治癒能力者は認めたくない
望月出弦は、物凄く困惑していた。
部活の料理研究会が終わった高校からの帰り道、ドラッグストアに寄って母に頼まれた買い物を済ませた。ここまでは良い。
夏の夕暮れに暑苦しい大通りを歩くのが嫌で、近道をしようとひんやり薄暗い路地の隙間に入り込んだ。これも良い。
ビニール袋をガサガサぶら下げて歩きながら、今日の部活で友人が製作途中のタルト生地に、小麦粉と間違えてキナコをぶち込んだことを思い出した。だが友人テメェは駄目だ。
キナコの塊にしかならなかったタルト生地は色んな意味で不快な経験だったが、まあ多分現状には関係ない。もしあったら自分は是が非でも舞い戻って、奴の間抜け面に渾身のパロ・スペシャルを食らわせてやらずにはいられない。
いやいや、そんなことよりも――
「――何処よ、ここは」
ぼそり、と一声そう呻いて。
セーラー服のスカーフを揺らし、出弦は周りを見回した。
そこに広がっているのは、道すらもない森の中。平地か山かさえ分からないが、取り敢えず鬱蒼と茂る木々の色は、街の中ではなかなか見ない濃い緑色に染まっている。
ギャア、ギャア、と響くのは、遠い鳥の鳴き声か。遥か上空に見える太陽の色が、今の時刻が夕刻に程遠いことを教えていた。
背後を振り向いてみても、たった今抜けてきたばかりの路地の入り口は見当たらない。
流石に茫然と立ち竦み、出弦はぐるぐるする思考で、何とか原因を探ろうと記憶を漁った。
暗い脇道にホラーな雰囲気を感じ、天神さーまの細道じゃー、とか、微妙に縁起の悪い歌を歌っていたのが悪かったのだろうか。
それとも、塀と細長い電柱の隙間を、何気なく潜ってしまったアレだろうか。
はたまた、路地の途中の夕日差す四つ辻を、ひょこひょこ呑気に渡ってしまったアレだろうか。
――あ、ダメだ、あたし結構色々やってる!
愕然と口をかっ開きながら、出弦はビニール袋を意味なく上下させたり、その場でぐるぐる回転したりし始める。人間混乱すると何をし出すか分からないという良い例である。
「え、コレ、え、うっわ、え、ヤバいコレ絶対ヤバい。え、誘拐? むしろ誘拐であって欲しい。でも人のいる気配がない」
オロオロと回るのをやめて携帯電話を取り出すも、当然のように圏外だ。
顔を引き攣らせて天を仰いだ出弦の頭上を、羽が八枚ある巨鳥がグゲェと鳴きながら通り過ぎていった。
羽、多過ぎだろ。
「……どうしてこんなことに……」
茫然と鳥を見送った後、出弦はがくりと肩を落として項垂れた。
異世界だ。ここは間違いなく異世界だ。あんな生き物が地球上に存在したら、絶対に世界規模のニュースになっているに違いない。
認めたくない事実を認めてしまって、出弦は深々と溜め息をついた。
(普通に後戻りしても、元の道には戻れそうにないわね。こうなったら、まずは人間を見つけないと……食人の習慣がないと良いなあ)
いつまでも此処にいたって、飢えと猛獣の危険が近付くだけだ。
少ない荷物を大事に抱え直して、出弦はのろのろと森の中を歩き出した。
さらさらと響く涼しげな音が、期待通り川のせせらぎであれば良いと思いながら。
※※※
茂みを掻き分け、緑を抜けたそこにあったのは、やはり細々と流れる澄んだ川だった。
ひとまず水を確保できそうで、出弦は安堵の息を吐く。川を辿っていけば、人の住む場所にも出られるだろう。
――魚でもいないかなあ、とか。
新たな期待を胸にして川に歩み寄った出弦は、その時茂みが鳴る音を聞いて振り向いた。
そこにいたのは、茂みに半分体を突っ込み、出弦の方を見詰めて固まっている一匹の黒猫。
察するに、先客であるこの猫が出弦に気付かれる前に逃げようとしたところで、うっかり物音を立ててしまい固まった、という辺りだろうか。
猫の割にはドン臭いと思いつつ、出弦は荷物をその場に置いて、
「ニ゛ャー!!?」
さながら飛び込み台からダイブするスイマーの如く跳躍して、一挙動で猫に飛び付いた。
絶叫して暴れる猫を両手で抱え込み、出弦はじっくり猫を観察する。
どうしてこんな森の中に猫がいるのかは分からないが、手足は四本、体格は出弦の目にも慣れたサイズ。左後ろ足に大きな傷があったが、滲み出る血は普通に赤かった。金色の目は二つだし、尻尾が二又に分かれているわけでもない。
