人形姫(にんぎょひめ)
むかしむかし、青く澄んだ海の底に、人魚の国がありました。鮮やかなサンゴと、色とりどりの貝がらでつくられたお城には、人魚の王様とお后様が住んでいました。王様には、六人の美しい娘がいました。魚のしっぽに、長く美しい髪を持つ娘たちは、綺麗な魚たちに囲まれて、毎日を、とても楽しく過ごしていました。
娘たちは、十五歳になると、海の上へ行くことが許され、次々に海の上へと出かけて行っては、妹たちにその様子を話して聞かせました。末の娘の人魚姫は、姉たちの話を聞きながら、早く海の上へ行きたい、と楽しみにしていました。
時が過ぎ、人魚姫は十五歳になりました。
「決して人間に姿を見られてはいけないよ」
年老いた人魚の忠告を受けて、人魚姫は遥か上に見える海面に向けて泳いでいきました。
――なんて綺麗なの……!
海面に顔を出した人魚姫は、目に映る光景に、息を呑みました。陽は暮れ、人魚姫が見上げた夜空には、満天の星空が広がっていました。ずっと海の底で暮らしてきた人魚姫は、星を見たことがありませんでした。
「海の上にはこんなに素晴らしい世界があったのね!」
人魚姫は、様々な物を見て廻りました。そうしているうちに、大きな船を見付けました。船上では、パーティーが開かれていました。
「大きな船……」
自分が住んでいるお城より遥かに大きい船を、人魚姫はよく観察しました。
――あ……
人魚姫が見上げる先には、グラスを手に持った王子様がいました。今日は、王子様の誕生パーティーだったのです。
人魚姫は、王子様を見たまま、動けなくなりました。そして、自分もパーティーに参加したいと思いました。しかし、人間に姿を見られてはいけない上に、人魚だと判れば、きっと気味悪がられます。人魚姫は、何だかとても悲しい気持ちになりました。
人魚姫が海の上から王子様を眺めているうちに、辺りは暗雲が立ち込め、強い風が吹いてきました。嵐がやってきたのです。
荒い波にさらわれそうになっていた人魚姫は、慌てふためく船上から、誰かが海へ落ちたのを見ました。人魚姫には、それが先程の王子様だと分かりました。
――助けなきゃ……!
人魚姫は、気を失った王子様を見付けると、砂浜まで必死に連れて行きました。
「大丈夫かしら……」
浜辺に横たわっている王子様は、息はしているものの、目を覚ます気配がありません。
そのうち、夜が明けてきました。しかし、王子様は眠ったままです。その時。
―――ゴーン、ゴーン
朝焼けに染まる空に、鐘の音が響き渡りました。そして、近くの修道院から誰かが出てきます。
「……どなたかいらっしゃるの?」
その声を聞いた人魚姫は、慌てて岩場に隠れました。こっそりとうかがうと、修道服を着た綺麗な娘が、王子様を助け起こしていました。
――よかった……
目を覚ました王子様に安堵した人魚姫でしたが、波音の狭間に聞こえてきた二人の会話から、どうやら王子様が娘を命の恩人と思っていることが分かると、なぜだかとても悲しくなりました。
「……」
修道院へと去っていく二人の姿を見送ると、人魚姫は逃げるように海の中へ去っていきました。
◇ ◇ ◇
お城へ戻った人魚姫は、ろくに物も食べずに、毎日暗く沈んでいました。王様やお后様が心配しましたが、人魚姫は何も話しません。姉たちが話しかけても同じでした。
