09
――ずっと、ずっと探していた――
暗く冷たい深海から、ほの明るい暖かい海面近くを行き来しながら。
気の遠くなるほど彷徨い続けた年月はその目的さえ忘れさせ始めるほどに。
けれど見つけた。
あの奇跡の日。
やっと 見つけた。
やっと 巡りあえた。
そして、あの時からずっと、ずっと、見守ってきた。見つめてきた……
人影の消えた海岸でゆるりと滑るように沖へ向う茶色い影が呟いた。
――もうすぐ、きっと、もうすぐ――
夏の時が駆けてゆく。
盆の迎え火を焚く頃には子供達の姿も海から消える。その季節限りの賑わいは徐々に静けさを取り戻し次の季節への序奏を始める。
ほの青いトンボがすっと二人の間を抜けて行った。
人気の無くなった海を前に二人は変わらずその場所で、少しだけ距離を空けて並んで座って沖を見ていた。初めて知り合った頃は間にもう一人くらい人の入るほどの距離だったのが今日はトンボ一匹がようやくするりとすり抜けるほどに近くなっていた。残暑の下で山から吹き抜ける木陰の風が涼しい。
「もう誰も泳ぎに来ないんだね」
「お盆やもん。これからはもう誰も海では泳がんなる」
盆を過ぎた海は遊びの海では無くなる。
三日後の送り火を合図にするかのように海岸端では薄白く大きな海月がまるで来る者を拒むかのようにふわりふわり漂い始める。
「ふぅん、もう誰も来ないんだ」
いつもとうってかわった静けさに気を抜かれたような感じで二人の言葉もどこか上の空、宙を漂うように流れて消える。
海に向って飛んだとんぼが少し先でくるりと旋回し戻ってきて少年の鼻先をかすめながらまた木陰に消える。
「忙しそうに飛ぶなぁ」
クスクスと彼がいつもの調子で軽く笑う。
思い出したように佐和子が聞いた。
「そういえばあんたはいつまでこっちにおるん?」
「いつまでって?」
不意を付いた問いかけに彼は佐和子を見つめ訪ね返すが、佐和子は少しうつむいたまま、足元に並ぶテトラポットの陰にうごめく舟虫の群れを見つめたまま。
「だって、夏休みで田舎に来とるだけなんやろ?都会なんかから遊びに来とる子らは盆が終わったら大抵帰ってしまうけん、あんたもそろそろ帰る時期なんと違うん?」
「帰る……そうだね……」
佐和子を見つめていた瞳が流れるようにふっと沖に向けられた。
――帰る、うん、帰るよ、もうすぐ――
最後の言葉を飲み込んで静かになってしまった少年の横顔を盗み見るように、うつむいたまま目だけ動かし覗き込んだ。
――やっぱ、よう解らん子だわ――
灯台からずっと手を繋いで歩いてきた。冷ややかな薄い掌。彼の事を何も知らない佐和子だったが、あの僅かな時間、手を繋いでいる間だけ佐和子は彼の謎めいた不確かな部分を全て忘れ去り、とても身近に感じてしまった。
あの自然に触れ合った一時が今はもう無い。
あの一時を思い出しながら佐和子はじっと掌を見つめ思い出していた。
もう一度手を繋いでみたい……それで少年の何かが解るというわけではないのだけれど、あのとても身近に思えた瞬間をもう一度感じてみたい。触れ合って、それで彼の何が解るとうものではないのだけれど。この謎の多すぎる少年の解らない部分を飛び越えて通じ合う何かを感じる気がする……
掌から意識をずらし、もう一度少年を振り返る。
目と目が合った。
どきりと佐和子の胸が高鳴る。
「手、どうかした?」
真っ直ぐに問いかけてくる彼の唇の動きに、じっと見つめてくる瞳にどぎまぎして言葉が詰まる。
「べ、別に……!」
戸惑いを隠すように慌てて堤防の上に立ち上がりスカートのお尻の部分をぱさぱさと叩きながら細かい砂利を払う。
「私、もう帰らな……」
「そう?また明日もここに来るよね?」