「よっしゃ猫、ちょっと付き合って。あたしの荒んだ心をアニマルセラピーで癒して欲しい」
ふざけんな!と言うようにギャーコラ鳴く猫を引っかかれないよう巧みに抱え、出弦は改めて川へと歩み寄る。
大方この猫は、傷を洗うためにこの川へやって来たのだろう。一時の癒しを提供してもらう以上、自分がこの猫の手当てをしてやっても構わない。ドラッグストアのビニール袋には、サッカー部所属で怪我が多い弟のための包帯や栄養ドリンクが入っていた。
「はいちょっと動かないでねー、足見せてー」
洗うにしてもまずは傷口を確認せねばと、出弦は瀕死とばかりに抵抗する猫の体を容赦なく押さえる。ギニャーギニャーと吠え猛る猫を片手でしっかり抱えて、暴れる足の傷に触れた。
その瞬間。
「……は?」
ぽう、と緑色の光が散って、出弦は動きを停止させた。
出弦の見ている目の前で、細い足を大きく抉っていた傷口が、見る見るうちに再生していく。
新しい肉と皮膚に覆い尽くされた元傷口が、最後に艶やかな黒い毛皮を纏うのを見届けて、唖然と口を開けていた出弦は我に返った。
自らの身に起きたことを理解したのか、猫の方もまた茫然としているように見える。
揃って間抜けな顔で見詰め合った後、出弦はようやく声を発した。
「うわあ……猫スゲェ」
「オメーだよ!」
思わずといった様子でツッコミを入れる黒猫に、出弦はブンブン手を振った。冗談じゃないと言いたげに、心の底から否定する。
「違うから。これはアレ、特別なのは猫の方だから。猫の固有の特殊能力だから」
「いや、どう考えてもお前だろ。オレそんな特殊能力ねぇよ」
「じゃあ今目覚めたんでしょう常識的に考えて。命の危機に瀕してあんたの特殊能力が発動して、あたしの生命力吸い取って怪我を治した系のアレだから。例えて言うならエネルギードレイン。キュアでもヒールでもない」
「だから違うって言ってんだろしつこいよお前! なんでそんな頑なに原因をオレに押し付けたがるんだよ!?」
「馬鹿野郎、異世界来た上に治癒能力持ちとかやってられるか! 捕まって人体実験されて生皮剥がれて解剖されて、死ぬこともできずに兵器として使い潰された挙げ句能力遺伝の確認のために強制妊娠出産ルートが待ってるからに決まってるわ!」
「この一瞬でそこまで悲観的な未来想像してたのコイツ!? でもあり得る怖い!」
慄く黒猫に、出弦はギリィと奥歯を噛み鳴らす。顎に手を当て、ちらりと猫を見やって呟いた。
「……口を封じるべきか……」
「だから怖いわァァァ!」
心底ドン引きする猫に、出弦は尚もぶつぶつと呟いている。危険な光を宿しつつある少女の目に、猫は顔を引き攣らせながらそろそろと後退り始めた。
「口封じ……まずは自分の身の安全を最優先に……所詮この世は弱肉強食……衣食足りて礼節を知る……。いや、でも待てあたし、相手は猫だ。人間でもあるまいし、他人に喋ることなんて……うわあァァァァァァァ猫が喋ったァァァァァァァ!!?」
「遅ェェェェェェェェェ!!?」
幾度目かの絶叫は、不協和音となり重なって。
誰一人歯止めをかけてくれる良識人もいないまま、高い高い空へと消えていった。
《登場人物》
※望月出弦
料理研究会所属の高校一年生。三歳年下の弟がいる。容姿・成績共にごくごく普通だが、このたび望んでもいない異世界トリップで望んでもいない特殊能力に目覚め、ひたすら何かに八つ当たりしたい気持ちで一杯になっている。プロレス観戦が好き。某筋肉超人はもっと好き。
日和見主義者と自負しているが、開き直ると存外はっちゃける強かな性格。何の脈絡もなく得てしまった自分の特異性を、断じて他人に知られたくない。今すぐ元の世界に帰るか、山に籠もって隠遁したい今日この頃。
※ジズ
黒猫の獣人。色々訳ありで絶賛逃亡中の身だが、多分これから出弦に全力で振り回されるようになる若干不運な十九歳。
呪詛までかかっていたはずの怪我をあっさり治されて、きっとこの先出弦の治癒能力の有用性と本人に対する罪悪感の板挟みになる運命の、基本性質お人好し。好感度が上がれば人型も見せてくれるぞ!