“西の洞窟には、願いを叶えてくれる恐ろしい魔女がいる”
この噂を耳にした人魚姫は、すぐ魔女に会いに向かいました。
「私を人間にしてください!」
いきなりやってきてそう言い放った人魚姫を、魔女は冷ややかな眼で見ました。
「……人間なんかになって、お前はどうするつもりじゃ?」
低い声で、魔女は言いました。
「王子様に逢いたいのです!」
人魚姫は、怯むことなく言いました。
「……ワシがどんな条件を出してもか?」
魔女の質問に、人魚姫は答えます。
「はい、私に出来ることなら、何でもします!」
しばらくの間、魔女は鋭い眼差しで、人魚姫を見ていました。
「……人魚には魂がない。人間は魂があるために、数十年しか生きられないが、人魚は無い代わりに何百年も生きられる」
坦々とした声で、唐突に、魔女は口を開きました。
「……空ろな人魚が人間になるためには、魂を手に入れなくてはならん。神が与えた魂が、そう簡単に得られると思うかい?」
「……」
魔女の質問に、人魚姫は答えられませんでした。気にする様子もなく、魔女は続けます。
「魔女であるワシにも、魂はつくれん。出来るのは、お前を一時のみ人間の姿に変えることだけじゃ。魂は、お前自身が手に入れろ。本来は誰かを殺すことが望ましいが、そうじゃな、その王子の心を奪えば、魂の半分は手に入るじゃろうよ」
それを聞くと、人魚姫はすぐに答えました。
「それで構いません。私を人間の姿にして下さい」
少し安心した様子の人魚姫に、魔女は再び冷笑し、人魚姫の顔を片手で掴みあげながら、低く言いました。
「……全く、人魚は愚かじゃのう。人間になって、何の得がある?」
「……」
人魚姫は、何も言えません。
「ワシを良い魔女だと思うたか? ……悪いが、ワシは無償では協力せんよ。代わりに、お前のその美しい声をいただくからな。もし、王子が他の娘と結婚したら、お前は海の泡となる。そして、手に入れた足は、お前が歩く度に痛むだろう。解るか? 魂のないお前が、陸を歩くことへの罰だ。お前は許されておらんのじゃ。……どうだ? それでも行くか?」
「はい」
魔女を真っ直ぐに見て、人魚姫は言いました。
「……そうか」
魔女は人魚姫を放すと、怪しげな薬品が並ぶ棚から、漆黒の液体が入った瓶を持ってきました。
「これを飲めば、お前は人間になれる。今すぐ飲むのは止めておいた方がいいじゃろう」
そして、魔女は呪文を唱えると、人魚姫から声を奪いました。
――ありがとうございます
差し出された瓶を受け取ると、人魚姫は心の中でお礼を言い、洞窟を出て行きました。
「……愚かな娘じゃのう」
呆れたような、面白がってもいるような魔女の声が、洞窟に響きました。
◇ ◇ ◇
――この辺りでいいかしら……
夜明け近く。浅瀬に来た人魚姫は、魔女からもらった瓶を取り出しました。蓋を開けると、意外なことに、何の臭いもしません。しかし、その毒々しい漆黒色は、人魚姫に飲むことを躊躇わせるのには十分なものでした。
――えいっ!
人魚姫は、思い切って瓶の中身を飲み込みました。――ッ!?
味はありませんでしたが、とたんに、人魚姫の体は激痛に襲われました。
――王子様……
全身に刺すような痛みを感じながら、人魚姫は意識を遠のかせていきました。
「――大丈夫かい?」
次に目を覚ました人魚姫の前に、王子様がいました。
――!?
