんがやりたいって言ってたから。夕季と光ちゃんは友達と予定があるみたいだから、たぶん夕方頃になっちゃいますけど。まあ集まった人から適当に」
目尻に涙をちょちょぎらせながら、桔平が情けない顔を向ける。
「あいつらだって、本当は友達と遊んでる方が楽しいに決まってるわな。引っ込み思案の夕季ですら、友達のありがたみがわかってきたくらいだしな。ま、トシこいた俺らが高校生達と一緒にクリスマスってのも変な話だが」
「そう、ですね……」
「当然おまえもトシこいた方に含めてあるからな。わかってるとは思うが」
「少しくらい私にすまなかったとか、かわいそうだなって思ったことあります?」
「ねえな」
「ふんとにもう! やっぱりやめちゃおうかな」
「え、なんで? 何が駄目だった? わからん」
「しいて言えば、全部ですね」
「全部はせつないから、一つか二つにして……」
ふいに不可解な様子で後頭部をかき、桔平が咀嚼できない思いを忍に向ける。
「なあ、しの坊」
「はい?」
「最近、みっちゃん、なんかおかしくねえか」
「……」
「いや、おかしいのは前からなんだがよ、おかしさが違うっていうか、変っていうか」
「桔平さんも気づいてましたか」
「おまえもか」
それに忍が頷く。
「なんだか元気ないですよね。無理して笑ってはいますけど」
「そうなんだよな。時々、やけに静かっていうか、おとなしいっていうか、まるで別人みたいに見える時がある」
「けっこうひんぱんに遊びにきてたのに、最近は呼ばないとこなくなったような気もします」
「俺の方もさっぱりだ。車に乗れるようになったから、一人でどっかにいき出したのかって思ってたんだがな」
「友達とじゃないですか。みやちゃん、友達多いですから。ひょっとしたら彼氏ができたのかも。悪い人にひっかかってないといいですけど」
「そりゃ、だいじょぶだろ。なんせ、この俺を手玉にとるような小悪魔だからな」
「それもそうですね……」
苦笑いの忍を、桔平がまじまじと見つめた。
「おまえ、なんか疲れてないか」
「そんなことないですよ」
「ちゃんと寝てんのか」
「寝てますよ。どうしてですか」
「いや、なんとなく」
桔平が自分でも理解しがたいと言わんばかりに、そっぽを向く。
不思議そうに首を傾げて桔平に注目する忍。何にせよ自分のことを気にかけてくれていることを嬉しく思った忍が、笑いながら桔平に言った。
「桔平さんは一日何時間くらい睡眠とってます?」
ん、と顔を向ける桔平。
「四、五時間かな。おまえは」
「私もそれくらいです」
「少なくねえか。俺の場合は会議中とかの居眠りで帳尻合わせしてるからいいけどよ」
「それくらいが一番身体の調子がいいんですよ」
「家のこともやってんだろ。しっかり寝とかないと、倒れちまうぞ」
「そうなんですけど、たまった録画番組とか観てると、すぐ十二時過ぎちゃうんですよね。いつの間にやら寝オチってパターンが多いです」
「あ、そういう理由か……」
「大丈夫ですよ。まだ若いですから」
「いや、若くねえから心配してんだけどな」
「どういう意味すか!」
「寝不足は美容の天敵だぜ。あ、美容とか関係ねえか、もう」
「はあ!」
「ほら、すぐ怒るのも寝不足のせいだぜ」
「……ハラ立つ」
「ちゃんとしじみエキスとか飲んでる?」
「く……」
まともに相手にするだけ無駄だと、すううっとクールダウンし、忍が仕切り直す。
「三田さんなんて、一日、二、三時間しか寝ないみたいですよ。もっと寝ないと駄目ですよって言ったんですけど、それで充分だからって。疲れもなくて、いつも寝覚めがいいって言うし。小田切さんは最低八時間は睡眠をとるって聞きましたけど」
桔平がムスッと顔をゆがめる。
「あのうぜえテンションは、たっぷり寝てやがるからだな」
「関係ないと思いますが……」そう言えばと忍が思い返す。「夢をたくさん見た時って、妙に疲れが残ってませんか」
「どうだろな。あんまり夢は見ないからな」
「三田さんも同じことを言ってました。ちゃんと熟睡できているってことでしょうかね」
「ただ忘れてるだけかもしんねえが」
「かもしれないですね。私も寝覚めはいい方なので、大抵すっきりと起きられるんですが、変な夢を見た時って、何時間寝た後も疲れているような気がします。眠りが浅いと言うより、夢を見ることで脳を酷使しているからかもしれませんね」
「おまえは心配性だからな」
「それも関係ないと思いますけど……」何かを取り出しながらのように忍が続けた。「最近変な夢をよく見ますから、なんとなくそんな感じがして」
「変な夢って、どんな」
何気なくたずねる桔平に、困惑したような表情を差し向ける忍。
「たぶん笑われちゃうようなことかもしれないんですけれど、自分でもどうしてそんな夢ばかり見るのかよくわからなくて。本当に馬鹿馬鹿しい夢なんですけど……」
「だから、どんな夢なんだ」
「……人が死ぬ夢です」
「……。知ってる奴か」
「はい……」
「誰だ」
「……」ぐっと顎を引いた。「……夕季です」