第二章 第二話 嫉妬の痛み
「はぁ、はぁ、すいません。・・・まさか・・・・夏休みに・・も・・・部活があるとは・・思って・・・いな・・・く・・て・・・」
桜は化学室の扉の前で右手で壁を付き、ぜぇ、ぜぇと肩で息をしながら言った。
服もこの真夏の中を全速力で走ったせいか、汗で服が体にべっとりとくっついてしまいピンクと白の花柄のブラジャーが透けて見えてしまっていた。
桜はそんな事は何も気にせずに
「おう、白神!!やっと来たか!!」
小笠原が大きな声で桜を呼んだ。
ゼェゼェ言う桜を見てギョッと驚いた表情をして
「白神、どうしたんだ!?」
桜は深呼吸をして落ち着きをある程度取り戻してから
「まさか、夏休みに部活をするなんて思っていなくて、さっき森下君から部活があるって聞いて走ってきました」
「そうか、なんか申し訳ないことをしてしまったな。まぁ、部活があると言っても夏休みに部活に来るのは運動部か文化系は演劇、吹奏楽部くらいだからな。ほとんど来ないんだ。みんなでゆっくりお茶を飲んで待とうじゃないか」
「はい」
桜の雪のように白い頬が少し赤くなった。
「だが、なんか服が透けてブラが見えてるからな。このままじゃ風邪をひく。保健室に体操服があるから取ってきたらどうだ?」
「はい。そうします」
桜は保健室に行って体操服に着替えて化学室に戻る。
そして、森下がここに自分を呼んだ理由を暫くの間考えてみる。
いや、森下君と小笠原が化学室に私を呼んだ理由を考えてみるのが本当は正しいのかもしれない。
化学室に戻ってみると化学室には森下と小笠原の二人がいるだけで他には自分以外には誰もいなかった。
森下は相変わらず何やら変な実験をしていて、小笠原はカバーが付いている本を読んでいた。その本の内容は、よく分からなかった。
「あれ?他の人達はいないんですか?」
小笠原は本を閉じてぐるりと体ごと桜の方に向けて
「前のミーティングに来ていた人たちかい?」
桜の胸がキュッと何者かに握りしめられるかのように苦しくなった。
それを抑えるかのように少し自分の胸に手を当てる。
「はい」
「来てないな。別に、部員になったって必ず来いというわけではないからね。うちの部活の参加は希望制だからな」
「え?そうなんですか?」
ということは、森下くんは私に嘘をついたということだ。
一体何の為に?
「ああ、そうだ。この部活は自分のやりたい事を見つけるためにあるんだからな。やりたいことがあるやつはここには来ないよ」
「それじゃ、小笠原先輩や森下くんは無いんですか?その、やりたいことというやつは」
桜がそう聞くと、急に小笠原の目が真剣になった。
小笠原の真剣な瞳に見つめられて桜の心臓の鼓動は一層速くなった。
それは自分が小笠原先輩の事が好きで見つめられたから速くなったと当時は思っていたけれど、よくよく考えてみたら小笠原先輩の雰囲気がその時一変していたように思う。
劇的では無いにしても、オレンジ色から真紅色くらいには変わっていたように今では思う。
どうしよう?恥ずかしくて目を逸らしてしまいそうなのに先輩の目を見ていると目を逸らす事なんて出来ない。
「ある。俺も森下もやりたい事、熱中している事はある」
「何に熱中しているんですか?」
「俺はこの部活を通して色んな人の成長を見てみたい。だからこうやって冒険部で活動をしているんだよ。俺は。それに、熱中していることならもう1つある」
「それは何ですか?」
「ギャルゲーだ」
「へ?」
桜の目が点になる。
ぽかーんと口が半開きになる。
ギャルゲー?
なにそれ?オイシイノ?
「あの、ギャルゲーって何ですか?」
小笠原はニヤと笑って右手を顔に当てながら
「フ、白神さん、よくぞ聞いてくれた!ギャルゲーというのはだな、簡単に言えばゲーム内で女の子とイチャイチャするゲームのことだ!!」
「へ、へー。そうなんですか」
桜は引け気味に、乾いた声で相槌を打ってみせる。
「うむ。そうだ。俺のオススメは何と言っても『妹とイチャイチャしよう!!」だ。これは累計300万本売れた誰もが知る超大ヒットしたギャルゲーだ!!」
いや、私そんなの知らないし。
そんなこと私に言われても困るだけなんですけど。
桜は心の中でポツリとツッコミを入れる。
「何、白神さんもやればギャルゲーの醍醐味が分かるよ。ギャルゲーをやらなければ人生の7割は 損をしている!ギャルゲーは俺にとって人生そのものと言っても過言では無い!」
そこまで言うのか!!