驚いた人魚姫は、目を見開いて後ずさりました。地面に触れた足が、刺すように痛みます。
「よかった、大丈夫そうだね」
王子様は安心したように微笑みました。
「……丁度一年前、僕もキミと同じように、この砂浜に打ち上げられたんだ。その時、そこにある修道院の人に助けられたんだよ」
懐かしむような、愛おしむような王子様の表情に、人魚姫の胸がズキンと痛みました。
「そう言えば……キミ、名前は? どこから来たの?」
そんな人魚姫に気付く様子もなく、王子様は訊きました。しかし、声を失った人魚姫は、それに答えることが出来ません。
黙ったまま俯く人魚姫に、王子様は言いました。
「答えられないの? それとも、言いたくないの? ………それとも、声が出ないの?」
人魚姫は、ゆっくりと肯きました。
「そう……じゃあ、どこにも行くところは無いんだね?」
再び肯いた人魚姫を、王子様は自分のお城に連れて帰りました。
海の近くのお城に着いた人魚姫は、王子様にとても大切にされました。綺麗なドレスを着せてもらい、毎日美味しい食事も食べられて、何不自由ない生活でしたが、人魚姫は悲しそうでした。
「あの娘が忘れられないんだ……」
王子様が、そう人魚姫に言うからでした。王子様は、自分を助けた修道院の娘を愛していました。しかし、彼女は修道女。結婚することなど叶いません。
「キミは、あの人にとてもよく似ているんだよ……」
声を失った人魚姫は、王子様に本当のことを言うことが出来ず、ただ、淋しげな微笑を返すだけでした。
皆が寝静まった真夜中。人魚姫はお城の地下へと続く階段を、ひたひたと下りていました。それは、お城にある秘密の抜け道でした。
長い階段を下りて、地下通路を進む頃には、人魚姫の額は激痛を堪えた汗でびっしょりと濡れていました。
――あと少し……
ふいに、人魚姫の横をひんやりとした風が通り過ぎました。額に浮かぶ汗を乾かしたその風は、懐かしい潮の香りがしました。
足の痛みも気にせずに、人魚姫は小走りで、風の来た方へと向かいました。
――あ……
通路を抜けた人魚姫の目の前には、海が広がっていました。
―――ちゃぷ……
しばらくの間、満月の明かりに照らされた海を眺めていた人魚姫は、その後海まで降りていき、熱を持った足を、そっと海水に浸しました。少し強張っていた顔が、安心したように心地よさそうな表情になります。その顔は、昼間、人間でいる時の顔ではなく、あの日、海の上にやって来た人魚の娘の顔になっていました。
――……
人魚姫は冷たい海水が足の痛みを流していくのを感じながら、ここ数日のことを思い返していました。
最初の食事の時、人魚姫は手掴みで食べてしまいました。人魚の国ではナイフやフォークといったものがなく、王様もお后様も、それから姉たちも皆、手に持って食べていたからです。人魚姫は、はしたないからお止めなさいと、王子様の教育係をしている怖いおば様に注意され、王子様以外の他の人たちも、人魚姫を冷たい目で見ていました。
王子様がさほど気にしていなかったおかげで、その場はどうにか誤魔化せましたが、それから人魚姫は、何をするのにも誰かがするのを見て、それを真似することにしました。
また、お城に仕えている者――特に女たちからは、顔には全く出されていないものの、敵意のようなものが感じられました。それまで、人魚姫は誰かに敵意を向けられたことがありませんでした。人魚の国では皆、人魚姫にとても優しかったからです。それは、陸に上がってきてからの王子様も同じでしたが、人間は優しい人ばかりではないことを、人魚姫は知りました。
たった数日でも、こうして人間の世界で暮らしているうちに、今ではもう、人魚だったのは遠い昔のことのように感じられました。
しかし……。
――痛っ
人魚姫が足を動かすと、再び激痛が走り、すぐ波に流されていきました。
……しかし、こうして感じる足の痛みが、人魚姫に自分が人間ではないことを思い出させるのでした。
時折、こっそり逃げ出すような真似をしてまで海へ来ているのも、痛みに耐えかねて、足を冷やそうと思ったからでした。王子様の前ではとても軽やかな足も、夜になって横になると昼間動いた分だけ熱を持ち、とうとう今日、腫れてきた足に我慢できなくなったのです。そこで、王子様が「海が恋しくなったら、ここから見に行くといい」と、そっと教えてくれた通路を通り、ここに来たのでした。
――あなたは人間でも、私は本当は人魚……
人魚姫は、明け方近くに月が水平線に沈むまで、水上に大きく浮かぶ満月を眺めていました。
それからしばらくして、その日の夜も足を冷やそうと、人魚姫は海へと出て来ました。
「――人魚姫っ!」
と、聞き慣れた懐かしい声が、人魚姫の名前を呼びました。
――お、お姉様!?