彼がそう聞いたのは、急に誰も来なくなってしまった海を見ていてもしかしたら佐和子も……と、思って不安になってしまったから。
いつもと変わらず日がな一日遊んでいた子供達が突然姿をそこから消した。佐和子も、このお盆という行事を境にここから姿を消してしまうかもしれない……
――そうなってしまったら僕は……
「しばらくは来れんよ……お盆の間は」
不安が的中してしまった。
「もう? 来ないの?」
「うん、お盆の間はちょっとね、家をあんまり空けたくないんよ」
盆には死んだ家族が帰ってくる。その為の迎え火、その為のご馳走。その為の花。その為の掃除。盆の間は帰ってきた懐かしい人達のためだけに家中が廻る。
「私も何だかお盆の間はお父さんやじいちゃんばあちゃんたちが居るような気がして、何となしやけどあんまり留守にようできんのよ」
「そう……」
「今時の若い子の考えることやないて、お母さんは笑うけんどね」
照れて笑いながら語る佐和子の言葉を一言一言噛みしめながら彼は聞いていた。
「じゃぁ、そのお盆が終わったらまたここに来る?」
「え?」
少年の黒い瞳の奥が懇願するような含みを込めて揺れて見えた。佐和子にはその表情をどう解釈していいか解らずに「うん、まぁ」曖昧に答えるしかできなかった。
そしてそれは盆の間の僅か数日間彼女をちくりと悩ませ続けた。
――あそこへ行こうか……
行けば少年がいるかも知れない。自分を待っているとは限らないだろうけれど。一人でぽつんと沖を眺める少年の姿を想像するとやりきれない思いで切なくなる。
しかし久々に連休をとった母親とゆっくり過ごせる貴重な期間。二人で父と祖父母の思い出に浸りながらのんびりと過ごせるのは盆と正月の他に無い。昨日会った少年の様子では本来彼の住む街へ帰る様子は少なくとも夏休みの間は無いのかも……自分で自分に言い聞かせながら、けれど家の前の海を見ればやはり彼のことが気にかかってしまう。
彼が気にかかりながらも過ぎてゆく三日間。静かな雨の中、軒下で焚いた送り火の煙が昇る夕暮れ。
「もうお父さんもじっちゃんばぁちゃんも帰ったかねぇ」
夕食の後佐和子の母親がテレビの画面をぼんやりと眺めながら呟いた。
「そうやねぇ」佐和子の返事はどこか上の空で、それはこの盆の間その調子だった。
――何か思う所でもあるんやろうか――
心配事か悩み事でもあるのなら聞いて力の一つにでもなってやりたいと思うが、親の方からあまりあれこれ先走って聞かれるのも五月蝿かろうと思いとどまる。
「ねぇ、佐和子」
「うん?」
二人とも視線はテレビから動かないが番組の内容は頭の中に入ってこない。流れてくるアイドルの歌声と客席の甲高い声が宛てなく宙に漂い消える。
「お父さんが死んでからあんたには苦労かけとると思うんよ。家のことなんかで友達と遊びにもよう行けんで、なのに愚痴も言わんとほんとにようやってくれとると思うんよ」
「……ん……」
頭の片隅で急に何を言い出すのだろうと思いながら『あぁお盆やもんね』と母親も感傷的になっているのだと解釈しながら相槌をうつ。
「ありがたいなぁて思ぅてる」
「……ん……」
せめて一言くらい母親らしい事をと話しかけた言葉を覇気の無い娘の返事で諦める。
――まぁいいわ。年頃の女の子だもの、いろいろ考えることもあるわよね――
そういえば自分もその年頃には母親に内緒で交換日記の一つもした男の子がいたりしたものだ……そう思えば娘の思春期らしい“ぼんやり”も懐かしく可愛く思えなくもない。
「あのね、佐和子」
「……ん……」
「好きな男の子とかできたら、お母さんにもどんな子か教えてよね」
「何それ」