小笠原はにやにやと顔の筋肉を緩ましている。
桜はショックを受けた。
好きな人がまさかそんな趣味を持っていたなんて信じられなかった。
だが、彼女はそれを認めなければいけなかった。彼女は、見た目は平静を保っていたが、心の中では、酷く動揺をしていた。
恐らく、この事実を彼女が消化し切るのには時間がかかるだろう。
でも、それは、彼女、白神 桜はちゃんと受け止めなければならない、受け止めなくてはいけない事だった。向き合わなければならない事だった。
しかし、桜の心は混沌としていた。混乱していた。
全くどうすればいいのかさっぱり分からないという状態であった。
私には分かんない。分かんないよ。私はどうすればいいの?小笠原先輩にどう答えたらいいの?
「あの・・・先輩」
「ん?なんだ?白神さん」
桜は自分の爆発しそうな感情を押し殺す。
「先輩は・・その・・・なんでギャルゲーが好きなんですか?ギャルゲーのどこに惹かれたんですか?」
小笠原は暫くの間こめかみに右手のくるぶしを当てて考え込んだ。
「そうだな。やはり、ゲーム内に出てくる女の子がかわいいって言うのが一番だな」
「可愛い・・・ですか?」
桜は顔にむぐぐと眉間に皺を寄せる。
「そうだ。かわいいだ。かわいい と言っても外見だけじゃない。いや、外見ももちろんかわいいのが大大大前提だけどね。それでも、ヒロインの仕草や言葉遣いがかわいらしいのが俺の心を鷲掴みにするのさ」
針で刺されるような痛みが桜の心を襲う。加えて、じわりと目頭が熱くなっていくのを感じた。
「白神さん?どうした?」
小笠原の春のそよ風のようなふんわりとした優しい声が聞こえるが、今の桜の耳には全く聞こえていない。
桜の頬には、涙の滴が綺麗なラインを描いていた。
こんな顔、先輩の前で見られたくない。
桜は涙声で声を震わせながら
「すいません。今日は帰ります」
「えっ!?」
桜は鞄を勢い良く掴んでダッシュで化学室を抜け出した。
「ちょっと!白神さん!?」
後ろから小笠原の声が廊下に響く。
悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい。
何故だか分からないけど悔しい。
まだ、心がチクチクと突き刺さる。
さっきよりも胸の苦しみが増していた。
『俺の心を鷲掴みにするのさ』
小笠原の放った言葉がヅキヅキとした痛みとして桜の胸を襲う。
苦しい。とにかく苦しかった。
桜の目からはぽろぽろと涙が溢れんばかりに流れる。
桜は自分の気持ちを振り払うかのように一心不乱に走り続けた。
走る。走る。走る。
とにかく走り続ける。
こんな気持ちは初めてだった。自分の気持ちが分からなかった。桜の心は黒い靄がかかっているかのように不安定だった。
校門を出て、学校から一番近くの公園に差し掛かったところだった。
その時、ぎゅっと大きくて、ゴツゴツした、でも温かいものが桜の手を握った。
「待ってくれよ。白神さん」
桜はその声にピクリと反応してうつむきながら後ろを振り返った。
そこにいたのは小笠原だった。
「な・・んで」
「なんではこっちのセリフだ。白神さん。なんでいきなり走って帰るんだよ。心配するじゃないか」
あんたの、小笠原先輩のせいじゃないですか。
桜は俯いたまま恐る恐る小笠原の顔を見る。
小笠原のハーフ混じりの整った、いつも通りの爽やかな顔と明るい金色の髪が見えた。
「そ・・・れは・・」
「それは?」
言えない。どうしても言えない。
まさか、ギャルゲーの中の女の子に嫉妬をしたなんて口が裂けても言えない。
「先輩には、関係ない事です。さよなら!」
「ちょっ!?白神さん!?」
桜は掴んで来ようとする小笠原の手を払って再び走り出した。
「ちょっと!」
小笠原は右手を伸ばし、固まったまま動かなかった。
いや、動けなかった。また、なんか自分が言っても今の桜の耳には何も届かないという事が分かっていたからだ。
小笠原は桜をこうさせたのは自分の責任だと感じてはいたが、彼にはそれをどうすることも出来なかった。
小笠原の心 の中には罪悪感がドロドロに残っているだけだった。
一方、桜の心は自分の気持ちの整理がつかずに宙を彷徨っていた。
自分の力ではどうすることも出来なかった。これからどうすればいいのか。何をしていけばいいのか全く分からなかった。