海上で、四番目の姉が人魚姫を見ていました。
――どうして……
人魚姫が驚いているうちに、姉は近付いて来て、人魚姫に言いました。
「あなたがいなくなって、国は大騒ぎよ。経緯は魔女から聞いたわ。お父様も、お母様も、皆あなたを心配してる。――帰りましょう、人魚姫」
人魚姫は一歩下がると、首を横に振りました。
「どうして? ここにいても、幸せなことは何もないでしょう?」
姉は人魚姫を連れ戻そうとしましたが、人魚姫が海から離れてしまったため、できませんでした。
――王子様と一緒にいたいから……それだけで幸せだから。……それに、もう私は人魚に戻れないから――……
そんな姉の姿を見ながら、人魚姫は困ったような、哀し気な表情で、首を横に振るばかりです。
「……なぜ? 王子が好きだから? かれど、あの王子はあなたのことを妹のようにしか思っていないでしょう?」
姉は言いましたが、人魚姫はまた首を振るだけです。
「――人魚に戻れないからなの? それなら、私が魔女に言ってくるわ。あなたを人魚に戻すよう、あなたの声を返すように、って。だから、帰りましょう?」
――違う、違います、お姉様
人魚姫は首を振ります。
――違います……全て、私がやったことだからです。私が戻るために、お姉様たちの何かを犠牲にしてほしくないのです……!
「……戻る気はないのね……?」
静かに訊いた姉に、人魚姫は頷きました。
「そう……私は戻るわ。でも、戻りたくなったらいつでも海へ来なさいね」
姉はそう言うと、海中へと姿を消しました。――ごめんなさい、お姉様……
その姿を見届けて、人魚姫は、とぼとぼとお城へ戻って行きました。
ある日、王子様は、珍しい青い鳥を人魚姫に贈りました。鳥篭に入れられた青い鳥は、人魚姫を見上げています。
「キミにプレゼントだよ。昨日献上されたもので、きっと喜ぶと思ってね」
人魚姫は嬉しそうに微笑むと、青い鳥を見つめました。青い鳥も、人魚姫を見つめ返します。
――……。
しかし人魚姫は、青い鳥の悲しげな眼差しを見ると笑みを消し、王子様を振り返りました。そして、静かに首を振ります。
「気に入らなかったかい?」
人魚姫は、なおも首を横に振ります。
「それなら、どうして……?」
途方にくれたような人魚姫の顔を見て、王子様は気が付きました。
「……もしかして、逃がしてほしいの?」
人魚姫は、肯きました。そして、鳥篭をそっと持ちます。
「可哀想だと思ったんだね。いいよ、僕は構わない。キミが好きにして」
人魚姫は微笑むと、針の上を歩くような痛みを我慢しながら鳥篭を窓辺へと持っていき、入り口をそっと開け放ちました。青い鳥は、お礼を言うように人魚姫の周りを一周すると、空の彼方へ飛んでいき、やがて見えなくなりました。
それを見ながら、人魚姫は、この幸せがこの先いつまでも続くようにと、願っていました。
◇ ◇ ◇
しかしある時、とうとう人魚姫の恐れていたことが起こりました。行儀見習いとして預けられていた娘が、修道院から戻ってきたのです。
「婚約が決まったんだ」
王子様は大喜びで、そう、人魚姫に言いました。
――おめでとうございます、王子様……
人魚姫は、悲し気な瞳で、王子様に微笑みました。
ひと月程して、王子様と娘の結婚式の日がやってきました。式は着々と進み、人魚姫も花嫁のヴェールを持つ役もしました。
式の後、船の上でパーティーが行われました。二人が休むと、長かった一日は、もう終わりも間近です。
――……。
人魚姫は、皆が寝静まった甲板に、独りで立っていました。
―――ぷか……
浅く溜め息をついた口から、泡が飛び出しました。
――朝が来たら、私は消えてしまうのね……
人魚姫は諦めたような瞳で、初めて地上に出たあの日と同じ星空を眺めていました。
――どうか、幸せに……
うっすらと明るくなり始めた空に、人魚姫の視界に残っている星が滲みました。
「――人魚姫!」
その時、人魚姫を呼ぶ声がしました。
見ると、人魚姫の五人の姉たちが、海面から人魚姫を見上げていました。
「まだ間に合うわ! 魔女に髪をあげて、ナイフをもらって来たの。これで王子を殺せば、あなたは消えない、人魚に戻れるのよ!」
そう言ってナイフを投げてよこした姉たちの美しかった髪は、短くなっていました。
「早く! 時間が無いわ!」
姉たちの声に押されるように、渡されたナイフを持った人魚姫は、痛む足を引きずりながら、王子様と娘の眠る部屋へと向かいました。
王子様と娘は、幸せそうに眠っていました。
――……。
しばらく二人を見ていた人魚姫は、振り下ろそうとしていたナイフを、力なく下ろしました。そして、部屋を出ると、顔を歪め、出ない声を振り絞って泣きました。しかし、一滴の涙もありません。代わりに、口から絶えず泡を出しました。
「――だから愚かだと言うんじゃ」
浮かび上がる泡が増え、いよいよ朝が近付きはじめた頃、低い声が響きました。
忘れることのないその声に、人魚姫が顔を上げると、魔女がいました。
「お前は、姉たちが用意した最後のチャンスさえも無駄にする気かい?」
相変わらずの冷笑を湛え、魔女は、薄闇に浮かぶようにして、人魚姫を見下ろしていました。
――……。
泣き止み、何も言わない人魚姫に、魔女はますます顔を歪めます。
「……見ろ、泣いても涙が出ておらんじゃろう。お前が魂を持っていないからじゃ。人形と同じじゃよ。そんな無様な姿で壊れるつもりかい?」
――……。
精気の失せかけた人魚姫の表情が、わずかに揺れました。
ゆっくりと立ち上がった人魚姫は、魔女を振り返らずに、足を引きずりながら、再び部屋へと消えていきました。
◇ ◇ ◇
――王子様……
人魚姫は、ナイフを振り上げながら、王子様に向かって口を動かしました。それに合わせて、泡が天井へ上っていきます。
――王子様……あの日、王子様を助けたのは私でした。その娘ではありません……
人魚姫は、王子様の隣で眠る娘を見ました。
――王子様……私は、あなたを追って地上に来ました。なのに……
人魚姫の顔が、苦しげに歪みました。
――王子様……なのに、声が出なくて、あなたに何も言えなかった……
人魚姫は、顔を伏せました。
――王子様……私は、人魚です。人魚姫です。魂のない、人形のように空ろな人形姫です。
人魚姫は、顔を上げました。
――王子様……姉たちが、私が死なないように、ナイフをくれました。でも……でも、私には出来ません。あなたを殺すなんて、出来ません……
人魚姫が開けた口から、泡が立ち上りました。
――王子様……私は、消えるのでしょうか?
人魚姫は、痛む足で、娘の方へと歩き始めました。
――王子様……もっと、一緒にいたかった……。消えたくないです……消えたくない……消えたく――……
心の中で呪文のように唱えながら、人魚姫は娘の前で立ち止まりました。
――王子様……私は……――生きたい……!
娘を見つめた人魚姫の瞳は、どこか虚ろで、しかし、これまでで一番、精気に満ちていました。
―――ヒュッ
人魚姫の持つナイフが振り下ろされ、ナイフは娘の胸に深々と突き刺さりました。……しかし、血は出ていません。すぐに、人魚姫はナイフを抜き取り、今度はその切っ先を、自分の胸へと向けました。
――王子様……!
目を閉じて、人魚姫はナイフを自分に突き刺しました。鋭い痛みに、人魚姫の体が一瞬震え、娘の上へ倒れ込みました。
次に人魚姫が目覚めると、既に太陽が昇った後でした。
「――王子様……?」
そう呟いた声が自分のものではなく、人魚姫は慌てて辺りを見回しました。隣に、王子様が眠っています。
近くに置いてある鏡に映った自分の姿を確認した人魚姫は、自分があの娘になっていることを知りました。
――神様……!
ありがとう、本当にありがとう、そう心の中で叫びながら、人魚姫は喜びに涙を流しました。
◇ ◇ ◇
むかしむかし、青く澄んだ海の底に、人魚の国がありました。
その西の暗い洞窟に、一人の魔女がいました。
「……愚かな娘じゃのう」
闇に満ちた洞窟に、呆れたような、面白がってもいるような魔女の声が、低く響いていました。
―fin―